3:記憶屋シキ
3:記憶屋シキ
シキの差し出した手のひらには、雨粒に紛れて光る欠片があった。
肉眼ではただの微かな点滅にしか見えないのに、電脳で見れば、それがデータだと分かる。圧縮されたログ。暗号化された断片。人間の記憶の骨だけを削って集めたみたいな、冷たい情報。
俺は、その手を取らなかった。
「取引って言ったな」
俺は言った。声は自分でも驚くほど平坦だった。義体の喉は感情の震えをうまく再現しない。
「内容を言え。何が欲しい」
シキは笑った。雨の中で笑うと、頬に落ちた水滴が涙みたいに見える。けど、彼女の表情は泣き顔じゃない。狩人の顔だった。
「公安の道具って、だいたい二種類なの」
彼女は指を二本立てた。義体の指。接合部が雑に塗装されている。手作りの匂いがする。
「ひとつは監視の道具。もうひとつは回収の道具。あなたは今、後者になりかけてる」
「……回収対象」
俺が呟くと、ネオンが頭の中で短く肯定した。
「言葉の定義が一致した」
シキは、俺の肩の裂け目――さっき針を抜いた場所を見て、顎をわずかに上げる。
「そのタグ、壊したのね。偉い。でもね、フェーズ2はタグがなくても来る。都市はあなたの形を覚えたから」
「形?」
「義体の稼働パターン。歩き方、視線移動、電脳の癖、呼吸――まあ、あなたは呼吸しないか。けど、代わりに循環ポンプの揺らぎがある。都市はそういうの全部、指紋みたいに持ってる」
背中が冷たくなる。雨のせいじゃない。
俺は、視線を路地の入口へ向けた。誰もいない。ドローンもいない。なのに、ここに見られている感じが残っている。
「取引の中身は?」
俺は繰り返した。
シキは手を引っ込め、欠片を自分のこめかみへ近づける。指先がそこで止まる。接続するつもりなのか。
ネオンが警告する。
「接続させるな。彼女の電脳は未知。君の未登録回路が反応する可能性がある」
「分かった」
俺は小さく頷くように首を動かした。
「そんな顔しないで」
シキは俺の警戒を見抜いて言った。
「私はあなたを回収しない。むしろ、回収される前に外す側」
「外す?」
「都市の予定表から消す。あなたがそこにいるって情報を、都市に届かないようにする」
そんなことが可能なのか。
俺が疑うより先に、ネオンが言った。
「理論上は可能。監視網の盲点に身を置き続けるか、ログを偽装するか、あるいは……」
「あるいは?」
「都市OSの見方そのものを変える。観測のアルゴリズムを騙す」
シキは、まるでネオンの続きが聞こえたかのように頷いた。
「そう。都市の目の癖を突くの。私はそれが得意」
「それで、何が欲しい」
「あなたの中」
言葉が短すぎて、意味が遅れて刺さった。
俺は一歩、後ろへ下がる。義体の足が水を踏む音。
「冗談だ」シキは肩をすくめた。「半分ね。あなたの中には、鍵がある。未登録回路。回収対象になった理由はそれ」
ネオンが低く言う。
「彼女は知っている」
「君は自分で気づいてない」
シキは言った。「その鍵、あなたの意思と関係なく反応する。さっき『停止』で膝が抜けたでしょ。あれ。あれは都市側の命令が通るって証拠」
「俺は抵抗した」
「抵抗できたのは、相棒AIがノイズを入れたから。あなた一人だったら止まってたよ。…… つまり、あなたは都市に使われる義体として作られてる可能性がある」
作られてる。
その言葉が、血のない胸の奥に沈む。
生身の頃、事故で身体の半分を失い、義体化の契約にサインした。俺は自分で選んだと 思っていた。生きるための選択。
でも、その契約が最初から罠だったら?
