表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
【三部開始】 Liebe   作者:
3章 綾の過去

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

55/83

32話S 栞の葛藤

 私は、一体どうしてしまったんだろう。


 あんなに力強く、綾さんの背中を押したはずなのに。

 彼女の未来を願っているはずなのに。

 ぽっかりとした大きな穴が開いてしまっている。


 私は、助手席のシートに深く背を預け、のんびりと流れていく外の景色を眺めていた。

 視界を過ぎ去る街並みはひどく無機質で、どれだけ目を凝らしても、胸の内の空虚さを埋めてくれるものは見当たらない。


「栞……聴いてる? ……ねえ、栞ってば」


 ぼんやりした意識の隙間に滑り込んでくる、どこか現実味のない声が聞こえてきた。

 ハッとして気が付いた私は、弾かれたように隣を向いた。

 意識が急浮上し、私は弾かれたように隣を向いた。


「な……っ。ごめん、ぼーっとしてた。何、秋子さん」

「今からそんな調子じゃ思いやられるわ。本当によかったの?」

「良かったって……何が?」


 誤魔化すように問い返したけれど、秋子さんはハンドルを握ったまま、聞いてきた。

 その横顔は、いつもの秋子さんとは少し違って見えた。


「綾ちゃんのことよ」


 その名前が出た瞬間、心臓が小さく跳ねた。

 もちろん、いいに決まっている。

 私が、背中を押さなかったら、何が友達なんだろう。


 綾さんには、圧倒的なサッカーの実力がある。

 そんな才能を、過去の綾さんとは関係ないところで鵜もさせてはいけないと思う。

 彼女自身もサッカーが大好きならなおさらだ。

 

 だったら、私は全力で背中を押してあげたい。

 世の中には、望んでも出来ない職業はたくさんある。

 彼女には、自分の力で運命を勝ち取るだけの、本物の力があるんだから。


 頭では、分かっている。

 何度も自分に言い聞かせてきたはずなのに。

 私の思考を遮るように、秋子さんが、さらに冷ややかな追撃を放った。


「それとは別に、今回の件は夏休みで終わりにしてくれると、会社としても助かるわ」


「それは……前に言ったじゃん。私の給料の一部を削ってもいいって。だから、会社には金銭的な迷惑はかけてないし……」


「栞。わかっていて、そう言うのは、あまり良くないと思うわ」


 一瞬、車内の空気が凍りついた。

 隣で運転しているのは、あのおっとりしたお姉さんじゃない。

 水無月プロダクションの凄腕マネージャーとして有名な水無月 秋子さんの顔だった。


「だったら、このまま彼女を放置しろってこと!? 彼女に、行く場所なんてないのに!」


 私は秋子さんに向かって、自分でも驚くほどの怒声を張り上げた。

 もちろん、彼女が悪いことを言っていないのは知っている。

 巨大プロダクションの経営からすれば、それはあまりにも当然で、あまりにも正当なリスク管理だ。


 人気女優・霧生栞。

 その身の回りを世話するハウスキーパーが、殺人犯の娘であるという事実。もしそれがスキャンダルとして世間に漏れれば、私のキャリアも、そして綾さんの平穏も、一瞬で瓦礫の山に変わる。


「そうは言っていないわ。……ただ、このまま唯に預けてしまうのが、最善の落とし所なんじゃないかと思っているのよ」


「それは……ずっとイングランドにいろってこと? もう日本には帰ってこないってこと!?」

「ええ、そうよ。あちらの環境なら、彼女の出自を気にする人もいない。……それが、彼女を守ることにもなるわ」


 私は、返事ができなかった。

 反論しようにも、秋子さんの言葉は完璧な論理で武装されている。

 けれど、それを認めることは、ほとんど綾さんに会えなくなるというのは、死刑宣告と同じに聞こえてきた。


 あの凛とした赤眼も、無愛想に差し出される完璧な料理も、私のわがままを静かに受け入れてくれる時間も。

 全部、海を越えた向こう側に、永遠に閉じ込められてしまう。


 そんなの、嫌だ。

 喉の奥まで出かかった叫びを、私は強く唇を噛んで押し殺した。

 静まり返った車内に、小さく、けれど重い音が響いた。


 秋子さんが、わずかに肩を揺らしてため息をついたのだ。

 彼女のことは、私が物心つく前から知っている。

 事務所の社長令嬢であり、私のわがままを一番近くで受け止めてくれる、本当の姉のような存在。

 そんな彼女が、あんなふうに諦めと懸念の混じったため息をつくところなんて、これまでの長い付き合いの中で一度も見たことがなかった。


「……栞。そこから先は、地獄を見るわよ」


 前を見据えたまま放たれた言葉は、ナイフのような鋭さで私の胸に突き刺さった。


「地獄って、何よ……。私だってこの世界の仕組みくらい、嫌っていうほど分かってるつもりだけど」


 強がって言い返したけれど、自分の声が情けなく震えているのが分かった。

 秋子さんはハンドルを切る滑らかな動作のまま、さらに深い踏み込みをかけてくる。


「ええ、そうね。普通の恋愛なら、私も反対はしない。事務所としても、節度のある関係なら、むしろ芸の肥やしになると応援するくらいだわ。……でもね。相手が同性となると、話は別。それはあまりにも不毛な道になるわよ」


