32話A 綾の決断
いつも通りの静かな朝。私は朝食の準備を整えていた。
やがて栞が顔を出し、マネージャーの水無月さんも姿を見せる。
食卓を囲む三人の間に、湯気と共に穏やかな時間が流れた。
「水無月さん、昨日は本当にありがとうございました」
私の言葉に、水無月さんはいつもと変わらない柔らかな声で返してくれた。
「こちらのスタンスは変わりませんから。ただ、本人から直接伺うと、やはり状況がかわりますから」
その言葉に含まれた配慮が胸に染みる。私は隣に座る親友にも視線を向けた。
「栞も、話を聞いてくれてありがとう」
「友達なんだから当たり前でしょ。……それに、私も決めたから」
栞は真っ直ぐに私を見つめた。
「うん。聞かせてもらえるかな? 水無月さんもいてくださるし」
「綾さんの生活が落ち着くまでは、このままここでいい。記者が相手でも、このマンションでは、踏み込めないとおもうし。きっとどうとでもなるしね。……それで、綾さんは、この一週間、どうしたい? 私からはもう、その件について口出しはしないって決めたから」
栞はどこまでも優しい。
彼女サイドから見れば、プラスどころかマイナスにしかならない存在にまで、こうして手を差し伸べてくれる。
「……本当に、栞に支障がないのなら。私は、チャレンジしてみたい。いいかな?」
私の絞り出すような言葉に、栞は頼もしく頷いた。
「私たちは、これから一週間は留守にするし、戻るのも十日後くらいになると思う。だから、いいよ。やってきて自分を試してみてもいいと思うよ」
「……二人とも、本当にありがとうございます」
下げた頭の先で、ポタポタと雫がテーブルに落ちた。
栞と出会ってから、随分と涙もろくなった気がする。
中三のあの時、私の涙はもう枯れ果てたと思っていたのに。
その後、仕事へ向かう二人を送り出した私は、マンション併設のグラウンドにいた。
いつものように練習をこなしながら待つ。
しばらくして、目的の「彼女」が姿を現した。
「こんにちは、綾ちゃん」
声をかけてきたのは、少し小柄でポニーテールがよく似合う女性。
現なでしこジャパンのキャプテン、長谷部唯さんだ。
「こんにちは、長谷部さん」
挨拶代わりに、私は足元のボールを彼女へ転がした。
彼女はそれを吸い付くようなトラップで受け止めると、正確で優しいパスを返してくる。
「……決めてくれた?」
「はい。一週間という短い期間ですが、お世話になります」
「そう。……ねえ、綾ちゃんのポジションはどこなの?」
「一応、MFですけど」
パスを交わしながら、私は彼女の動きに目を奪われていた。
ただ来た球を止めて返すのではない。トラップの瞬間に、必ず一歩分ボールを動かし、次のプレーがしやすい位置に置いている。
しかも、膝でも、つま先でも、かかとでも。彼女がどこで触れても、ボールは魔法のように私の足元へピタリと届いた。
「綾ちゃん、君はMF向いてないよ。今の部活のチーム事情なら仕方ないけど、適正はそこじゃない」
不意の指摘に、私は戸惑いを隠せなかった。
「……分かりません。ずっと、その位置でしたから」
「君は絶対にフォワード。セカンドトップの方が輝くかもね。強烈な飛び道具を持ってるし、突破力もある。パスも出せる。ポストまで出来る。……そして何より、君はわがままだ!」
「それを言ったら、長谷部さんだって相当わがままだと思いますけど」
思わず口をついた反論に、唯さんはいたずらっぽく笑った。
「私は君みたいに、男性顔負けの強いロングは打てないからね。もちろん決められそうなら自分でいっちゃうけど」
それなら、彼女だって相当フォワード適性が高いんじゃないだろうか……
そんな私の内心を見透かしたように、彼女はふっと表情を和らげた。
「話は変わるけど、サッカーは誰に教わったの? そこまでになるには、独学じゃきついでしょ」
問いかけに、私は足元のボールを見つめた。