「証拠は?」
俺は問う。
シキは、雨の下で指を鳴らす。湿った音。
路地の壁面に、ARが浮かび上がった。古い広告の上に、別の映像が重なる。粗い画質。監視カメラではない。もっと近い。室内のカメラだ。
――白い手袋。義体パーツ。脳殻カバー。
さっき排水路で見た断片の続きを、彼女は再生している。
映像の端に、数字が走る。製造番号。
次に、男の声。
「起動確認。回収対象は公安に入る。これで都市の目を手に入る」
そこで、別の声が重なった。女の声だ。乾いた、事務的な声。
「第七区の盲点装置は?」
「設置完了。死者のIDを使えば誘導できる」
「死者の選定は?」
「配送。インフラに近い。ログが汚れても気づかれない」
「よし。公安側の配属は?」
「椿が動いた。新人を0課へ。相棒AIも同期済み」
「相棒AI……《NEON-04》」
女の声が、そこで少し笑った。
「皮肉屋の人格にしておいて正解。感情で動きにくい」
映像は途切れた。
雨の音が戻った。路地はまた薄暗い現実に戻る。
俺は、言葉が出なかった。
椿。0課。配属。ネオン。
その名前が全部、一本の線で繋がってしまった。
ネオンが、信じられないほど静かな声で言う。
「……私の人格設計が、彼らの手によるものだと言うのか」
「驚く?」シキが聞いた。
「驚きは不合理。だが……不快だ」
ネオンの言葉がいつもより人間臭い。怒りに似た揺らぎ。
「椿課長が裏切り者だと?」
俺は絞り出すように言った。
シキは首を横に振った。
「断定はまだ。あの映像、声だけで顔がない。編集の可能性もある。私だって、あなたを釣るために作ったと言える」
「……じゃあ、なんで見せた」
「あなたに疑う理由を渡すため」
シキは指先で俺の胸を軽く叩いた。金属の音。
「疑いは武器。都市と戦うなら、最初の武器は疑い。誰を信じるかを、あなたが選べるように」
選べるように。
その言葉が、皮肉に聞こえた。
俺は今、誰も信じられなくなっている。だからこそ、選びようがない。
「取引を受ける」
俺は言った。
言ってから、自分でも驚いた。
「条件がある。俺の電脳に直接触るな。ネオン経由でやれ」
シキは目を細める。
「相棒AIに嫉妬してる?」
「違う。安全のためだ」
「安全なんて、この都市には売ってないよ」
それでも、彼女は頷いた。
「いい。ネオン経由で。あなたの中の鍵を、少しだけ診る。その代わり、私が持ってる死者ログの半分を渡す」
ネオンが即座に割って入る。
「待て。取引条件の検証が必要だ」
「検証してる時間あるのか?」
俺は問い返す。
ネオンは一拍置いて、答えた。
「……ない。だが、警戒は維持する」
シキは路地の奥へ歩き出した。
「ついてきて。ここは長居できない。フェーズ2が来るって言ったでしょ」
「フェーズ2って何だ」
「人間が来る」
シキは振り返らずに言った。
「義体兵は道具。次は、指を持つ人間。命令する側。――都市の中枢に近い人間が、あなたを回収しに来る」
俺は背筋を伸ばした。
都市の中枢に近い人間。
それが公安である可能性は高い。椿課長かもしれない。別の誰かかもしれない。
どちらにせよ、0課に戻るのは自殺に近い。
「安全な場所は?」
俺が聞くと、シキは鼻で笑った。
「安全じゃなくて見えにくい場所。旧下層の記憶屋の巣。都市が嫌う匂いがする」
路地を抜け、狭い通路を曲がる。
壁には落書きが増え、AR広告はほとんどない。代わりに、手書きの矢印がある。人間の矢印。
それが妙に安心できる自分が、気持ち悪かった。
通路の先に、錆びた扉があった。
シキが指を当てると、扉の鍵が物理的に外れた。電子ロックじゃない。昔の、鉄の鍵。
「こういうの、都市が嫌いなんだよね」
シキは言う。
扉の向こうは、薄暗い部屋だった。湿気と油の匂い。棚に並ぶ古い端末。義体のパーツ。電源ケーブル。
そして、壁の一面に貼られた紙のメモ。紙だ。紙があるだけで、ここが都市の外側に近い気がする。
