第13話 限界を迎える平穏
画面がプツンと真っ黒に暗転し、「配信が終了しました」という無機質な文字が表示される。
「はぁっ、はぁっ……っ!」
高橋すずは、スマートフォンを握りしめたまま、肩で激しく息をしていた。
同接十五万人。サーバーの処理落ち。そして、A級魔物フェンリルの全国デビュー。
アイドル探索者としての長年のキャリアの中でも、これほど心臓に悪い数分間は存在しなかった。
「……ん? なんだ、急に切って」
万年床の上に寝転がったままの鈴木悠作が、頭に被った紙袋をずり上げながら面倒くさそうに首を傾げた。
その足元では、世界を震撼させた黒い子犬が「もっともやしをくれ」とばかりに尻尾を振っている。
「な、なんでって! お師匠様、その子はA級指定の災害級魔物ですよ!? 配信に映ったら大パニックになるに決まってるじゃないですか!」
「A級? ゴミ捨て場で残飯漁ってたぞこいつ。ただの野良犬だろ」
悠作は欠伸を噛み殺し、子犬の首根っこをヒョイと持ち上げた。
フェンリルは抵抗するどころか、四肢をだらんとさせて悠作にされるがままになっている。
「……それにしても、お前なんか臭えな。生ゴミの匂いがする」
悠作は顔をしかめ、紙袋を脱ぎ捨てて立ち上がった。
「風呂入れるか。俺の布団が臭くなる」
そのまま悠作は、子犬をぶら下げたまま狭いユニットバスへと向かった。
すずは慌ててその後を追い、脱衣所のドアの隙間から中を覗き込む。
「あの、お師匠様! いくらお師匠様でも、魔物は水や拘束を極端に嫌がります! 暴れて青い炎を吹かれたら、このアパートごと……!」
「お湯出すからちょっと待ってろよ」
すずの警告など全く耳に入っていない悠作は、ピンク色のプラスチックの手桶にシャワーからお湯を溜め始めた。
タイル張りの冷たい床に下ろされたフェンリルは、初めて見る『風呂場』という空間に戸惑っているのか、不安げにクゥンと鳴きながらウロウロと歩き回っている。野生の魔狼にとって、未知の水場に閉じ込められることは極度のストレスのはずだ。
そして、手桶に溜まったお湯に興味を持ったのか、フェンリルは恐る恐る近づき、短い右の前足を伸ばしてチョイチョイと水面を叩いた。
ピチャッ、と跳ねたお湯が鼻先に当たり、フェンリルは「ヒャンッ!」と短い悲鳴を上げて一歩飛び退いた。額の角をピクピクと動かし、得体の知れない『お湯』という存在を威嚇するように低く唸っている。
「ほら、お湯加減どうだ。熱くないだろ」
悠作は威嚇など完全に無視し、手桶のお湯をフェンリルの背中にザバッと無造作にぶっかけた。
「ひゃんっ!?」
フェンリルはビクッと体を震わせ、反射的に逃げ出そうとした。だが、悠作の大きな手が首の後ろをガシッと掴むと、その絶対的な力関係を思い出してピタリと動きを止める。
お湯の温かさがじんわりと皮膚に伝わってきたのか、次第にフェンリルの体から強張りが消えていく。
悠作はドラッグストアで買ってきた特売の人間用シャンプーを手に取り、無造作にフェンリルの背中にこすりつけた。
「お前、毛の量多いな。泡立ち悪いぞ」
ガシガシと遠慮のない手つきで全身を洗っていく。フェンリルは逃げるどころか、次第にそれがマッサージのように心地よくなってきたのか、目を細めてペタンと床に座り込んでしまった。
頭の上からシャンプーの白い泡をこんもりと乗せられ、鋭い角の周りまで丁寧に洗われている。シャワーヘッドから流れるお湯を不思議そうに見上げ、ペロリと舐めては「クゥ〜ン」と甘えた声を出している。
その姿は、どこからどう見てもお風呂を満喫しているただの愛玩犬だった。
脱衣所の隙間からその光景を見ていたすずは、口元を両手で覆い、ズルズルとその場に崩れ落ちた。
(A級魔物が、人間用の安いシャンプーで泡だらけになってる……! しかも、お湯にビビる姿とか、お師匠様に洗われて気持ちよさそうにしてる顔とか……っ! 尊い、尊すぎます……っ!)
