第14話 ギルド凱旋とオアシス・みのり
日本最大の探索者拠点である、ダンジョン協会ギルド本部。
吹き抜けの広大なエントランスホールには、今日も血の匂いと魔力、そして野心が入り混じった独特の喧騒が満ちていた。
重厚なミスリル製の金属鎧を着込んだ歴戦の大男や、魔法触媒の杖を磨く洗練されたローブ姿の魔法使い、さらには獲物を探すような鋭い目つきの斥候たち。ここには日本中から集まった数百人以上のプロの探索者たちがひしめき合い、次なるダンジョンへの突入準備や情報交換に余念がない。
その重厚な自動ドアが開き、一人の男が入ってきた。
身長一九〇センチに迫る長身。泥と油に塗れた作業着。そして、頭には『ライフマート』の四つ葉のクローバーが印字された茶色い紙袋。
右手にはパンパンに膨らんだスポーツバッグを提げ、左手では帽子とサングラスで顔を隠した不審な女の襟首を掴んで引きずっている。
「……なんだあいつ」
「おい、あの紙袋……」
エントランスの喧騒が、潮が引くように静まり返っていった。
誰もが自分のスマートフォンを取り出し、先ほどまで見ていた配信画面の切り抜き画像と、目の前の不審者の姿を見比べている。
「……暑ぇ。もういいだろ。ここならマスコミもいねえし」
男――鈴木悠作は、鬱陶しそうに頭の紙袋を乱暴に脱ぎ捨て、近くのゴミ箱に丸めて放り込んだ。
ダンジョンの湿気と汗で額に張り付いた無造作な前髪を掻き上げ、ひどく気怠げな、死んだ魚のような瞳をあらわにする。
徹夜明けのコンビニ店員よりも覇気のないその『虚無顔』が白日の下に晒された瞬間、ホール内の空気が、文字通り完全に凍りついた。
「おい、マジかよ……」
「虚無ニキだ……! 昨日の配信の、本物の虚無ニキだぞ!!」
「えっ、じゃあ隣で首根っこ掴まれてる女って、まさか天音ルミか!?」
「信じられねえ、あのトップアイドルをゴミ袋みたいに引きずってるぞ……」
誰かの震える声が響いたのを皮切りに、数百人の探索者たちの間に電撃のような動揺が走った。
だが、彼らは外に群がっていたマスコミや一般の野次馬のように、群がってフラッシュを焚くような真似はしなかった。命懸けでダンジョンに潜っているプロの探索者だからこそ、配信の映像から伝わってきた『アレ』の理不尽な暴力を、本能レベルで理解していたのだ。
悠作が一歩、擦り切れた安全靴で前へ踏み出す。
それだけで。
数百人の荒くれ者たちの間に、声にならない緊迫感が走った。誰もが「彼に触れれば命はない」という野生の勘に従い、ジリジリと壁際へ後退していく。怒号も、威嚇もない。ただ、静かな恐怖と畏敬の念だけがそこにあった。
巨大なエントランスホールの中央が、不自然なほどぽっかりと空洞になる。彼らは武器の触れ合う音すら立てないよう息を殺し、壁に背中を張り付けて悠作から距離を取っていた。
(……なんだ? みんなして壁に張り付いて。なんか怖い人でも来てるのか?)
悠作は背後をチラリと振り返って首を傾げながらも、人がいないなら歩きやすくていいやと、肩を落として受付へと向かって歩き出した。
襟首を掴まれて引きずられている高橋すずは、左右からの畏怖の視線を一身に浴びながら、マスクの下で「ふふん」と誇らしげに口角を上げていた。
(すごい……! ギルドの猛者たちが、お師匠様の覇気にあてられて壁際まで退いている……! 言葉一つ発さずにこの空間を支配するなんて、やっぱり私の目に狂いはありませんでした!)
