第10話 達人の家事
「お願いです、お師匠様! ほんの少し、ご挨拶だけでもさせてくださいぃぃっ!」
静寂に包まれた日曜の早朝。築四〇年を越える木造アパート『コーポさざんか』の廊下に、黒ずくめの不審者――トップVtuberの高橋すずの切実な声が響き渡った。
魔力強化された脚力でドアの隙間にねじ込まれたブーツと、それを片手で涼しい顔をして押し返している鈴木悠作。
だが、その不毛な攻防は、隣の部屋から聞こえてきた微かな物音によって唐突に終わりを告げた。
(ヤバい、隣の田村さんが起きる)
悠作は舌打ちを飲み込んだ。このアパートの壁は薄い。ただでさえ先ほどの群衆騒ぎで目をつけられているかもしれないのに、これ以上玄関前で騒がれて大家にでも通報されれば、最悪の場合は退去を命じられてしまう。
悠作はため息をつき、ドアを押さえていた力をスッと抜いた。
「わわっ!?」
全体重をかけて押し込んでいたすずは、突然抵抗がなくなったことでバランスを崩し、玄関のたたきに勢いよく前のめりに転がり込んだ。
悠作はすぐさまドアを閉め、チェーンをかけて鍵を回す。
「……とりあえず、静かにしてください。近所迷惑なんで」
「は、はいっ! 申し訳ありません!」
すずはコンクリートのたたきに正座したまま、ビシッと背筋を伸ばして頭を下げた。
悠作は靴を脱いで部屋に上がりながら、疲れた声で言う。
「適当にそこに座っててください。麦茶くらいしか出せませんけど」
悠作が冷蔵庫に向かう背中を見つめながら、すずは恐る恐るロングコートを脱ぎ、帽子とサングラスを外して六畳一間の部屋を見渡した。
そして、息を呑んだ。
(……なんという、洗練された空間……!)
すずの目が見開かれる。
部屋にあるのは、万年床と、古いちゃぶ台、ブラウン管のテレビ、そして幾つかのゲーム機だけだった。カーペットはすり切れ、壁紙は黄ばんでいる。
だが、すずの限界オタクフィルターを通したその光景は、全く別の意味を持っていた。
(あの絶望的なS級ボスを瞬殺するほどの実力。その気になれば、億単位の金を稼いで都内のタワーマンションの最上階に住むことなど造作もないはず。……なのに、彼はあえてこの狭く質素な部屋に身を置いている)
すずは胸の前で両手を組み、うっとりと熱を帯びたため息を漏らした。
(己の欲望を完全に断ち切り、ただひたすらに武の極致を目指すための『無』の空間。なんてストイックなの……! 飾らないその生き様、最高にクールです……ッ!)
実際には、ただ単に金がなくて引っ越せないだけのフリーターの部屋なのだが、すずの目には『悟りを開いた修行僧の庵』にしか見えていなかった。
「はい、麦茶」
悠作がプラスチックのコップをちゃぶ台に置いた。
すずは「ありがとうございますっ!」と恭しく両手で受け取り、ちゃぶ台の前に正座する。
「で? さっき天音ルミって言ってましたけど」
「はい! 登録者三〇〇万人のVtuberで、一応、A級探索者として活動させてもらっています。高橋すずと申します」
「あー……そうなんですね。悪いんですけど、俺はただのポーターなんで。弟子とかそういうのは間に合ってます」
悠作はひどく事務的な口調で話を打ち切った。
これ以上この面倒な女に関わる気は毛頭ない。早く帰ってもらうために、あえて会話のキャッチボールを放棄し、自分の日常のルーティン作業を始めることにした。
「じゃ、俺ちょっと片付けあるんで」
悠作はすずを放置し、部屋の隅の何もない空間に向かって右手をスッと持ち上げた。
そして、空中で指先を軽く滑らせる。
次の瞬間、すずの目の前で、あり得ない現象が起きた。
空間が、音もなく円形に歪んだのだ。
直後、悠作がその空間の歪みに手を突っ込み、無造作に引きずり出してきたのは――軽自動車ほどの大きさがある、漆黒の岩の塊だった。
「ひっ……!?」
すずの喉から、ヒュッと息を呑む音が漏れた。
彼女にはその岩の異常性が本能でわかった。とてつもなく密度が高く、周囲の環境魔力すら吸い込むような未知の鉱石。重さはおそらく十トンを下らない。
もしそれが六畳一間の床に落ちれば、木造アパートなど一瞬で一階ごと圧壊してしまう。
「あー、昔ダンジョンの奥で拾ったこの漬物石、やっぱ邪魔だな。こっちの隅に入れとくか」
しかし、悠作が指先でその巨大な岩塊を軽く弾くと、十トンの岩はまるで無重力空間にあるかのようにフワリと空中に浮き上がり、悠作が左手で開いたもう一つの空間の歪みの中へと、音もなく吸い込まれて消えていった。
「…………え?」
すずは持っていた麦茶のコップを取り落としそうになった。
彼女のA級魔法剣士としての常識が、けたたましい警報を鳴らしている。
(魔法じゃない……魔力変動の気配が一切ない! じゃあ、どうやってあんな規格外の質量のものを空中に……!? 意味わかんない、理屈が全くわからないっ! なのに、なんなのこの圧倒的な万能感は……っ!)
