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【二部完結】 Liebe   作者:
3章 綾の過去

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31話S 唯からのかぎりない真実

 一通り聞き終えた瞬間、胸の奥がずっしりと重くなった。

 綾さんの声は淡々としていたけれど、その内容はあまりにも重すぎて、まるで心臓に鉛の弾を撃ち込まれたみたいだった。


 自分のせいじゃないはずなのに、なぜか災厄は自分に降りかかってくる。

 特に、血の繋がった両親の影は、どれだけ逃げても背中に張り付いて離れない。

 母親が父親を殺し、その血まみれの手を、今度は幼い自分に向けようとしたなんて。

 そしてその母親が、綾さんの目の前で息絶えた光景……。

 想像しただけで目をそらしたくなってくる。

 まだ幼かった綾さんは、震える手でそれを全部受け止めるしかなかったんだ。


 人はどうしてもラベルを貼りたがる生き物だ。

 芸能人の娘。

 トルタ自動車の社長の家族。

 銀行頭取の息子。

 総理大臣の孫。

 肩書きだけで人を値踏みして、偉そうにしたり、蔑んだり。

 もし、親が犯罪者だったら?


「殺人犯の娘」


 そんな烙印を押されて、幼い子供まで社会から拒絶される。

 当事者が何を言っても、周囲は無常に無視をしてくる。


 私も同じだった。

 教室で何度も頼んだんだけどね。


「芸能人の霧生栞の娘じゃなくて、ここにいるただの高校生・霧生栞として見てほしい」と。

 

