32話S 栞の葛藤
私は、一体どうしてしまったんだろう。
あんなに力強く、綾さんの背中を押したはずなのに。
彼女の未来を願っているはずなのに。
ぽっかりとした大きな穴が開いてしまっている。
私は、助手席のシートに深く背を預け、のんびりと流れていく外の景色を眺めていた。
視界を過ぎ去る街並みはひどく無機質で、どれだけ目を凝らしても、胸の内の空虚さを埋めてくれるものは見当たらない。
「栞……聴いてる? ……ねえ、栞ってば」
ぼんやりした意識の隙間に滑り込んでくる、どこか現実味のない声が聞こえてきた。
ハッとして気が付いた私は、弾かれたように隣を向いた。
意識が急浮上し、私は弾かれたように隣を向いた。
「な……っ。ごめん、ぼーっとしてた。何、秋子さん」
「今からそんな調子じゃ思いやられるわ。本当によかったの?」
「良かったって……何が?」
誤魔化すように問い返したけれど、秋子さんはハンドルを握ったまま、聞いてきた。
その横顔は、いつもの秋子さんとは少し違って見えた。
「綾ちゃんのことよ」
その名前が出た瞬間、心臓が小さく跳ねた。
もちろん、いいに決まっている。
私が、背中を押さなかったら、何が友達なんだろう。
綾さんには、圧倒的なサッカーの実力がある。
そんな才能を、過去の綾さんとは関係ないところで鵜もさせてはいけないと思う。
彼女自身もサッカーが大好きならなおさらだ。
だったら、私は全力で背中を押してあげたい。
世の中には、望んでも出来ない職業はたくさんある。
彼女には、自分の力で運命を勝ち取るだけの、本物の力があるんだから。
頭では、分かっている。
何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに。
私の思考を遮るように、秋子さんが、さらに冷ややかな追撃を放った。
「それとは別に、今回の件は夏休みで終わりにしてくれると、会社としても助かるわ」
「それは……前に言ったじゃん。私の給料の一部を削ってもいいって。だから、会社には金銭的な迷惑はかけてないし……」
「栞。わかっていて、そう言うのは、あまり良くないと思うわ」
一瞬、車内の空気が凍りついた。
隣で運転しているのは、あのおっとりしたお姉さんじゃない。
水無月プロダクションの凄腕マネージャーとして有名な水無月 秋子さんの顔だった。
「だったら、このまま彼女を放置しろってこと!? 彼女に、行く場所なんてないのに!」
私は秋子さんに向かって、自分でも驚くほどの怒声を張り上げた。
もちろん、彼女が悪いことを言っていないのは知っている。
巨大プロダクションの経営からすれば、それはあまりにも当然で、あまりにも正当なリスク管理だ。
人気女優・霧生栞。
その身の回りを世話するハウスキーパーが、殺人犯の娘であるという事実。もしそれがスキャンダルとして世間に漏れれば、私のキャリアも、そして綾さんの平穏も、一瞬で瓦礫の山に変わる。
「そうは言っていないわ。……ただ、このまま唯に預けてしまうのが、最善の落とし所なんじゃないかと思っているのよ」
「それは……ずっとイングランドにいろってこと? もう日本には帰ってこないってこと!?」
「ええ、そうよ。あちらの環境なら、彼女の出自を気にする人もいない。……それが、彼女を守ることにもなるわ」
私は、返事ができなかった。
反論しようにも、秋子さんの言葉は完璧な論理で武装されている。
けれど、それを認めることは、ほとんど綾さんに会えなくなるというのは、死刑宣告と同じに聞こえてきた。
あの凛とした赤眼も、無愛想に差し出される完璧な料理も、私のわがままを静かに受け入れてくれる時間も。
全部、海を越えた向こう側に、永遠に閉じ込められてしまう。
そんなの、嫌だ。
喉の奥まで出かかった叫びを、私は強く唇を噛んで押し殺した。
静まり返った車内に、小さく、けれど重い音が響いた。
秋子さんが、わずかに肩を揺らしてため息をついたのだ。
彼女のことは、私が物心つく前から知っている。
事務所の社長令嬢であり、私のわがままを一番近くで受け止めてくれる、本当の姉のような存在。
そんな彼女が、あんなふうに諦めと懸念の混じったため息をつくところなんて、これまでの長い付き合いの中で一度も見たことがなかった。
「……栞。そこから先は、地獄を見るわよ」
前を見据えたまま放たれた言葉は、ナイフのような鋭さで私の胸に突き刺さった。
「地獄って、何よ……。私だってこの世界の仕組みくらい、嫌っていうほど分かってるつもりだけど」
強がって言い返したけれど、自分の声が情けなく震えているのが分かった。
秋子さんはハンドルを切る滑らかな動作のまま、さらに深い踏み込みをかけてくる。
「ええ、そうね。普通の恋愛なら、私も反対はしない。事務所としても、節度のある関係なら、むしろ芸の肥やしになると応援するくらいだわ。……でもね。相手が同性となると、話は別。それはあまりにも不毛な道になるわよ」
