31話A 綾の過去~自立の代償
【R-15 注意】
本エピソードでは、登場人物の凄惨な過去と、性的暴力(非合意行為)および強い心理的トラウマ・絶望描写に触れます。
被害者の心の崩壊や自己否定が詳細に描かれており、非常に暗く重い内容となっております。
※苦手な方はこの章をスキップすることを強くおすすめします。
スキップした場合も、第31話Sから重要な情報が会話などで自然に補足されますので、ご安心ください。
31話S 唯からのかぎりない真実で補足されてます
「きっと、あの時あんなことが無かったら、まだ素直になれたのかもしれない」
私は再び過去の底をさらうように、栞に語り掛けた。
「目立つのをやめて、中学二年の頃には私に構う人はいなくなった。望んでいたはずの、色のない平穏がそこにはあった」
中学二年の冬、また次の『親戚の家』が決まった。
今度の家には、大学生の息子・健二さんと、中学一年の娘・愛がいるという。
子供が二人もいる賑やかな家庭に、私のような異物が混じっても大丈夫なのか。施設の先生も親戚も口を揃えて「大丈夫」と言ったけれど、私はただ、なるべく風景に溶け込んで、誰の邪魔もしないようにしようと心に決めていた。
けれど、愛は違った。
歳が近いせいか、彼女は私の心の壁なんてお構いなしに、何度も、何度も、屈託のない笑顔で踏み込んできた。
健二さんも、そんな私たちを穏やかな目で見守ってくれる、優しい「お兄さん」だった。
本当に、久しぶりだった。
心の底から、何かが解けていくような感覚。
本当の兄妹ができたみたいで、嬉しかった。
共働きの叔父さん夫妻に代わって、私は家の家事をすべて引き受けた。
少しでも恩返しがしたくて、安くて栄養のある献立を考え、家中を磨き上げた。
「もう人とは関わらない」
そう決めたはずの凍りついた心が、彼らの体温に触れて、もう一度だけ、人の温かさを信じてみたいとおもったんだよ。
穏やかな日々に包まれて、私は中学三年の受験生になった。
健二さんに勉強を教わり、私は私で、愛に勉強を教える。
ペンを走らせる音と、時折混じる笑い声。
あの時覚えた勉強の仕方が、今の私を作っているのかもしれない。
……でも、そんな幸福な時間は、長くは続かなかった。
あの日、私の世界は本当の意味で粉々に砕け散ったのだと思う。
始まりは、いつも通りの、遠慮がちな軽いノックの音だった。
「健二お義兄さん、どうぞ。今日もよろしくお願いします」
私は心からの信頼を込めて、彼を部屋に迎え入れた。
ノートの上を滑る清潔な指先、解けない数式を隣で根気強く解き明かしてくれる優しい声。
そのすべてが、孤独だった私の乾いた心に染み渡る光だったのに。
けれど、その日の彼は、決定的に違っていた。
雨に濡れたコートも脱がず、滴る水滴が床を汚すのも構わず、彼はただ、飢えた獣のような昏い瞳で私を凝視していた。
「これ、差し入れ。……いつも、家のこと頑張ってくれてるから」
差し出されたのは、冷えた缶コーヒー。
「うれしい、ありがとう。……でもお義兄さん、そんな格好じゃ風邪をひきます。タオルを持ってくるから、中に入って」
私は、彼の異変から必死に目を逸らした。「何かあったのかな」程度の疑問で、無理やり自分を納得させようとした。
背を向けてバスタオルを取り、振り返って缶を受け取ろうとしたその瞬間。
視界が歪むほどの衝撃と共に、手首を万力のような力で掴み上げられた。
「……っ、お義兄さん……? 痛いです……っ」
骨が軋む音に顔を上げると、背後でカチリ、と絶望的な音が響いた。
内側からかけられた、重い錠の音。
これまで一度も聞いたことのないその音が、私の心臓を冷たく凍りつかせた。
「ずっと思ってたんだ。……今にも消えてしまいそうな危うさが、たまらなくいいって……」
耳元で囁かれた粘つくような低い声。それが冷たいナイフとなって、私の喉元を抉る。
何が起きているのか、脳が理解を拒絶して停止する。
けれど、体は残酷なほどに「これから起こること」を予感して震え出した。
首筋に這う熱い吐息に、全身を悍ましい悪寒が駆け巡る。
叫ぼうと開いた口は、すぐさま大きな掌によって乱暴に塞がれた。
「んむっ……! ぁっ……!」
そのままベッドに叩きつけられた衝撃で、肺の空気がすべて掻き消えた。
必死に空気を吸おうとしても、入ってこない。
