第3話 虚無顔のワンパン炸裂
第十層への薄暗い階段を上りながら、鈴木悠作は自分の左腕につけた安物のデジタル時計に視線を落とした。
液晶画面が示す時刻は、一五時四二分。
「あーあ、時間食っちゃったな……」
悠作の口から、ひどく重いため息が漏れた。
インベントリの隅に転がっていた手頃な黒い石――アパートで漬物石代わりに使っていたものだ――を指で弾き、通路を塞いでいた巨大なトカゲを吹き飛ばしたこと自体は、別に大した労力ではない。
問題なのは、あいつが道を塞いでいたせいで足を止めざるを得ず、数十秒のタイムロスが発生してしまったことだ。
ここから地上まで、急いで歩いても一時間近くかかる。ギルドでの面倒な手荷物検査と精算を済ませ、駐輪場から自転車を立ち漕ぎしたとしても、特売の始まる一七時には到底間に合わない計算だった。
あの見栄っ張りのリーダーが余計な階層まで下りようと言い出さなければ。あの邪魔なトカゲがもっと端っこを歩いていれば。
今日の夕飯も、明日の朝飯も、味気ないもやし炒めで確定だ。
悠作は完全に死んだ魚の目になりながら、背中の三トンを超えるバックパックを揺らし、セーフエリアである第十層の入り口へと足を踏み入れた。
そこには、炎上烈と『紅蓮の剣』のメンバーたちが、冷たい石の床にへたり込んだまま、ガタガタと震えていた。
彼らは階段の暗がりから姿を現した悠作を見ると、まるで死神にでも遭遇したかのように顔をひきつらせ、這いずるようにして後ずさった。
「ひっ……!」
魔法使いの女が短い悲鳴を上げる。
悠作は返り血一つ浴びておらず、息も全く乱れていない。ただ、先ほどよりもさらにどんよりとした無気力なオーラを身に纏っているだけだ。
だが、烈の目にはそれが、底知れない化け物の圧倒的なプレッシャーに映ったのだろう。囮にして見捨てた自分たちを、確実に報復しに来たのだと。
「お、お前……す、鈴木……ッ!」
恐怖で喉が引きつり、烈は床に手をついたまま、必死に後退しようともがく。他のメンバーも完全に腰を抜かし、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしていた。
彼らを見下ろした悠作は、小さく首を傾げた。
悠作の視点からすれば、へたり込んでいる烈たちは「慌てて逃げてきて疲労困憊になっている」ようにしか見えなかった。
それに、自分を囮にしたことについて責め立てて謝罪させたり、ここで揉め事を起こしたりすれば、さらに時間を食うだけだ。今は一秒でも早く地上に戻り、ワンチャンスに賭けてスーパーへ向かうことの方が優先度が高い。
「あ、お疲れ様です。俺、もう帰りますんで」
平坦で、事務的な声だった。
悠作は怒りをぶつけるでもなく、ただ、コンビニのバイトのシフトを終えた時のようなトーンで告げた。
「え……?」
「その荷物、ギルドの倉庫の前に置いときますね。じゃ、お疲れ様でした」
悠作は立ち止まることすらなく、烈たちの横を通り過ぎ、そのまま出口へ向かう階段を上っていった。
残された烈たちは、呆然とその後ろ姿を見送る。怒りすら向けられず、報復する価値もない路傍の石として扱われたことに気づき、烈は完全に心をへし折られて床に突っ伏した。
★★★★★★★★★★★
悠作が地上への直通エレベーターに乗り込み、ギルドのロビーに到着したのは一六時三〇分のことだった。
普段なら和やかに談笑している探索者たちや受付の職員たちが、今日は異様にざわついていた。誰もが自分のスマートフォンや、壁に設置された大型モニターを食い入るように見つめ、何かを興奮気味に囁き合っている。
「おい、これマジかよ……第十二層に災害級が出たらしいぞ」
「でも、なんか変なポーターがワンパンしたって……」
「CGじゃないのか? 生配信でそんなこと……」
断片的に聞こえてくる会話に、悠作は少しだけ眉を動かした。
(魔竜? ああ、さっきの邪魔なトカゲのことか。……まあいい、俺には関係ない)
面倒な騒ぎに巻き込まれるのだけは御免だ。悠作は気配を極限まで消し、誰とも目を合わせないようにしながら、受付カウンターの端にある手荷物預かり所のシャッターの前に、三トン超えのバックパックを音もなく下ろした。
「鈴木です。紅蓮の剣の荷物、ここに置いときますんで」
通りかかった若い職員にそれだけ告げると、返事も待たずにギルドの自動ドアをくぐり抜けた。
時刻は一六時三五分。
駐輪場に停めてあった錆びたママチャリに跨り、悠作はペダルを力強く踏み込んだ。
ここから近所のスーパー『ライフマート』までは、普通に自転車を漕げば二〇分はかかる。だが、今の悠作の身体能力をもってすれば、立ち漕ぎで一五分を切ることも可能だ。
(頼む、残っていてくれ……!)