「な……っ。何、言って……。そんなんじゃないってば!」
頭に血が上るのを感じて、私は必死に否定の言葉を紡いだ。
けれど秋子さんの声は、どこまでも冷静に、私の内側の柔らかい部分を暴き出していく。
「そうかしら? 最近のあなたを見ていると、まるでお手本通りの、恋に落ちたばかりの少女よ」
「……っ。友達を気にするのは、普通でしょ! それに、あんな……あんな過酷な境遇に置かれてるんだから、放っておけないのは当たり前じゃない」
そうだ。これは友情だ。
殺人犯の娘という重荷を背負いながら、懸命に前を向こうとする綾さんを支えたいと思うのは、人間として当然の感情のはずだ。
必死に自分を納得させようとする私の横で、秋子さんはふっと、僅かに声を和らげた。
「そぉ。……栞、あなたのおかげで水無月プロダクションもここまで大きくなった。母も私も、心からあなたに感謝している。だからこそ、私は出来る範囲で、全力であなたをフォローするわ。……今なら、まだ傷は浅くて済むわよ」
「だから、そんなんじゃないってば! 朝から変なこと言わないでよ!」
拒絶するように、私は秋子さんから顔を背けた。
否定すればするほど、胸の奥がずきずきと焼けるように痛む。
彼女の言葉が、自分でも認めるのが怖くて閉じ込めていた感情の箱を、無理やりこじ開けようとしていた。
「……いいわ。それ以上は言わない。私としては、あなたがしっかり仕事に向き合ってくれるなら文句はないわ」
突き放すような、けれどどこか寂しげな一言だった。
それを最後に、秋子さんは再び「完璧なマネージャー」の顔に戻った。
車は滑らかに加速し、朝の雑踏を縫うようにして今日の現場へと向かっていく。
スムーズすぎるその運転が、今の私のぐちゃぐちゃな心とは対照的で、余計に苦しかった。
ドラマの収録が始まっても、私の頭の中は支配されたままだった。
カメラが回っていない時間、照明の調整やセットの入れ替えを待つわずかな隙間でさえ、意識は自然と綾さんの事を考えてしまっている。
集中できているのは、皮肉にも本番のライトを浴びて「自分以外の誰か」を演じている瞬間だけだった。
「はい、カット。――栞ちゃん、少しこっちに来てくれていいかな?」
不意に、監督の穏やかな、けれどどこか探るような声に呼び止められた。
「どうしましたか、監督?」
「……うーん。何か悩み事でもあるの?」
心臓が、鋭い音を立てて跳ねた。
まるで隠していた秘密の箱を、土足で踏み荒らされたような衝撃。
「演技が……不味かったですか? すみません。私の解釈が、どこかズレていたのかも……」
焦って言い訳を並べる私に、監督は苦笑しながら首を振った。
「いや、演技そのものは完璧だよ。文句のつけようがない」
「えっと……じゃあ、何が?」
「僕の求めている通りの芝居で、完璧なんだ。ただ、カメラを通すとね……それ以外の『何か』が見えてしまう時があってね」
見透かされている。
その予感に背筋が凍りそうになり、私は精一杯の虚勢を張った。
「監督が女優にナンパなんて、まずいですよ?」
「ははは、そうじゃないんだけどね。もし悩み事とか、抱えているものがあるなら……僕でよければ聴くからさ」
「ありがとうございます。監督もお忙しいのに、大変ですね」
「演技っていうのは、メンタルが落ち込むと微妙なズレが出るものだから。僕に言いづらかったら、マネージャーさんやスタッフのみんなもいる。一人で抱え込まないでね」
「はい! 私は、見ての通り元気ですよ!」
無理に作った明るい声が、スタジオの天井に空々しく響く。
笑うたびに、胸の奥がズキ、ズキと、痛みを訴えていた。
監督と別れた後、私はモニターに映し出された今の自分の芝居をチェックした。
「……悪くないと思う。客観的に見ても、ミスなんてない。監督は何が引っかかったんだろう」
そんなことを考えながらも、思考は勝手に別の場所へ逃避していく。
今頃、綾さんは何をしているんだろう。
いつものようにグラウンドで、一人ストイックにサッカーの練習に励んでいるのか。
それとも、あの手際鮮やかな動作で家事をこなしているのか。
あと数日経てば、彼女はイングランドへ発ってしまう。
そして私は、一週間のロケで北海道だ。
……綾さん成分を、今のうちに補充しとかなきゃ。
綾さん成分って、何だろう。
自分でも少し変なことを考えている自覚はあったけれど、今の私には、その正体不明の何かが、明日を生きるための酸素と同じくらい切実に必要だった。
現実逃避と、かすかな期待。
そんなぐちゃぐちゃな感情を胸に抱えたまま、私は再び、偽りの自分を演じるためのセットへと足を向けた。
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