視界がチカチカと点滅し、逃げ場のない重たい体温がのしかかってくる。
必死に足をばたつかせたが、彼の重みが、私の自由を、未来を、容赦なく押し潰していく。
「やめて……お願い……私が何か悪いことをしたなら、謝るから……っ」
手の平の隙間から絞り出した懇願は、彼の口元に浮かんだ醜悪な冷笑によって、無残に踏みにじられた。
「綾は悪くないさ。……ただ、誰にも触れられていない、最高の宝石なだけだ。ここに来た時は感情のない人形だったのに、実にいい女になった。……さあ、俺がもう一つ、特別な『勉強』を教えてやるよ」
――バリリッ、と。
大切に着ていた衣服が引き裂かれる音が、静かな部屋に無慈悲に響いた。
一度も他人の目に晒したことのない、肌に冷酷な夜気と、熱を帯びた暴力的な指先が直接触れる。
私の意思など微塵も介さないまま、私のすべてが強引に暴かれ、侵食されていった。
心の中で、何度も「助けて」と叫んでいた。
いつも私を導いてくれていたはずの手が、今はただ、私の尊厳を乱暴に剥ぎ取っていく暴力の塊でしかなかった。
ノートにペンを走らせていたあの細く清潔だった指先が、今は、土足で踏み荒らすように私の知らない場所をこじ開けてくる。
――そして。
熱くて硬い何かが、容赦のない質量で一気に私の中へ押し入ってきた。
体が内側から無理やりこじ開けられるような、息もできないほどの激痛が走った。
肺から空気が根こそぎ奪われ、目の前が真っ白に染まって、音さえ聞こえなくな
「痛い……痛いよ……なんで、みんな私をいじめるの……」
口からこぼれたのは、自分でも驚くほど幼い、熱に浮かされたような声だった。
今の状況を理解するための言葉が、頭の中から一文字残らず消えていく。
だから、今目の前で起きている悪意の正体が、私の幼い経験値ではどうしても処理しきれない。
お父さん、お母さん、助けて。
怖いよ、痛いよ。
思考がバラバラに弾け飛んで、ただ泣きじゃくる子供に戻ってしまう。
必死に縋れるものを探すけれど、視界に入るのは、かつて信頼していたお義兄さんの醜悪な顔だけだった。
頭の中で、幸せだった瞬間の断片が、壊れた映写機のようにフラッシュバックする。
お父さんの穏やかな笑顔、お母さんの温もり、そして、この親戚の家で信じようとしたささやかな日々。
それらが全部、猛火の中に放り込まれたみたいに、失意の炎の中でどんどん黒く、無惨に燃え尽きていく。
痛みだけじゃない。
泥のような屈辱と絶望が、波となって何度も、何度も襲ってくる。
抗えない生理的な反応として、体が震えてしまうことさえ、たまらなく惨めで。自分自身が取り返しのつかない汚物になったような嫌悪感が、喉元までせり上がってきた。
「綾はやっぱり、綺麗な人間だね。……こんな風に鳴いてくれるなんて最高だ。みんな俺を捨てやがって、君ならわかるだろう? この孤独がさ……だから……」
耳元で響く彼の声は、もはや聞き覚えのある「義兄」のものではなかった。
湿り気を帯びた、熱い、それでいて芯が凍りついたような異質な響き。
私を「宝石」だと言ったその瞳は、愛情ではなく、もっとドロドロとした飢餓感に濁っている。
自分の孤独を埋めるための道具として、私を、私の人生を、生贄に捧げようとしているのかもしれない。
彼は笑っていた。
泣きじゃくる私を、まるで慈しむような手つきで、けれど力任せに押さえつけながら。
「だから、ずっと一緒にいよう。……俺たち、似た者同士だよな?」
その言葉に、全身の毛穴が総毛立つような悪寒が走った。
彼が孤独であればあるほど、私はさらに深く、逃げ場のない闇に引き摺り込まれていく。
正気を失い、恍惚とした表情を浮かべる彼の顔が、視界の端でゆらゆらと揺れている。
もう、この人は私が知っている人ではなかった。
私を助けてくれるはずだった光は、いつの間にか、私を焼き尽くす真っ黒な業火に変わっていた。
机の上に広げたままの教科書が、視界の端でぼんやりと揺れている。
さっきまで「お義兄さん」と慕っていた人と、一緒に解くはずだった数式のページ。
その整然とした数字の列が、今はただ、壊れていく私を冷淡に嘲笑っているように見えた。
家族だと思っていたのは、全部嘘だったの?
私が頑張ってきたことも、誰かの役に立ちたいという祈りも、全部、この蹂躙を引き立てるための無意味な前奏曲だったの?