彼女は引きずられているという自分の屈辱的な状況など完全に忘れ去り、強者の隣にいる限界オタクとしての優越感にどっぷりと浸りきっていた。
そんなすずが一人で悦に入っている間に、悠作は横に長い受付カウンターの、一番端の窓口へとたどり着いた。
他の受付嬢たちが怯えたように視線を逸らす中、そこに座っていた小柄な女性だけが、パタパタとキーボードを叩く手を止めて顔を上げた。
「あ、悠作さん。お疲れ様です」
愛嬌のある、クシャッとした温かい笑顔だった。
ギルドのベテラン受付嬢、伊藤みのり。彼女だけは、S級ボスを粉砕しようがトップアイドルを引きずっていようが、普段と全く変わらないトーンで悠作に声をかけた。
「……伊藤さん」
その顔を見た瞬間、悠作の肩からスッと力が抜けた。
マスコミに家を包囲され、厄介なオタクに付きまとわれ、疲労と空腹で限界に達していた悠作にとって、彼女のその「いつも通りの対応」は、砂漠で見つけたオアシスそのものだった。
「悠作さん、また面倒事に巻き込まれたんですか? 朝からギルドの電話、悠作さんの問い合わせで鳴りっぱなしですよ」
「巻き込まれたっていうか……家帰れなくなった。マスコミと野次馬に包囲されてて、コンビニにも行けない」
「あはは、悠作さんなら窓から飛んで逃げられそうなのに。相変わらずそういうところは不器用ですね」
みのりがくすくすと笑う。
遠巻きに見ていた探索者たちは、あの『虚無ニキ』に気安く冗談を言う受付嬢の姿に、「伊藤さん、只者じゃねえ……!」と勝手に戦慄を深めていた。
「あの、お言葉ですが!」
すずが悠作の影から飛び出し、カウンターに身を乗り出した。サングラスとマスクを強引に外し、完璧な美貌を露わにしてみのりを睨みつける。
「お師匠様は不器用なんかじゃありません! 俗世の煩わしさを断ち切っているだけです! 一番弟子の私が、お師匠様の身の回りのことはすべて……っ!」
「あ、天音ルミさん。いつも配信見てますよ。悠作さんがいつもお世話になってます」
みのりは全く動じることなく、にこやかな笑顔のまま大人の余裕で軽く受け流した。
すずは出鼻を挫かれ、「お、お世話だなんて、そんな……むしろ私が……」と完全に毒気を抜かれて口ごもってしまう。この受付嬢、只者ではないと、すずのA級探索者としての本能が告げていた。
「とりあえず、悠作さんはギルドで保護しますから安心してください。……それより」
みのりの視線が、悠作の手にあるスポーツバッグへと向けられた。
先ほどから、バッグがモゾモゾと不自然に動き、中から「クゥ〜ン」という悲しげな鳴き声が漏れているのだ。
「そのバッグの中で動いてるの、もしかして配信に映っていたA級の……」
「ああ、こいつか」
悠作はバッグのジッパーを開け、中から真っ黒な豆柴の首根っこを掴んで引っ張り出した。
フェンリルの幼体は、窮屈なバッグから解放されて「プハァッ!」と息を吐き出すと、ブルブルと体を震わせて毛並みを整えた。
「ギルド内に生きた魔物を持ち込むには、魔物管理課でテイム登録と、規定の予防接種を受けないといけないルールなんです。奥の医務室に行きましょうか」
「注射か。……こいつ、暴れないといいけど」
★★★★★★★★★★★
ギルド地下の魔物管理課、医務室。
ステンレス製の冷たい診察台の上に置かれたフェンリルは、完全に怯えきっていた。
耳をペタンと後ろに伏せ、尻尾を股の間に固く巻き込んでいる。その視線の先には、白衣を着た獣医師の男性が、先端が怪しく光る魔物用の太い注射器を構えていた。
A級魔物としての野生の勘が、「あれを刺されたらヤバい」と全力で警報を鳴らしているのだ。
『ガァゥッ! グルルルル……ッ!』
フェンリルは診察台の上で後ずさりし、獣医師に向かって牙を剥き出しにして威嚇した。四肢の毛先から、防衛本能による青い炎がチラチラと漏れ出している。
「あわわ、やっぱりA級魔物は威圧感が違いますね……! いくら幼体でも、この殺気じゃ近づけませんよ!」
