第11話 なし崩しコラボ配信の開幕
「いらないんで帰ってください」
ピシャリと冷たく言い放ち、鈴木悠作は「お肉買いますからぁぁぁ!」とすがりつく高橋すずの悲痛な叫びを完全にスルーして、面倒くさそうに万年床から立ち上がった。
そのまま狭いキッチンスペースに向かい、霜の張った古びた冷蔵庫のドアを引く。冷気と共に目に入ったのは、ドアポケットの底の方に少しだけ残った、安売りの成分無調整牛乳の紙パックだけだった。
賞味期限は昨日で切れているが、この程度の誤差で悠作の頑丈な胃腸が壊れることはない。悠作はそれを取り出すと、わざわざコップに移す手間すら惜しんで直接口をつけ、ゴクゴクと一気に煽った。
「ぷはっ」
喉を鳴らして飲み干した空のパックをシンクに放り投げると、今度は作業着の胸ポケットから百円ライターと安物の煙草を取り出した。
カチッ、と火をつけ、油汚れのついた換気扇のスイッチを入れる。ブォォォォというけたたましい駆動音が六畳一間に響く中、悠作は換気扇の下に立ち、フィルターに向かって大きく紫煙を吐き出した。
ちゃぶ台の前に正座したままのすずは、その一連の動作を息を呑んで見つめていた。
(牛乳パックの直飲みからの、換気扇の下での立ち煙草……ッ! なんて無頼なの……! 己の肉体を極限まで鍛え上げた強者だからこそ許される、この圧倒的な退廃的色気……ッ!)
すずの限界オタクフィルターは、ただの行儀の悪い三十代フリーターの姿すらも「ハードボイルドな達人の休息」へと完璧に変換してしまっている。
足元でヘソを出して寝転がっていた黒い子犬――A級魔物であるフェンリルの幼体――が、漂ってきた煙の匂いに鼻をひくつかせ、「クシュンッ」と小さなくしゃみをした。
「あ、わりぃ」
悠作は犬から顔を背け、煙を吐く方向をさらに換気扇の吸気口へと近づけた。
(魔獣フェンリルに対する、このさりげない気遣い……! 圧倒的な強さだけじゃない、この包容力……ッ! もう駄目、好きすぎます……っ!)
すずは両手で顔を覆い、もだえるように肩を震わせた。彼女の中で、悠作への心酔はもはや後戻りできない臨界点に達していた。
このまま自分が一人で彼を眺めているだけでも至福だが、同時に、世間の有象無象が彼の本当の偉大さを理解せず、ただの「面白い動画のネタ」として消費しようとしている状況がどうしても許せなかった。
「お師匠様!」
「だから違うって。もう帰って……」
「私、決めました! お師匠様のこの偉大さを、もっと世界に広めたいんです!」
「は?」
すずはコートのポケットから最新型のスマートフォンを取り出し、猛烈な勢いで画面をタップし始めた。
「今から私のチャンネルで、ゲリラコラボ配信をします! そうすれば、世間の連中もあなた様の真の価値と深淵を必ず理解するはずです!」
「いや、何言ってんの。絶対やだよ」
悠作は換気扇の下から顔をしかめた。
「顔出したらコンビニの店長にバレて、お前あの時サボってただろって怒られるし。だいたい、そんな目立つことしたら平穏に生きられない。面倒くさい」
「顔出しがNGなら、隠せばいいんです!」
すずは部屋の中を素早く見渡し、キッチンの隅に畳んで置いてあった大きめの茶色い紙袋を目ざとく見つけた。悠作が近所のスーパー『ライフマート』の買い出しで使い、ゴミ袋代わりにしようと放置していたものだ。
すずは指先に微弱な魔力を込め、紙袋の底に近い部分にプスプスと二つの丸い穴を開けた。
そして、煙草をふかしている悠作の背後に素早く回り込み、その紙袋を頭の上からスポッと被せたのだ。
「うわっ、ちょ、何すんの」
「これで完璧です! 視界も確保されてますよね!」
「いや、前は見えっけど……煙草が紙袋の端に当たって焦げそうなんだけど……」
「数分だけでいいですから! お願いしますぅぅっ!」
すずはスマホの携帯用スタンドをちゃぶ台にセットし、自分の実写の顔と、四つ葉のクローバーのロゴが入った紙袋を被った悠作が画角に並んで収まるように急いで調整した。
悠作が鬱陶しそうに紙袋を脱ごうと手を伸ばした時には、すずの指はすでに配信アプリの『スタート』ボタンを押し込んでいた。
「では、いきますよ! スリー、ツー、ワン……配信スタート!」
★★★★★★★★★★★
休日の午前十時。
動画プラットフォーム『D−Tube』のサーバーに、突如として尋常ではない負荷がかかった。
登録者数三〇〇万人を誇るトップVtuber『天音ルミ』の実写チャンネルで、事前の告知が一切ない突発的な生配信枠が立ち上がったのだ。
昨日の魔竜騒動、そして『紅蓮の剣』の永久追放会見の興奮が冷めやらないリスナーたちは、彼女からの新たな考察や情報を求めて、飢えた獣のように待機所へとなだれ込んだ。
『うおおおおルミちゃん実写枠きた!』
『昨日のS級ボスの解説の続きか!?』
『朝から元気だなー』
『てかサムネなくない? 完全に突発じゃん』
『画角いつもと違くない? どここれ』
すさまじい速度で流れるチャット欄の期待を背負い、配信の画面がパッと明るくなった。
しかし、そこに映し出された映像を見た瞬間、数万人のリスナーの思考は一斉にフリーズした。
画面の左側には、相変わらず息を呑むほど美しい天音ルミが、なぜか少し頬を紅潮させて満面の笑みで座っている。
問題は右側だ。
彼女の隣には、だぼだぼの作業着を着て、頭に『ライフマート』の四つ葉のクローバーのロゴが入った茶色い紙袋を深く被った大男が、胡座をかいて座っていたのだ。
しかも、紙袋の下の隙間から、チロチロと煙草の煙が漏れ出ている。
[え、何この配信]
[ルミちゃんの隣の不審者誰???]