「幼い頃は父が。……あの事件が起きてからは、父が遺してくれたサッカーノートを見て練習しました。蹴り方、扱い方、考え方。きめ細かく記された文字を追いながらボールを蹴っている時だけは、父と会話しているような気がしたんです」
私の告白を、唯さんは静かに受け止めてくれた。
ただ、返ってくるパスの感触が、心なしかさっきより優しくなった気がした。
ノートの中の父に、今の自分を見せたかったのかもしれない。
私は届いたボールを両足でぎゅっと挟み、かかとを使って背中越しに前へ放り上げた。ふわりと弧を描いて落ちてきた球を、地面に着く直前、ヒールでパチンと弾く。
唯さんは不敵に笑うと、一歩も動かずに軸足の後ろから反対の足を交差させた。独特のフォームから放たれた『ラボーナ』のパスが、鋭い回転を伴って私の正面へ突き返される。
寸分の狂いもなく足元に吸い付くボール。それが、彼女なりの「返事」だった。
「でも、今のパス。浮かせた分だけ戻りが遅いよ。……イングランドなら、その一瞬で足ごと持っていかれる」
可憐な容姿とは裏腹な、突き放すような厳しさ。
彼女は私の過去を憐れむこともしない。ただ一人のサッカー選手として、真っ向から世界の基準を突きつけてくる。
「もう少し早くやってみるといいよ。それ以外は満点。本当なら、その身長を活かしてヘディングでパスを出す方が実戦向きだけどね」
本当に、この人は化け物だと思う。
けれど、その厳しさが、枯れたと思っていた私の胸の奥を熱く焦がした。
「……そうですね。肝に銘じます」
「普通なら今のはトラップして、立て直してからパスだよね」
私はボールを足元に収めると、不敵に口角を上げた。
「選択肢がいくつもあるなら、私は思いついた選択肢の中から、一番難しいことをしています」
その言葉に、唯さんの眉がピクリと跳ねた。
「どうして?」
「それが一番、相手の意表を突けるから。難しいってことは、誰もやってこないってことですよね。……父のノートにも書いてありました。敵が一番嫌がるのは、想像の外側から来るプレーだって。普通は確実性をやるから……」
170センチの視点から見下ろすように言うと、長谷部さんは一瞬呆然とした後、今日一番の大きな笑い声を上げた。
「あはは! 本当、どこまでも生意気。でも最高にフォワードらしいわ」
彼女は自分のポニーテールをきゅっと結び直すと、戦う者の顔で私を指さした。
「いいよ。イングランドでもその『一番難しい選択』、貫いてきなよ。ムーンシティの鉄壁のディフェンスをその傲慢でわがままが通せるようにさ」
「はい、今更ほかの事をしろと言われても難しいので」
「あと、そのサッカーノート。私に見せてくれない?」
突然の申し出に、私は言葉を詰まらせた。
「ですが、これは……」
これは誰にも見せたことのない物だったし。
私にとっては親からの最後の遺産だと思っていた。
「私ね、綾ちゃんのお父さんに二年間くらいかな、サッカーを教わってたことがあるの。だから、私のルーツは同じ。先生がそれを書いたのはもう十二年前でしょ? あの頃と今じゃサッカーも変わってるから、私が今の基準に修正してあげる。……多分、先生が今ここにいても、同じことをすると思う。どうかな?」
「いいのですか……?」
唯さんは悪戯っぽく笑うと、足元でリフティングを始めた。
数回リズムを刻んだ後、膝から下だけの鋭い振りでボレーを放つ。
力みを感じさせないしなやかな動作から放たれたボールは、鋭いスピンを伴ってゴール左斜め上、ポストぎりぎりの死角へと吸い込まれていった。
あんな左のドライブ回転で決めるなんて、私には無理だと理解した。
「練習に付き合ってくれてありがとう。私もそろそろ準備しなきゃ。じゃあね」
「一週間、よろしくお願いします」
私はいつも通りの口調で返した。
彼女はあの日と同じように、手のひらをひらひらとさせながら、軽やかな足取りで出口へと歩いていった。
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