「な……っ。何、言って……。そんなんじゃないってば!」


 頭に血が上るのを感じて、私は必死に否定の言葉を紡いだ。

 けれど秋子さんの声は、どこまでも冷静に、私の内側の柔らかい部分を暴き出していく。


「そうかしら? 最近のあなたを見ていると、まるでお手本通りの、恋に落ちたばかりの少女よ」


「……っ。友達を気にするのは、普通でしょ! それに、あんな……あんな過酷な境遇に置かれてるんだから、放っておけないのは当たり前じゃない」


 そうだ。これは友情だ。

 殺人犯の娘という重荷を背負いながら、懸命に前を向こうとする綾さんを支えたいと思うのは、人間として当然の感情のはずだ。

 必死に自分を納得させようとする私の横で、秋子さんはふっと、僅かに声を和らげた。


「そぉ。……栞、あなたのおかげで水無月プロダクションもここまで大きくなった。母も私も、心からあなたに感謝している。だからこそ、私は出来る範囲で、全力であなたをフォローするわ。……今なら、まだ傷は浅くて済むわよ」


「だから、そんなんじゃないってば! 朝から変なこと言わないでよ!」


 拒絶するように、私は秋子さんから顔を背けた。

 否定すればするほど、胸の奥がずきずきと焼けるように痛む。

 彼女の言葉が、自分でも認めるのが怖くて閉じ込めていた感情の箱を、無理やりこじ開けようとしていた。


「……いいわ。それ以上は言わない。私としては、あなたがしっかり仕事に向き合ってくれるなら文句はないわ」


 突き放すような、けれどどこか寂しげな一言だった。

 それを最後に、秋子さんは再び「完璧なマネージャー」の顔に戻った。


 車は滑らかに加速し、朝の雑踏を縫うようにして今日の現場へと向かっていく。

 スムーズすぎるその運転が、今の私のぐちゃぐちゃな心とは対照的で、余計に苦しかった。


 ドラマの収録が始まっても、私の頭の中は支配されたままだった。

 カメラが回っていない時間、照明の調整やセットの入れ替えを待つわずかな隙間でさえ、意識は自然と綾さんの事を考えてしまっている。


 集中できているのは、皮肉にも本番のライトを浴びて「自分以外の誰か」を演じている瞬間だけだった。


「はい、カット。――栞ちゃん、少しこっちに来てくれていいかな?」

 不意に、監督の穏やかな、けれどどこか探るような声に呼び止められた。

「どうしましたか、監督?」

「……うーん。何か悩み事でもあるの?」

 

 心臓が、鋭い音を立てて跳ねた。

 まるで隠していた秘密の箱を、土足で踏み荒らされたような衝撃。


「演技が……不味かったですか? すみません。私の解釈が、どこかズレていたのかも……」


 焦って言い訳を並べる私に、監督は苦笑しながら首を振った。


「いや、演技そのものは完璧だよ。文句のつけようがない」

「えっと……じゃあ、何が?」

「僕の求めている通りの芝居で、完璧なんだ。ただ、カメラを通すとね……それ以外の『何か』が見えてしまう時があってね」


 見透かされている。

 その予感に背筋が凍りそうになり、私は精一杯の虚勢を張った。


「監督が女優にナンパなんて、まずいですよ?」

「ははは、そうじゃないんだけどね。もし悩み事とか、抱えているものがあるなら……僕でよければ聴くからさ」

「ありがとうございます。監督もお忙しいのに、大変ですね」

「演技っていうのは、メンタルが落ち込むと微妙なズレが出るものだから。僕に言いづらかったら、マネージャーさんやスタッフのみんなもいる。一人で抱え込まないでね」

「はい! 私は、見ての通り元気ですよ!」


 無理に作った明るい声が、スタジオの天井に空々しく響く。

 笑うたびに、胸の奥がズキ、ズキと、痛みを訴えていた。

 監督と別れた後、私はモニターに映し出された今の自分の芝居をチェックした。


「……悪くないと思う。客観的に見ても、ミスなんてない。監督は何が引っかかったんだろう」


 そんなことを考えながらも、思考は勝手に別の場所へ逃避していく。

 今頃、綾さんは何をしているんだろう。

 いつものようにグラウンドで、一人ストイックにサッカーの練習に励んでいるのか。

 それとも、あの手際鮮やかな動作で家事をこなしているのか。

 あと数日経てば、彼女はイングランドへ発ってしまう。

 そして私は、一週間のロケで北海道だ。


 ……綾さん成分を、今のうちに補充しとかなきゃ。

 綾さん成分って、何だろう。

 自分でも少し変なことを考えている自覚はあったけれど、今の私には、その正体不明の何かが、明日を生きるための酸素と同じくらい切実に必要だった。


 現実逃避と、かすかな期待。

 そんなぐちゃぐちゃな感情を胸に抱えたまま、私は再び、偽りの自分を演じるためのセットへと足を向けた。

「Liebe」をお楽しみいただけましたか?


もし「続きが気になる」「応援したい」と感じていただけましたら、ぜひブックマーク登録と、ページ下部にある【評価する】ボタンから評価ポイントをいただけると、とても励みになります!


皆さんの応援が、次の話の執筆を進める力になりますので、どうぞよろしくお願いします!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
綾の長編シリーズ!
【4部連載中】転生したら美少女冒険者に! ~おっさんの心が旅立つ異世界冒険記~
~!
※R15・残酷描写あり。苦手な方はご注意!

他の長編もチェックしてね(現在4本!)
2. 白雪様と二人暮らし
女子高生と仏様とのほのぼの百合小説
3. 【完】紫微綾の事件簿
(百合×探偵×バイオレンス)

※R15・基本性的描写・残酷描写あり。苦手な方はご注意!

もっと知りたい人はTwitterで更新待ってるよ~
@VTuberAya_Nanjo
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