 でも芸能人の私と友達になりたい人ばかりだった。

 ……唯一、違ったのは綾さんだけだった。


 綾さんの場合は、周りは誰も助けなかった。

 無関心を装うか、いじめに荷担するか、拒絶をするか。

 やっと居場所を見つけたと思ったら、凌辱されたなんて……


 そのときの痛み、屈辱、裏切られた絶望を思うと、指先が小刻みに震えて止まらなかった。

 だから綾さんは、人と必要以上に関わろうとしない。

 心を固く閉ざして、孤独を鎧のように纏うようになったんだ。


 私は、彼女に相当な負担をかけていたんだろうな。

 知ってしまった以上、もう目を背けるわけにはいかない。

 それでも、もし綾さんが許してくれるなら。

 私は、彼女と一緒に暮らしたい。


 あの部屋は、寂しすぎる。

 殺風景な部屋

 最低限のテーブルとベッド、そして勉強机だけ。

 娯楽と言えるものは、ただ一つのサッカーボール。

 テレビも、あの時は、スマホの充電器すら見当たらない。

 夜遅くまで働いて、日が昇る前から新聞配達をして学校に来る。

 彼女は何も悪くないのに、そして今サッカーの夢迄も諦めようとしている。

 もう二度と彼女を一人で帰したくないし、サッカーの夢も諦めて欲しくはない。


 私はそっと部屋を出て、廊下の柔らかな照明に照らされながら、同じ階の唯さんの部屋へと足を運んだ。

 心臓の鼓動が少し速くなっているのが自分でもわかった。

 指先が微かに冷たく、チャイムを押す瞬間に軽く息を詰めた。

 ピンポーン、という軽やかな音が響いた直後、ドアホンから明るい声が返ってくる。


「いらっしゃい、栞ちゃん。中に入る?」


「こんばんは……えっと、秋子さんは?」


 私は、少し声を潜めて尋ねた。

 絶対にここにいるはずだと踏んでいたのに。


「秋ちゃんは、入れ違いになっちゃったみたい。『多分、もう少ししたら来ると思うから、私は帰るわ』って言ってたよ」


「なら……」


 秋子さんだったら保管の情報を知ってると思って来たのに。


「私、綾ちゃん本人も知らない秘密、知ってるけど……知りたい?」


 唯さんの声が、ドアホン越しでも少しだけ悪戯っぽく聞こえた。


「えっと……どの件ですか?」


 私はとっさに言葉を濁した。

 さすがに、これは第三者に軽々しく話せることじゃない。


「綾ちゃんのお父さんとお母さん、そして、あの事件の……」


 その瞬間、背筋に冷たいものが走った。


「わかりました。入れてもらえますか?」


 ドアがゆっくりと開き、唯さんが柔らかな笑みを浮かべて立っていた。


「いらっしゃい、どうぞ入って」


「お邪魔します……」


 玄関に足を踏み入れると、ふわりと優しいフローラル系の香りが漂ってきた。

 部屋の中は、予想通り簡素だった。

 備え付けの家具と、私がこのマンションに引っ越してきたときに置かれていたのと同じインテリアばかり。

 一時的な滞在だからこそ、余計なものを置いていないのだろう。

 リビングルームに通され、ソファに腰を下ろすと、少し待たずに唯さんが温かい紅茶を運んでくれた。

 カップから立ち上る甘く香ばしい香りが、緊張していた胸を少しだけほぐしてくれる。


「紅茶って、はやってるんですか?」


 思わず口に出してしまった。


「どうして?」


「綾さんも、紅茶を出してたので」


 唯さんはくすりと笑った。


「なるほどね。栞ちゃんは、彼女の過去をどこまで知ってるの?」


 私はカップを両手で包み込みながら、静かに答えた。


「私は……中学というか、高校入学近くまでは」


「了解。私が知ってるのは、綾ちゃんの両親の事件だね。多分、綾ちゃん自身も知らないと思う事を知ってるよ」


一瞬、息が止まった。


「教えてくれるんですか?」


「いろいろ判断するには、情報は必要でしょ?」


 唯さんの瞳は穏やかだけど、どこか深い闇を湛えていた。


「……お願いします」


 私は深く息を吸い込み、背筋を伸ばした。

 これから聞く話は、多分想像の斜めを言ってるんだと思う。


「事件の詳細はもう聞いてると思うから、省くね。綾ちゃんのお父さんの浮気相手……私なんだよね」


 唯さんの言葉が、まるで耳元で雷が落ちたかのように響いた。


「はぁ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~っ!?」


 私は思わず間の抜けた変な声を上げてしまった。

 喉の奥から勝手に出てきたような、情けない長ーい溜息混じりの声。

 頭の中が真っ白になって、目の前の紅茶のカップが一瞬ぐにゃりと歪んで見えた。


 ……え? 待って。

 その時、唯さんってまだ高校生じゃなかったの!?


「ふふっ、なんか栞ちゃんでも、そういう年相応の反応するんだね。可愛い」


 唯さんは悪戯っぽく微笑みながら、紅茶を一口飲んだ。

 その仕草が妙に大人びていて、余計に混乱が加速する。


「さすがに情報量が……どういうことですか?」


 私は、身を乗り出して聞いた。


「恥ずかしながら、私って高校に飛び級してて、プロの現場で一緒にやってたの。プロ契約はまだしてなかったけどね。この間も話したように、綾ちゃんのお父さんはスパイクの調整を専門にやってた人で……」


「前、言ってましたよね」


 確かにこの間唯さんが部屋に来た時にそう言てったはず。


「実は、今の私よりテクニックがあった人だったのよ」


「は?」


「中学の頃、すごく丁寧に教えてもらってて……もちろん、そんな仲じゃないよ? あくまで先生と生徒」


 ん? でも、綾さんもお父さんから基礎を教わっていたって言ってた気が……。


「綾ちゃんのお母さん、すごく嫉妬深かったみたいでね。『選手になったら絶対浮気する』って心配して、結局選手の道を諦めさせたって話は聞いた?」


「それは初耳です。でも、それってただの先生と生徒ですよね……?」


「そう思ってたんだけどね。サッカーグラウンドで、私みたいな若い子と仲良くボールを蹴ってる姿を、何度も見られてたらしいの。でも、本当に決定的だったのは――」


 唯さんは少し遠い目をした。


「結婚記念日に、何かいいプレゼントを贈りたいんだけど、よくわからないから探すの手伝ってくれないかって相談されたの。『俺、サッカーしかやってこなかったから、子育ても僕の面倒も文句言わずやってくれてるから、恩返ししたいんだ。でもわからないから、君に手伝ってほしい』って言われたんだよ」


 唯さんは少し遠い目をして、そう続けた。

 すごく、すごく良い話なのに。

 どうして結果があんな地獄みたいな結末になるんだろう。

 

「プレゼントも決まって、ちょうど昼頃だったかな。お礼に『お昼おごるよ』って言われて、サイゼに行ったの」


「それって……立派にデートじゃないですか!?」


「そうとも取れるよね。で、その様子を興信所の人にばっちり写真に撮られてたみたい」


 唯さんは苦笑いを浮かべながら肩をすくめた。


「それが決定的な証拠になっちゃって……。報告を信じちゃったお母さんが、事件を起こしたんじゃないかって憶測が立ったの。私にとっても恩師だったし、あちらにとっても純粋に感謝のつもりだったんだけどね……」


 部屋に重い沈黙が落ちた。

 紅茶の湯気がゆっくりと立ち上る中、私は言葉を失っていた。

 綾さんのお父さんと唯さん。

 ただの感謝と、ただの教え。

 それが、たった一枚の写真と、嫉妬深い心によって、すべてを狂わせてしまったなんて――。

 胸の奥が、じんわりと痛んだ。 


「唯さんは、大丈夫だったんですか?」


 私が恐る恐る尋ねると、唯さんはカップをソーサーに置いて、静かに微笑んだ。


「だいぶ聞かれたよ。でも先生は、いろいろな男女に教えてたしね。疑惑はゼロだった。サッカーバカだったと思うよ。私の証言にも、おかしなところは一切なかった。ただ、クラブ側では『コーチ以外が選手に教える』のは禁止になったはず」