夕暮れの風を切り裂きながら、悠作は必死に祈った。
先週は鶏むね肉の特売を逃し、三日間もやし炒めで食いつなぐ羽目になったのだ。今週はせめて、卵かけご飯や目玉焼きというささやかな贅沢を味わいたい。
赤信号に引っかかるたびに舌打ちをし、裏道を駆使して最短ルートを爆走する。
そして、一六時五〇分。
息を切らしながらライフマートの駐輪場に自転車を滑り込ませた悠作は、自動ドアを抜けて一目散に特売コーナーへと向かった。
だが。
そこにあるはずの卵の山は、跡形もなく消え去っていた。
「……」
空っぽになった段ボール箱の前に、『本日のタイムセール品は終了しました』という無情な赤い札がポツンと立てられている。
どうやら今日は近所の主婦たちの出足が早く、特売開始前から長蛇の列ができていたらしい。
わかっていたことだ。わかっていたことだが、実際に現実を突きつけられると、足元から崩れ落ちそうなほどの虚無感が襲ってくる。
悠作の顔から、完全に表情が抜け落ちた。
ダンジョン内で巨大なトカゲを前にした時よりも、はるかに深く暗い、完全なる『無』。
「……終わった」
誰にも聞こえないほどの小さな呟き。
悠作は力なく肩を落とし、野菜コーナーへと足を向ける。仕方なく、定価のもやしを二袋と、割引シールの貼られていない豆腐をカゴに入れ、重い足取りでレジの列に並んだ。
★★★★★★★★★★★
悠作がスーパーのレジで小銭を数え、ため息をついている頃。
SNSと動画プラットフォームは、かつてない異常な熱狂の渦に包まれていた。
『紅蓮の剣』の生配信アーカイブから切り抜かれた、わずか十数秒の動画。それが瞬く間に数十万回、数百万回とリポストされ、あらゆるタイムラインを埋め尽くしていたのだ。
[【放送事故】B級探索者の配信にS級ボス出現www]
[これマジ? CGじゃないの?]
[生配信でCGなわけないだろ。同接五万人超えてたぞ]
[逃げたレッドたちの後ろで、ポーターのおっさんが竜の上半身消し飛ばしたんだけど……]
[なんだよこれ。詠唱も魔法陣もないぞ]
[スロー再生してみたけど、右手の指パッチンしてるようにしか見えない]
[インベントリの機能使って質量弾でも撃ち出したのか? いや無理だろ、人間の腕力でどんだけ重いもん弾けばそうなるんだよ]
動画の中で悠作が見せた、常識外れのノーモーション攻撃。
そして何より視聴者を狂わせたのは、その後の悠作の「反応」だった。
[てか、S級ボスを瞬殺した直後の顔見た?]
[見た。チラッと時計見て「あーあ」って顔して帰っていった]
[あれ絶対、魔竜のこと『ただの邪魔な石ころ』くらいにしか思ってないだろ]
[恐怖とか達成感とか、そういう感情が一切ない。完全に無だった]
[どんだけ修羅場くぐってきたらあんな悟り開けるんだよ]
[身元特定班急げ! あの装備、その辺のホームセンターで売ってる安全靴だぞ]
[弘法筆を選ばずってやつか……本物の達人じゃねえか]
[あのポーター、完全に強すぎて感情死んでるじゃん]
[虚無ニキって呼ぼうぜ]
[虚無ニキwww]
[虚無ニキ最強!]
誰かがふざけて書き込んだ『虚無ニキ』という単語は、あっという間に拡散され、SNSのトレンド一位に躍り出た。
彼が一体何者なのか、どれほどの重圧を背負ってあの境地に達したのか。ネット上の有志たちによって、存在しない壮絶なバックボーンが次々と捏造され、勝手に神格化が進んでいく。
そして、その熱狂は一般のネット民にとどまらなかった。
都内にある高級タワーマンションの一室。
防音設備が完備された薄暗いゲーミングルームで、複数のモニターを並べたデスクの前に、一人の女性が座っていた。
登録者数三〇〇万人を超えるトップVtuberであり、A級魔法剣士でもある高橋すず。
世間からは完璧なクールビューティーとして知られる彼女は今、震える両手で口元を覆い、血走った目でモニターを見つめていた。
モニターに大写しになっているのは、悠作が魔竜をワンパンし、うんざりした表情で時計を見たあの瞬間の静止画だ。
「……っ、最高。なにその、ゴミを見るような目……!」
すずの口から漏れたのは、普段のクールな配信では絶対に聞かせられない、ひどく熱を帯びた限界オタクの呟きだった。
「尊い……強すぎる……っ! 詠唱破棄どころじゃない、魔力すら感じさせない純粋な暴力……! なのにあの達観した無気力な表情……っ! ああっ、無理、好き……!」
彼女はデスクに突っ伏して両足をバタバタとさせた後、ガバッと顔を上げ、キーボードを猛烈な勢いで叩き始めた。
「ギルドのコネを全部使って、絶対にこの人を特定する……っ! 私のお師匠様に……あわよくば、夫になってもらうんだから……っ!」
そんな事態が進行しているとは露知らず。
六畳一間の古びたアパートで、悠作は買ってきたばかりのもやしを古びたフライパンに放り込んでいた。
ジュージューという油の音と共に、安い塩コショウの匂いが立ち上る。
スマートフォンはカバンの中に放りっぱなしで、おびただしい数の通知が鳴り続けていることにも気づかない。
悠作はただ、明日の朝食もこれか、と鬱々と考えながら、菜箸で力なくもやしをかき混ぜ続けた。