すずの背筋を、強烈な悪寒と、それを遥かに上回る恍惚感が駆け抜けた。
「よっこらせ、と。……あ、昨日玄関に放り投げたバックパックも中身出さねえと」
悠作は独り言を呟きながら、今度は泥にまみれた重さ三トンを超える巨大なポーター用のバックパックや、そこらで拾ったよくわからない巨木の幹などを次々と空間から取り出し、空中に浮かべては別の穴へと仕分けしていく。
彼にとっては、ただの『カバンの中身の整理整頓』でしかない。週末に溜まったレシートを捨てるのと同じ感覚の家事だ。
だが、その一つ一つの動作が、すずの目には「神々の戯れ」にしか見えなかった。
(重力も、空間も、完全に支配している……! こんな絶望的な質量の操作を、『ただの片付け』みたいに面倒くさそうに……! あああっ、最高……ッ! 私の常識が粉々に壊されていくこの感覚、たまりません……ッ!)
すずは両手で顔を覆い、ガクガクと小刻みに震え始めた。
恐怖ではない。完全に限界オタクとしての致死量の『供給』を浴びて、脳の処理限界を超えているのだ。
数分後。
適当にインベントリの整理を終えた悠作は、小さくあくびをしてから足元に視線を落とした。
『ワフッ』
そこには、悠作の作業が終わるのを大人しく待っていた真っ黒な豆柴が、尻尾をパタパタと振りながら見上げていた。
その額には鋭い一本の角が生えている。
すずは、その子犬の存在に気づいた瞬間、今度こそ本気で悲鳴を上げそうになった。
(ま、魔狼フェンリルの幼体……!? A級指定の災害級魔物じゃない! なんでこんなアパートの部屋の中に……っ!?)
すずは反射的に腰を浮かせ、見えない剣の柄を握るように手を伸ばしかけた。
いくら幼体とはいえ、A級魔物だ。油断すれば一瞬で喉笛を食い破られる。
しかし、悠作は全く警戒する様子もなく、子犬の前にしゃがみ込んだ。
「お前、外のゴミ捨て場にいたから砂埃で毛がパサパサだな。ちょっと拭くぞ」
悠作は洗面所から濡らしてきた使い古しのタオルを広げると、フェンリルの背中をガシガシと無造作に拭き始めた。
本来ならば、魔物のプライドにかけて青い炎を吹き出し、触れようとした者の腕を消し炭にするはずの魔狼。
だが、悠作にタオルでわしゃわしゃと撫で回されているフェンリルは、されるがままに床に転がり、ヘソを天に向けて『クゥ〜ン』とだらしない声を漏らしていた。気持ちよさそうに目を細め、短い後ろ足で虚空を掻いている。
「よし、綺麗になった。立て」
悠作が短く命じると、フェンリルはスッと起き上がり、姿勢を正した。
「お座り」
その声に合わせ、フェンリルは短い後ろ足を綺麗に折りたたみ、前足をピシッと揃えて床に置いた。
背筋をピンと伸ばし、額の角すら愛嬌の一部のように見せながら、クリクリとした真ん丸な瞳で悠作を見上げる。そして、最後に『ワンッ』と可愛らしく鳴いてみせた。
後ろでは、黒い尻尾が床をリズミカルに叩いている。完璧に調教された、ただの愛らしい子犬の姿だった。
「……っ」
すずは、己の目を疑った。
都市を一つ滅ぼすポテンシャルを秘めたA級魔物が、完全に魔力を封殺された上で、ただの愛玩犬として『お座り』をしている。
テイム魔法や洗脳魔法の類ではない。フェンリルの目には、悠作に対する純度一〇〇パーセントの『絶対服従』と『愛情』しか宿っていない。
(神獣すらも……この人の前では、お腹を見せてお座りするただのポメラニアンだっていうの……?)
すずの背中を、ゾクゾクとするような圧倒的な敗北感と心酔が駆け抜けた。
この鈴木悠作という男は、自分の想像を遥かに超える次元にいる。彼が生きている世界は、自分たちのような凡人が見ている世界とは根本的にルールが違うのだ。
「お師匠様……ッ!!」
ドンッ、と。
すずは再びちゃぶ台の前で土下座をかまし、額を畳に擦り付けた。
「どうか、どうか私をここに置いてください! 掃除でも洗濯でもなんでもします! 家賃も全額私が払いますから!」
「いや、狭いんで帰ってください」
悠作の返事は、〇・一秒の即答だった。
「そんなこと言わずに! 私、お師匠様のその神業のような片付けと、魔物の調教を間近で拝見して、心を打たれました! 私もその『無』の境地に至りたいんです!」
「神業って……ただカバンの中身整理して犬拭いただけなんですけど。帰ってください」
「お願いしますぅぅぅ!」
「帰って」
悠作は懇願する女を完全に無視し、ため息をつきながらテレビのリモコンを手にとった。
「あー……今日の昼飯どうすっかな」
『クゥン』
悠作の足元で、タオルで拭かれたばかりの黒い子犬が、自分も腹が減ったとばかりに鼻を鳴らす。
「お前もかよ。……金ねえから、また塩コショウのもやしだな」
「私がお肉買いますからぁぁぁ!」
「いらないんで帰ってください」