「だから……綾さんなんですか?」


「これは、本当に偶然。俊介には『唯ねえよりすごい子がうちの学校にいるから、今度帰国した時に見てやってよ』って言われて、秋ちゃんからも『昔の貴女みたいにサッカーに情熱があって、実力もあるみたいだけど、一回見てあげてもらえるかしら』って頼まれてね」


 本当に、偶然だったんだ……。


「私が教えた近所の子供と、親友の秋ちゃんから同時に言われたら、嫌とも言えないでしょ。ここで会ったとき、ちょっと運命みたいなものも感じたの」


「運命……?」


「癖が似てたの。会った時はお互い名前を名乗らなかったけど、先生と動き方がすごく似てるってすぐに思った。体の捻り方、ボールの蹴り方、視線の置き方……全部」


 唯さんの声が少し優しくなる。

 本当に、綾さんのお父さんを心から尊敬していたのが、痛いほど伝わってきた。


「学校に行ったら、マンションで会った子が来ていて、名前が綿津見でしょ。一発でわかったよ。苗字が変わってても、彼女の変わった名字だけは覚えていたから」


「どうしてですか?」


「あの当時は、高校生だったから何もできなかったけど……機会があったら、手助けできることはしてあげたいと思ったの。恩返しでね。そしたら、ものすごく才能が開花してて……ほんの少し意地悪しちゃったけど。でも、嘘は言ってないよ」


「綾さん、落ち込んで泣いてたんですよ……」


「ふふっ、美少女の涙、ちょっと見たかったかも……でも、本気で鍛えたらすごい選手になれる可能性があるから誘った。栞ちゃんの疑問には、答えられたかな?」


 唯さんは軽くウィンクを寄越した。

 私は指を膝の上で絡めながら、勇気を出して聞いた。


「もし……もしですよ」


「うん?」


「実力をちゃんと認められたら、そのままイングランドでやらせちゃうつもりですか?」


 唯さんは少し間を置いて、穏やかな瞳で私を見つめた。


「それはわからない。綾ちゃん次第じゃない。プロになるのも、諦めるのも。私はただ手を差し伸べるだけ。それを掴むかどうかは、彼女自身が決めることよ」


 その言葉が、胸の奥に冷たい棘のように刺さった。

 すごく不安が襲ってくる。

 綾さんが……永久にいなくなってしまうかもしれないという、

 得体の知れない恐怖が、じわじわと心を覆っていく。


「栞ちゃん、どうしたの? 顔色悪いよ?」


 唯さんが心配そうに身を乗り出してくる。


「いえ、なんでもないですよ……。すごいことを聞いちゃったなぁって思って。これ、綾さんには絶対言いませんから」


 私は無理やり笑顔を作ったけれど、

 声が少し震えているのが、自分でもはっきりわかった。


「うん、知ってる。じゃなきゃ言わないよ。秋ちゃんにも言ってないんだし。私が何かを知ってるのは、気づいてたみたいだけどね」


 唯さんは紅茶のカップを静かに置いて、柔らかく微笑んだ。


「どうしてですか?」


「だって、プライベートなことじゃん。ペラペラしゃべるような趣味はないよ」


「なんで……私に教えてくれたんですか?」


 私は少し声を落として聞いた。心臓が小さく跳ねる。

 唯さんは少しだけ目を細め、窓の外の夜景に視線を流した。


「ん~、伝える必要があると思ったから。秋ちゃんから大体の事情は聞いて、判断したよ。栞ちゃんが聞いた内容は、教えてもらわなくてもいいから」


「……はい」


「でも、外国では親の罪なんて実力で跳ね返せる。だからこそ、一週間の超短期留学を提案したの」


「うん……」


「早く決めてほしいな。クラブにも話さないといけないし」


「まさか、無許可で言ったんですか?」


 こういうのは事前に言うものでは、私だって綾さんを雇う時に会社に説明をしたっていうのに。


「そうだけど、ダメでもなんとかするから大丈夫」


 唯さんは自信たっぷりにウィンクを寄越した。

 その笑顔があまりにも明るくて、逆に胸が締めつけられる。


「なんか、唯さんがそう言うと……大丈夫な気がします」


 私は小さく笑って立ち上がった。

 もう、聞きたいことは全部聞いた。

 唯さんの部屋を後にして、自分の部屋へと戻る廊下は妙に長く感じた。

 足音が静かに響くたび、胸の奥が疼く。

 やはり、私は綾さんに行ってもらいたい。


 ズキッ。


 夢を……追いかけてほしい。


 ズキッ、ズキッ。


 だから、明日、ちゃんと背中を押してみよう。


 そう決めたはずなのに、

 足取りは重く、部屋のドアノブを握る指先が震えていた。

 綾さんが遠くへ行ってしまうかもしれない。

 その現実が、まるで胸の真ん中に冷たいナイフをゆっくりと刺し込まれているみたいに痛い。

 それでも、私は笑顔で「行っておいで」と言わなきゃいけない。


 部屋のドアを閉めた瞬間、

 私は壁に背中を預けて、静かに深く息を吐いた。

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