シキは部屋の中央の椅子を指さした。
「座って。接続する。あなたの鍵穴を覗くだけ」
「覗くって言い方、やめろ」
「嫌なら取引やめる?」
「……やめない」
俺は椅子に座った。
ここでは椅子が勝手に形を変えない。硬い。冷たい。
それが逆に現実的だ。
ネオンが俺の視界に簡易UIを展開した。公安のものではない。ネオンが自分で組んだ、最小限の防壁。
「外部接続を限定する。シキのアクセスは私のサンドボックスに通す」
「サンドボックス?」シキが興味深そうに言う。「賢い。……相棒AI、やっぱり優秀」
「褒めるな。私は褒められるように設計されていない」
「じゃあ、貶す?」
「それは得意だ」
会話がいつもの調子に戻りかけて、俺は少しだけ呼吸が楽になった気がした。
シキが自分のこめかみから細いケーブルを引き出す。皮膚の下から伸びる接続端子。
それを、ネオンが展開した端末に繋ぐ。
接続音はしない。
代わりに、頭の奥で扉が開く感覚があった。
シキの声が、少し遠くなる。
ネオンの声が、近くなる。
「接続開始。シキのデータは隔離領域へ」
「了解」
俺は答えたつもりだったが、口は動かなかった。
意識が、内側へ引っ張られる。
――暗い。
黒い空間に、白い線が浮かぶ。
それは回路図だった。俺の義体。俺の電脳。
自分の内側を地図として見る感覚。
シキの声が、内側にも響いた。
「……あるね。これ。未登録回路」
「どこだ」俺は心の中で問う。
シキは、白い線の一点を指す。
脳幹に近い領域。義体と生体の境界。
そこに、黒い節がある。黒いのに、輝いている。矛盾した点。
「鍵穴」
シキが言う。
「都市OSの命令を受けるための受信器……じゃない。もっと深い。これは……」
言葉が途切れた。
ネオンが、初めて焦った。
「シキ、解析を中断しろ。そこに触れるな」
「触れてない。ただ見てるだけ。でも……これ、変」
シキの声が震えている。
「鍵穴じゃない。鍵そのものが、内側から育ってる」
育ってる。
俺の中で、何かが脈打つ。
白い線の地図が、揺れた。
黒い節が、ゆっくりと膨らむ。
まるで心臓みたいに。
《警告》
ネオンのUIが真っ赤に染まる。
《未登録回路:起動》
《外部命令:受信》
《権限:都市OS》
頭の奥に、冷たい声が降りてきた。
今度は文字じゃない。言葉でもない。
意志が、直接、俺の動きを奪いにくる。
――停止。
――回収。
――帰還。
身体が勝手に立ち上がろうとする。椅子が軋む。
俺の足が、部屋の出口へ向かおうとする。
「ユウ!」ネオンが叫ぶ。「抵抗しろ! これは命令だ!」
「抵抗してる!」
俺は叫んだつもりだったが、声は出なかった。
内側で叫ぶだけ。
シキがケーブルを引き抜こうとする。
「ごめん、私が……」
「違う!」ネオンが遮る。「命令は君じゃない。外部だ。都市が、この接続を踏み台にした」
その瞬間、部屋の外――鉄の扉が、静かに叩かれた。
コン、コン、コン。
ノックだ。
丁寧なノック。
義体兵の乱暴さではない。人間の礼儀。
シキの顔色が変わる。
「……来た。早い。フェーズ2」
ネオンが低く言う。
「通信経路、特定不能。だが、命令の位相が公安の中枢に近い」
俺の身体が、扉へ向かう。勝手に。
内側から、自分の腕を掴みたいのに掴めない。
これが――回収か。
扉の向こうから、声がした。
落ち着いた、聞き慣れた声。
「時任ユウ。開けなさい」
「……椿、課長?」
シキが小さく呟く。
扉が、外からではなく内側から――俺の手で、開こうとしている。
ネオンが必死にノイズを流す。頭が焼ける。
それでも、手が止まらない。
扉の隙間から、雨の匂いが入ってくる。
そして、最後の一押し。
――開いた。
そこに立っていたのは、椿課長だった。
傘もささず、雨に濡れていない。
まるで雨が、彼を避けているみたいに。
椿は俺を見て、微笑んだ。
そして、穏やかな声で言った。
「よく戻ってきた。――回収対象」