彼の動きが獣のように激しくなるたび、痛みと一緒に、私の心の一番奥にある大切な何かが、ガリガリと音を立てて抉り取られていく。
もう、信じられない。もう、誰も信じたくない。
やがて、熱い何かが奥深くに注ぎ込まれる、生々しく悍ましい感触。
自分の中が、得体の知れない汚いもので満たされていく。
その瞬間、私の心は完全に、音を立てて折れた。
もう、涙も出なかった。声も出なかった。
ただベッドの上で横たわり、天井の照明がチカチカと不規則に瞬くのを、魂の抜けた眼窩でぼんやりと眺めているだけだった。
その時、誰かが扉を壊さんばかりに何度も叩く音が聞こえた気がしたけれど、私はもう何も考えられなかった。
異変を感じた愛が、叔父さんと叔母さんを呼んできてくれた。
それで、私はようやく、その地獄のような肉の檻から引き剥がされた。
彼がいなくなった後の部屋は、鼓膜が痛くなるほどの静寂に包まれていた。
太ももを伝うおぞましい液体の感触と、体に残る熱い痛み。それだけが、私がまだこの地獄のような現実から逃げ出せず、この肉体の中に閉じ込められていることを無情に突きつけてくる。
私は乱れた服を直す気力すらなく、ただ抜け殻のように横たわっていた。
意識は遠のき、感覚だけが鋭く研ぎ澄まされていく。
その時、私は自分がただの肉の塊になったのだと、そう悟ったの
「これは後から分かったことだけど」
健二お義兄さんは、恋人が寝取られていたそうだ。
しかもそれが、お義兄さんの親友だったらしい。
自分と同じように、本当の居場所がない私を見つけて、自分と同じ泥沼に引き摺り込みたいという、あまりに身勝手な道連れだったみたい。
『お前ならわかるだろう? この孤独がさ』
あの囁きは、彼なりの救いを求める悲鳴だったのかもしれない。
でも、そんな事情なんて、壊された私にはどうでもよかった。
一筋の光だと思っていたものは、私をより深い地獄へ引きずり込むための、ただの残酷な罠だった。
「お前は幸せになってはいけない」
誰かにそう宣告された気がした。
この、持て余すほどの発育を見せる体は、男たちの欲望を満たすためだけの道具。慰みもの。
キスすら知らなかった純粋な信頼は、あの日、音を立てて粉々に砕け散った。
もう、誰の顔もまっすぐに見られない。
誰かが向けてくれる優しい言葉も、裏にある醜い本性を隠すための塗り絵にしか見えなくなった。
一瞬でも隙を見せたら、持っているものをすべて奪われる。
毎日は、以前よりもさらに深く、重い灰色に染まった。
色のない世界で、私はただ、決定的に壊れたまま、誰にも気づかれずに朽ちていくだけだと思っていた。
「……栞は前、言ったよね。上野君に襲われそうになった時、平気かって」
私はゆっくりと視線を上げ、栞の瞳をまっすぐに見つめた。
「私はね、あの日知ってしまったの。性欲は、食欲や睡眠欲と同じ三大欲求の一つ。抗えない、仕方のないものだって。だから、奪われるのは避けられない。私にできるのは、ただ無機質にそれを受け入れることだけ。……だって、私にはそれくらいしか価値がないから」
自分の声が、どこか遠くで響いているような感覚。
「……『人殺しの娘』で『汚された女』。そんな私に、他にどんな価値があるっていうの?心なんていらない。ただの肉塊として、男たちの欲を処理するだけの道具として生きていくしかない。その時、私はそう悟ってしまったの」
だから、平気なの。
心が死んでいれば、何をされても、痛くも痒くもないから。
当然だけど、あの家はもう、家庭の形を保てなくなっていた。
誰も直接は言わなかったけれど、以前のような穏やかな空気は二度と戻らなかった。
それどころか、一段と親戚たちの視線は冷たく、刺すようなものに変わっていった。
私の預かり知らぬところでこんな話も聞こえていた。
「あの子が義兄を誘惑したんじゃないか」
「あの子が来ると、どの家も不幸になある」
吐き気がするような噂がヒソヒソと交わされるようになった。
人間なら、あり得ることなんだと思う。
自分たちの息子が犯した罪を認めるより他人の私を『疫病神』に仕立て上げる方が、彼らにとっては都合が良かったんだろう。
味方だと思っていた大人たちが、自分たちの平穏を守るために、傷ついた私をさらに泥靴で踏みつける。
その光景を私は幼少のころから見ていた。
何を期待してたんだろう。
誰かを信じることも、誰かに守ってもらうことも、二度と望んではいけない事。
私にはそんな資格はないのだから。
だから高校に入るとき、私は施設の先生とケースワーカーの人に、初めて自分の意志を伝えた。
「バイトをして、一人暮らしをさせて。そのための努力なら、なんだってするから」
当然、当初は猛反対された。義務教育を終えたばかりの子供が、たった一人で生きていくなんて無理だと諭された。
けれど、幼稚園の頃から私の成長を見守ってくれていたケースワーカーの人は、最後に一つだけ、厳しいけれど公平な条件を提示してくれた。
「全教科、体育以外で80点以上を取り続けること。それができなければ即座に許可を取り消して、施設に戻ってもらう。……約束できる?」
「……ありがとう。約束する」
体育は個人の運動神経や体格に左右される。努力だけでは届かない領域があるからと、彼はあえてそこを外してくれたのだと思う。
結果として、私は体育でも最高評価のA判定を取り続けたけれど。
誰の重荷にもなりたくなかったし、誰にも文句を言わせたくなかった。
死に物狂いで勉強し、バイトに明け暮れ、誰にも隙を見せずに成績を維持し続けた。
そうして私は、誰の助けも借りない私の世界を手に入れたんだ。
「……これで私の話はおしまい。あとは栞が決めて。今の雇い主は、貴女なんだから」
私はそれだけを告げると、栞の反応を待たずに背を向けた。
重い空気から逃げるように、自分の部屋へと戻った。
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