第8話 平穏の崩壊と、腹ペコな相棒
まるで海が割れるかのような、異様な光景だった。
早朝の冷たい空気を震わせるほどの熱狂と歓声の中、ひしめき合っていた百人以上のマスコミとファンたちが、一斉に左右にサッと退いたのだ。
彼らの顔には一様に、謝罪と畏敬の念が浮かんでいる。自分たちのせいで、この孤高の強者の修練を邪魔してしまったという、完全に明後日の方向へ飛んでいった勘違いによる集団心理。
結果として、築四〇年を越える木造アパート『コーポさざんか』の玄関前から、大通りへと続く一本の道が綺麗に出来上がっていた。
無数のテレビカメラとスマートフォンが向けられるその中心で、鈴木悠作は完全に死んだ魚の目をしていた。
(……なんだこれ。うるさいし、眩しいし、全然意味がわかんねえ)
悠作の胃袋は完全に限界を迎えていた。一秒でも早く近所のコンビニに駆け込んで、夜勤明けの店長から期限切れの廃棄弁当をもらわなければ餓死してしまうという、極めて切実な生存の危機に直面しているのだ。昨夜の夕食が、塩コショウだけで炒めた具なしのもやし一袋だったツケが、今になって急激な胃の収縮となって表れている。
ただ腹が減って不機嫌になっているだけの無気力なオーラが、群衆の目には「底知れない強者の覇気」として映っているなどとは知る由もない。
(……よくわかんないけど、通れるならいいか)
悠作は首を傾げながらも、左右に控える群衆に一切の視線を向けることなく、だるそうに肩を落として歩き出した。
その後ろを、十メートルほどの一定の距離を保ちながら、マスコミとファンが大名行列のようにゾロゾロとついてくる。フラッシュは相変わらず背後で瞬き続けているが、もはや誰も悠作の歩みを妨げようとはしなかった。
アパートの敷地を出て、路地の角にあるゴミ集積所の横を通り過ぎようとした時だった。
『グルルルルル……』
カラス除けの青いネットの陰から、低く威嚇するような獣の唸り声が聞こえた。
悠作が面倒くさそうに足を止めると、後ろをついてきていた群衆の足音もピタリと止まる。
薄暗いゴミネットの下でうずくまっていたのは、真っ黒な毛並みをした一匹の犬だった。サイズは豆柴ほどで、一見するとただの薄汚れた子犬に見える。
だが、その額には鋭い一本の角が生えており、四肢の毛先には微かに青い炎のような不気味な光が揺らめいていた。
「お、おい! あれ見ろ!」
群衆の前方にいた男が、引きつった声で叫んだ。
「犬……じゃない、角が生えてるぞ!」
「足元、青い炎が出てる……嘘だろ、まさかダンジョンの魔物か!?」
「なんでこんな住宅街のど真ん中に……!」
「逃げろ! 殺されるぞ!」
マスコミと野次馬たちが、我先にと悲鳴を上げて後ずさった。
いくらサイズが小さかろうと、魔物は魔物だ。一般人であれば、その牙や爪がかすっただけでも致命傷になり得る。おそらく、ダンジョンの浅い階層から何らかの理由で迷い出し、このゴミ捨て場に行き着いたのだろう。
『ガァゥッ!』
群衆のパニックとフラッシュの光に刺激されたのか、黒い獣が牙を剥き出しにして立ち上がった。
小さな体から、周囲の空気をピリッとさせるほどの明確な殺気が放たれる。最前列のカメラマンが腰を抜かして転倒し、スポーツ紙の記者が「ヒィッ」と情けない声を上げて尻餅をついた。
だが、その殺気の中心に最も近い場所に立っていた悠作だけは、微動だにしていなかった。
一般人が腰を抜かすほどのプレッシャーも、基礎ステータスが物理法則を無視してカンストしている彼にとっては、生ぬるいそよ風程度の感覚でしかない。
悠作の虚ろな瞳が、威嚇する黒い豆柴をじっと見下ろした。
(……腹、ペコペコに凹んでんな)
悠作の目に入ったのは、魔物の脅威などではなく、あばら骨が浮き出るほどに痩せ細った子犬の腹だった。
ゴミ捨て場を漁るほどに飢え、周囲を極度に警戒して必死に牙を剥いている。その惨めな姿が、空腹のどん底で腹の虫を鳴らしている今の自分の姿と、妙に重なって見えたのだ。
「……お前も、飯食いっぱぐれたのか」
悠作はひどく気怠そうに呟くと、威嚇してくる獣の鼻先に向かって、無造作に右手を伸ばした。
「す、鈴木さん! 危険です!」
「腕を噛みちぎられますよ!」
背後から記者が制止の声を上げるのも構わず、悠作は額の角を避けるようにして、その頭をポンと撫でた。
瞬間。
獣の全身の毛が逆立ち、反撃の青い炎を吹こうと口の奥に魔力が収束しかけたが――それよりも早く、頭部に乗せられた悠作の掌から伝わる『絶対的な格の違い』が、魔物の本能に直接叩き込まれた。
もしこの男に一ミリでも敵対行動をとれば、細胞の欠片すら残らずこの世から消し飛ばされる。純粋で圧倒的な暴力の差を、野生の生存本能が強制的に理解させたのだ。
『……キュゥン』
数秒前まで明確な殺気を放っていた獣が、四肢の青い炎をシュンと鎮火させ、悠作の足元でゴロンと仰向けになった。