すずの限界オタクとしてのキャパシティは、とっくに限界を突破していた。
「よし、綺麗になったぞ。ブルブルしろ」
悠作がシャワーで泡を洗い流し、手を離す。
フェンリルは立ち上がると、本能のままに全身を激しくブルブルと震わせた。大量の水飛沫が狭いユニットバスに飛び散り、悠作の作業着をびしょ濡れにする。
「うおっ、冷てぇ。お前、水飛ばすなよ」
文句を言いながらも、悠作は使い古しのバスタオルでフェンリルの体をガシガシと拭いてやる。濡れて一回り細くなったフェンリルは、悠作の手をペロペロと舐めて機嫌よさそうに尻尾を振っていた。タオルにじゃれついて甘噛みしようとするのを、「こら、遊ぶな」と悠作がたしなめると、おとなしくその場にお座りをする。
「さて、と」
悠作は濡れた作業着の裾を絞りながら、リビングに戻ってきた。
「弁当の残飯じゃ腹の足しにならなかったし、俺、コンビニでもやし買ってくるわ。お前、適当に帰ってていいぞ」
悠作はすずにそう告げると、財布をポケットに突っ込んで玄関のドアノブに手をかけた。
「あ、待ってくださいお師匠様! 今外に出るのは危険です!」
すずが慌てて立ち上がるが、悠作は「大袈裟だな」とため息をつき、構わずアルミのドアを押し開けた。
ギィ、と錆びた音が鳴るか鳴らないかのうちに、外の世界の異常な熱量が六畳一間に雪崩れ込んできた。
狭いアパートの通路をびっしりと埋め尽くしていたのは、何台もの巨大なテレビカメラと、スマートフォンを高く掲げた無数の野次馬たちだった。目が眩むようなストロボの閃光が、連続して焚かれる。
「おい、出てきたぞ!」
「虚無ニキ! さっきの犬はどこだ!」
「お願いこっち見て!」
凄まじい歓声と怒号が入り混じり、アパートの平穏な空気は一瞬にして消し飛んだ。誰もが自分だけの特ダネを撮ろうと、前のめりになって押し寄せてくる。
悠作は無表情のまま、一秒でドアを閉め、チェーンをかけた。
そして、ゆっくりと部屋の中を振り返る。
「……おい。朝より人増えてないか」
悠作の声は、かつてないほどに低く、絶望に満ちていた。
ドアスコープから外を覗き込むと、朝は百人程度だった群衆が、今や路地の奥までびっしりと埋め尽くすほどに膨れ上がっている。マスコミの中継車らしき巨大なバンまで横付けされており、もはや一種のお祭り騒ぎだった。
「だ、だから言ったじゃないですか! 今の配信で完全に火に油を注いじゃいましたから、外に出たら揉みくちゃにされますよ!」
すずは青ざめた顔でドアを押さえた。悠作にとっては死活問題だった。
窓のカーテンを少しだけめくって外を確認するが、アパートの裏手にまで野次馬が回り込んできている。完全に包囲網が完成していた。
「……終わった。これじゃコンビニに行けない」
悠作は万年床の上にドサッと座り込み、頭を抱えた。
手元にある食材はゼロ。すがるような思いで小さな冷蔵庫を開けてみたが、中にはいつから入っているのかわからない、飲みかけの麦茶のペットボトルが一本だけポツンと冷やされているだけだ。先ほど飲み干した牛乳の空パックはすでにシンクに放り投げてしまったし、大豆一粒たりとも残っていない。
この絶望的な状況を裏付けるかのように、悠作の腹の虫がキュルルルと情けない音を立てた。
「お師匠様! なら、私の家に来ますか!? 都内のセキュリティ万全のタワーマンションです! 専属のシェフが、最高級のA5ランク和牛を焼いておもてなししますから!」
すずが目を輝かせて提案する。
「……お前と一緒に出歩いたら絶対バレるだろ。今よりもっと面倒なことになるに決まってる」
悠作は即答で却下した。
トップアイドルと一緒にタワマンに向かう姿など撮られれば、それこそ日本中のオタクたちから命を狙われかねない。悠作が求めているのは、あくまで誰にも干渉されない平穏なフリーター生活なのだ。
「ギルドだ」
悠作は顔を上げ、ぽつりと呟いた。
「ダンジョン協会のギルド本部に行く。あそこなら警備が厳しいし、マスコミも勝手に入れない。伊藤さんなら、なんとかしてくれるかもしれない」
伊藤みのり。ギルドの受付嬢であり、底辺ポーターとして扱われていた悠作にも分け隔てなく接してくれていた、数少ない常識人だ。彼女に頼み込んで、ギルドの裏口からこっそり脱出ルートを確保してもらうか、せめて休憩室のカップ麺くらい恵んでもらうしかない。あの温和な笑顔だけが、今の悠作にとって唯一の希望だった。
「伊藤……? 女の人の名前ですか? なぜそんな一般人に……私という一番弟子がいながら!」
すずが不満げに頬を膨らませたが、悠作はそれを完全に無視した。
「おい、お前もその変装グッズをちゃんと着ろ。お前が俺の部屋から出てきたのがバレたら、俺の平穏が完全に終わる」
悠作はすずに帽子とマスク、サングラスを押し付けた。
そして、自分は洗面台の下に置いてあった、さっきまで被っていた『ライフマート』の紙袋を再び頭に被る。
足元で首を傾げているフェンリルをヒョイと持ち上げると、大きなスポーツバッグの中に無理やり押し込んだ。
「おとなしくしてろよ」
バッグの中から「クゥン」というくぐもった声が聞こえる。
「……お師匠様、玄関は完全に塞がれてますよ。どうやって外に出るんですか?」
「裏窓から出る」
悠作はアパートの裏側、野次馬が数人たむろしている窓のサッシに手をかけた。
「えっ、でも裏にも人が回ってますよ!?」
「問題ない。音を立てなきゃいいんだろ」
悠作は紙袋を被ったまま、音もなく窓を開けた。長年油を差していない窓枠だが、悠作が絶妙な力加減で持ち上げるようにスライドさせると、ミリ単位の摩擦音すら立てずに開いた。
路地裏には数人の野次馬がスマートフォンを弄りながら張り込んでいる。しかし、悠作はスポーツバッグを片手に、もう片方の手ですずの襟首を掴むと、そのまま窓枠からふわりと跳躍した。
体重が百キロ近い大男と、成人女性、それに犬が入ったバッグ。そのすべてを抱えたまま、悠作は野次馬の頭上を音もなく飛び越え、アパートの裏のブロック塀の向こう側へと、まるで一枚の枯れ葉のように着地したのだ。
「……っ!?」
すずは声を出しかけたが、悠作の異常な隠密行動に圧倒され、慌てて両手で口を塞いだ。野次馬たちは、自分たちの頭上をあの『虚無ニキ』が飛び越えていったことに、全く気づいていなかった。