獣医師が冷や汗を拭いながら後ずさる。
「ほら、おとなしくしろって。すぐ終わるから」
悠作がため息をつきながら、威嚇するフェンリルの背中をポンと無造作に叩いた。
瞬間、フェンリルはビクッと青い炎を引っ込め、悠作の作業着の胸元に無理やり頭を突っ込んで、ガタガタと震えながらしがみついてきた。
『キュゥゥン……クゥン……ッ!』
主君の服に鼻先をこすりつけ、「助けてくれ」とばかりに泣き声を上げている。
その姿に、背後で見守っていたすずが「ひんっ……尊い……!」と変な声を出して胸を押さえた。
「困りましたね。悠作さんが押さえてくれないと打てませんよ」
「俺が押さえてもいいですけど、力加減間違えたらこいつの首折れちゃうんで」
悠作が面倒くさそうに首を掻いていると、横からみのりが「はい、これ」と小さな袋を差し出した。
中には、干し肉のような赤黒いブロックが入っている。
「魔物管理課で使っている、最高級の特製ビーフジャーキーです。これで気を引いている間に打っちゃいましょう」
みのりが袋の封を開けた瞬間。
芳醇な肉の香りが医務室に漂った。悠作の胸元に顔を埋めていたフェンリルの鼻が、ピクピクと激しく反応する。
フェンリルはゆっくりと顔を上げ、みのりの手にあるジャーキーをガン見した。先ほどまで廃棄弁当を平らげたばかりだというのに、口の端からはツーッとよだれが垂れている。
(注射は怖い……。でも、あの肉、めちゃくちゃいい匂いがする……ッ!)
A級魔物のプライドと、圧倒的な食い意地が、小さな頭の中で激しく葛藤しているのが目に見えてわかった。
みのりがジャーキーをフェンリルの鼻先に近づける。
「ほら、美味しいおやつですよー」
パクッ。
フェンリルの食い意地が、注射への恐怖にあっさりと勝利した。
フェンリルは悠作の腕に前足をかけたまま、みのりの手から高級ジャーキーを引ったくり、夢中でクチャクチャと咀嚼し始めた。目を細め、短い尻尾をちぎれんばかりにパタパタと振っている。
「先生、今です!」
「はいっ!」
獣医師が素早く背後に回り込み、フェンリルの首の後ろのたるんだ皮膚をつまみ上げると、そこに太い注射針をブスッと突き刺した。
『ヒャンッ!?』
フェンリルは鋭い痛みに飛び上がり、再び悠作の腕にガシッとしがみついた。
しかし、その口はもぐもぐとジャーキーを噛むのを絶対にやめなかった。涙目で「ヒャンッ」と抗議の声を上げながらも、口元には肉のカスをつけてクチャクチャと咀嚼を続けている。おかわりの要求なのか、短い尻尾の先だけがピコピコと動いていた。
「……お前、本当にバカな犬だな」
悠作は呆れ果てた声で呟きながらも、しがみついてくるフェンリルの頭を無造作に撫でてやった。
「これで登録とワクチン接種は完了です。お疲れ様でした」
獣医師がカルテにサインをして一息つく。
悠作はフェンリルを抱き上げたまま、みのりに向き直った。
「伊藤さん。さっき保護してくれるって言ってましたけど、アパートが完全にマスコミに包囲されてて、マジで今夜寝る場所がないんです。ギルドの休憩室のソファでもいいんで、どこか貸してもらえませんか?」
悠作の切実な訴えに、みのりはフフッと笑って首を横に振った。
「休憩室なんて駄目ですよ。……悠作さんには、もっとちゃんとした『安全な仮住まい』を手配しますから、少しだけ待っていてくださいね」
みのりの言葉を聞いた瞬間、悠作の全身から今日一番の深い安堵の息が漏れた。
「助かります。マジで一生の恩に着ますよ」
「ふふっ、大げさですね。じゃあ、まずはギルド長に掛け合ってきますね。少し待っててください」
みのりが笑顔で奥のスタッフルームへと消えていく。
悠作は胸元でまだクチャクチャとジャーキーを噛み続けているバカな犬の頭を撫でながら、ようやく確保できそうな寝床の想像に、今日初めて心からホッと肩をなでおろしていた。