完全に腹を見せ、ちぎれんばかりに尻尾を振っている。誰の目から見ても、絶対的な服従と恭順のポーズだった。
その信じられない光景に、百人の群衆は再び完全な沈黙に陥った。
「え……?」
「あ、あのヤバそうな魔物を……ただ撫でただけで……?」
「噛みちぎられるかと思ったのに……」
「大人しくなった……? 嘘だろ……」
群衆の間に、理解不能な事象に対する戸惑いと、さらなる畏怖が広がっていく。
そんなことにはお構いなしに、悠作は「しゃあないな」と深いため息をつくと、腹を見せている黒い豆柴の首根っこをひょいと摘み上げた。
そのまま小脇に抱え、再びコンビニへの道を歩き出す。
「大人しくしてろよ。コンビニ行くから」
『ワンッ!』
魔物に対する警戒心など微塵もない。完全に、道端で拾ってきた野良犬を扱う態度だった。
群衆はもはや誰も言葉を発することすらできず、未知の魔物を小脇に抱えて歩く作業着の男の広い背中を、ただ茫然と見送ることしかできなかった。
★★★★★★★★★★★
「おー、鈴木くん。今日はなんか外が騒がしいねぇ」
歩いて五分の場所にあるコンビニ『スマイルマート』。
自動ドアを抜けてレジカウンターに向かうと、白髪交じりの店長がのんびりとした声で顔を出した。深夜勤の疲れでいつも目が半分閉じているような温厚な老人だ。
彼はスマートフォンを持っておらず、情報源は帰宅後に見る朝のニュース番組くらいしかないため、目の前にいる常連のフリーターが今日本で一番バズっている話題の人物であることなど、全く知る由もない。
「すんません店長。なんか、変な連中が家の前にたむろしてて……」
「最近は物騒だからねぇ。戸締まりはしっかりしなさいよ。……おや、可愛いワンちゃんだね。飼い始めたのかい?」
「いや、さっきゴミ捨て場で拾いまして」
『ワフッ』
悠作の脇に抱えられた黒い豆柴が、店長に向かって愛想よく鳴く。悠作のプレッシャー下にあるためか、不気味な魔力は完全に抑え込まれており、見た目はただのちょっと角の生えた可愛い子犬になっていた。
「それは偉いねぇ。……で、今日も弁当かい?」
「はい。もし残ってたらでいいんですけど……」
「ちょうどいいところに。さっき消費期限が切れたばかりの『特盛りデミグラスハンバーグ弁当』が二つあるんだ。ワンちゃんもいるなら、二つとも持っていきなさい」
店長がバックヤードから、ずっしりと重い弁当を二つ入れたレジ袋を差し出してくれた。
その瞬間、悠作の死んだ魚のような瞳に、明確な光が宿った。
「……! 店長、マジで一生ついていきます」
「大げさだねぇ。レンジでしっかり温めて食べるんだよ」
塩コショウだけの味付けで耐えていた悠作の空腹の絶望が、廃棄のハンバーグ弁当二つによって一気に希望へと塗り替えられた。
悠作はレジ袋を大事に両手で抱え、豆柴を片脇に挟み直すと、何度も店長に深く頭を下げてコンビニを後にした。
★★★★★★★★★★★
アパートに戻る道中、相変わらずマスコミやファンが遠巻きについてきていたが、悠作にとってはもはや道端の石ころと同義だった。手の中にあるハンバーグ弁当のずっしりとした重みと温もりだけが、今の彼にとっての唯一の現実だ。
部屋に戻り、鍵をガチャリと閉める。
「ふぅ……」
ようやく確保された平穏な空間。
悠作はレジ袋から弁当を一つ取り出し、電子レンジに放り込んで温めボタンを押した。五〇〇Wで二分半。その待ち時間すら、今の悠作にとってはもどかしい。
待っている間、もう一つの犬用の弁当の封を開け、割り箸で大きなハンバーグを半分に割る。濃厚なデミグラスソースと肉汁の香りが、六畳一間の狭い部屋に充満した。
「ほら、食え」
床に置いたプラスチックのトレーに、割ったハンバーグを置いてやると、黒い豆柴は目を輝かせてそれに食らいついた。野生の強靭な顎と消化器官であっという間に肉塊を平らげ、もっとくれとばかりに悠作を見上げて尻尾を振る。
「……お前、よく食うな」
悠作は残りのハンバーグもトレーに落としてやりながら、深いため息をついた。
「お前がいっぱい食うと、俺の分が減るじゃん……」
口では文句を言いながらも、その手は犬の頭を優しく撫でていた。
チン、と電子レンジの温め完了の音が鳴る。
「さて、俺も食うか」
悠作はホカホカの弁当を取り出し、万年床の上に胡座をかいて割り箸を割った。分厚いハンバーグを一口かじり、デミグラスソースがたっぷりついた白米を勢いよくかき込む。
ジャンクで濃い味が、空っぽの胃袋に染み渡っていく。
「……うめぇ」
幸せを噛み締めるような、心底実感のこもった呟きだった。
足元では、腹を満たした黒い豆柴が満足そうに丸くなっている。
ただの廃棄弁当でこれほどの至福を得られる男にとって、自分が世界中から注目されていることなど、今はどうでもいいことだった。悠作はただ黙々と、目の前のハンバーグを味わい続けていた。