[紙袋www]
[誘拐犯の要求動画か何か?]
[情報量が多すぎて脳が追いつかない]
[えっ、彼氏!? 彼氏なの!?]
チャット欄が困惑と阿鼻叫喚に包まれる中、すずはカメラに向かってプロのアイドルの顔を作りながらも、抑えきれないオタクの熱量を声に乗せた。
「皆さん、おはようございます! 天音ルミです! 本日はなんと、スペシャルなゲストにご登場いただいています! というか、私が強引に押しかけちゃいました!」
[ゲスト?]
[紙袋被ってるゲストとか聞いたことねえよw]
[ルミちゃんが押しかけたって、どういうこと?]
「お師匠様、皆さんにご挨拶を」
すずがキラキラと星を飛ばすような目で、隣の紙袋の大男を見つめる。
悠作は紙袋の目の穴からカメラのレンズをひどく面倒くさそうに見つめ返し、紙袋の下からフゥーッと細く煙を吐き出しながらぼやいた。
「……いや、挨拶って言われても。俺、ただのポーターだし。早く帰ってくんないかな」
低く平坦な、一切の覇気もやる気も感じられない声。
汚れの染み付いた作業着と、擦り切れた安全靴。
画面の向こう側のリスナーたちが、その符号の一致に気づくのに、数秒もかからなかった。
[おい待て]
[あの声]
[その作業着、まさか]
[えっ!?]
[嘘だろおい]
[虚無ニキ!?!?]
誰かの一言を皮切りに、チャット欄は滝のような勢いから、濁流を思わせる凄まじいスクロール速度へと変貌した。
[ルミちゃん、マジで虚無ニキ見つけ出したのかよ!?]
[特定早すぎだろwww 昨日の今日だぞ!]
[ていうかお師匠様って何!? 弟子入りしたの!?]
[紙袋被ってんの面白すぎるだろ]
[紙袋から煙出てるのシュールすぎて腹痛い]
[虚無ニキ、トップアイドル相手に『早く帰ってくんないかな』って言ったぞ今]
[強者の余裕すぎるwww]
「ふふっ、お師匠様はシャイなんです。それに、俗世の目立ちたがりな連中とは違って、顔や名誉を売ることに全く興味がないんですよ。そういうところも最高にクールですよね!」
すずはチャット欄の爆発的な反応を見て、さらに得意げに胸を張った。
「今日は、皆さんにこの方の本当の凄さを知ってもらうために、ある企画を用意しました!」
「企画?」
悠作が紙袋の中で眉をひそめる。
「はい! お師匠様の圧倒的な反射神経と空間把握能力を、このゲームで証明していただきます!」
すずはそう言って、画面外から一つのゲーム機本体とコントローラーを引っぱり出してきた。
[ゲーム?]
[虚無ニキがゲームすんの?]
[なんで急にゲーム実況www]
「……これ、『デッドリー・ソウルズ』じゃん」
悠作は紙袋の穴からゲーム機のパッケージを見て呟いた。
「知ってますか? 探索者界隈でも話題の、超高難易度の死にゲーアクションです」
すずがカメラに向かって解説する。
「プロゲーマーでもクリアに何十時間もかかるって言われてるんですが……お師匠様なら、初見でも絶対に余裕ですよね?」
[デドソルじゃん!]
[あれ初見クリアとか絶対無理だぞ]
[最初のボスで普通に百回は死ぬやつ]
[虚無ニキの反射神経ならいけるのか……?]
すずの期待に満ちた眼差しと、画面の向こうで固唾を呑む数万人のリスナーの視線を向けられ、悠作は深いため息をついた。
煙草の灰を携帯灰皿に落とし、紙袋を被ったままコントローラーを手に取る。
「……まあ、これなら俺も家でやろうと思ってたやつだから、別にいいけど。一回死んだら終わりな」
「はいっ! お願いします!」
悠作はくわえ煙草のまま、コントローラーのスタートボタンを面倒くさそうに押し込んだ。
ブラウン管の古びたテレビ画面の中で、重厚な鎧を着たキャラクターが暗い牢獄から立ち上がる。悠作の親指が、アナログスティックの上に静かに添えられた。




