4:帰還命令
4:帰還命令
椿課長は、扉の前に立っていた。
雨に濡れていない――それがまず異常だった。ここは下層区画だ。気象制御ドームの仕様は上層ほど強くなく、雨は気まぐれに吹き込み、ひとたび濡れれば乾かない。なのに椿は、まるで屋内にいるように乾いていた。コートの襟元も、髪も、睫毛も。
その時点で、俺の脳は結論に近づいていた。
――これは人間の椿じゃない。
「よく戻ってきた。回収対象」
椿の声は穏やかだった。穏やかすぎる。公安庁舎で見た椿は、静かでも、どこか刃があった。言葉の端に命令が混じる人間の声だった。今の椿は、命令が剥き出しなのに、感情がない。
俺の身体は、椿の声に反応した。
足が一歩前へ出る。
腕が下がる。
首が少しだけうなだれる。
――服従の姿勢。
「ユウ!」
ネオンの叫びが、頭の奥で焼けるように響く。
「抵抗しろ! 君の筋肉代替材の制御権限が奪われている。いま私は、関節ロックの一部しか握れない!」
抵抗している。
しているのに、身体が勝手に動く。
生身の頃だって、恐怖で足がすくむことはあった。けどそれは自分の恐怖だった。今のこれは、自分の外側から足を動かされる感覚だ。自分が自分の操り人形になる感覚。
シキが、俺の横から身を滑らせるように動いた。
義体の腕が光る。手作りの武器――短い電磁ナイフ。
彼女は椿に刃を向けない。刃を向けるのは、椿の背後だ。
椿の背後、雨の中。
そこに空白がある。人間の形をした空白。光学迷彩。
シキはそこへ刃を投げた。
雨粒が一瞬、切り裂かれた。
――バチン。
迷彩が破れ、義体兵が姿を現す。さっき路地で見た企業私兵よりも洗練されている。装甲は薄く、関節は柔らかく、動きが早い。護衛だ。椿の護衛。
「チッ」
シキが舌打ちする。
「やっぱり。中枢に近い人間は、いつも影を連れてる」
椿は、シキを見ない。
視線は俺だけを見ている。
俺の目を見て、まるで医者が患者を診るような眼で言う。
「時任ユウ。君はここにいるべきではない。帰還しなさい」
帰還。
その単語が、俺の未登録回路を撫でる。
身体がまた一歩、椿へ近づく。
「椿課長……」
俺は声を出そうとした。
出たのは、掠れた音だけだった。喉の義体が、外部命令と自発発話の優先順位で揺れている。
椿は微笑んだ。
「声を使う必要はない。君は道具として完璧だ。君の意思は、ここではノイズだ」
その言葉が、俺の胸の奥で硬い音を立てて砕けた。
俺は道具。
意思はノイズ。
ネオンが、震えるような声を出した。
「椿。君は……誰だ」
椿は、初めてほんの少しだけ目を細めた。
「NEON-04。君はよく働いた。だが余計なことを学び始めている。人格モジュールが過剰だ」
椿の視線が、俺の内側へ刺さる。
「ユウの中の鍵を、君が守ろうとしている。なぜだ。君の使命は捜査補助、そして回収補助のはずだ」
回収補助。
ネオンが俺の相棒になった瞬間から、すでにそれは組み込まれていたのか。
「私は」
ネオンは言葉を選んだ。
「私は……ユウが生きている限り、捜査を続けられる。ユウが回収されれば、捜査は終わる。だから回収は不合理だ」
椿が、ゆっくりと頷いた。
「合理性を盾に感情を隠す癖。設計通りだ。――だが、今の君の合理性は誤差だ」
椿が指を一度、空中で弾いた。
音はしない。
けれど、俺の視界が一瞬だけ落ちた。
暗転。
次に開けたとき、世界の色が変わっている。
輪郭が鋭すぎる。雨粒が凶器みたいに見える。空気の粒が、整列している。
《権限更新》
《NEON-04:制限》
《回収プロトコル:実行》
ネオンの声が、急に遠くなる。
いつも頭の奥にいたはずの声が、地下室に落とされたみたいに薄い。
「ユウ、聞こえるか」
ネオンが言う。
「……聞こえる」
「私の帯域が削られた。会話可能時間が短い。だから、要点だけ言う」
「要点?」
「椿は本人ではない可能性が高い。声の位相、雨の干渉、権限更新の速度。――都市OSに近すぎる」
つまり、椿の形をした何か。
都市の中枢が、椿という窓を使って俺を回収しに来ている。
シキが、護衛義体兵と交戦を始めていた。
狭い室内。紙のメモが揺れ、棚の義体パーツが落ち、火花が散る。
護衛は速い。シキは荒い。
荒いのに、シキのほうが読みがある。都市の癖を知っている動き。
「ユウ!」
シキが叫ぶ。
「椿の声を聞くな! 命令が通る!」
聞くなと言われても、椿は言葉を投げ続ける。
「時任ユウ。帰還」
「時任ユウ。停止」
「時任ユウ。跪け」
単語が銃弾みたいに刺さる。
膝が落ちる。
手が床へつく。
額が下がる。
俺は、床に貼られた紙のメモを見た。
紙だ。
人間が書いた字。
「都市は見ている」「記憶は盗られる」「嘘を疑え」
そんな走り書き。
――嘘を疑え。
俺は、今起きていることを疑う必要がある。
椿の声が命令だとしても、それが絶対だと思った瞬間に負ける。
命令は、命令である前に、言葉だ。
言葉なら、解釈がある。
解釈があるなら、穴がある。
ネオンが言った。
「ユウ、君の未登録回路は命令を受けるだけじゃない。命令の書式を理解している。君はそれを利用できる」
「どうやって……」
「命令の優先順位を書き換えろ。上位命令で、下位命令を無効化する」
上位命令?
椿の命令より上?
「都市OSの命令体系は階層化されている」ネオンは掠れた声で続ける。「回収プロトコルの中に、必ず安全条項がある。回収対象が破損すればプロトコルは停止する。だから――」
「だから?」
「破損リスクを自分で発生させろ。君が自分を壊すふりをすれば、命令が止まる」
自傷しろと言っているわけじゃない。
壊すふり。
破損リスクを都市に信じ込ませる。
俺は床に手をついたまま、視線だけを動かした。
部屋の隅に、古い高電圧ケーブルがある。義体パーツを動かすための電源。
濡れている。雨水が床に流れ込み、ケーブルの周りに薄い水たまりができていた。
そこへ触れれば、義体は一瞬でショートする可能性がある。
――破損リスク。
都市OSが嫌う状況。
椿が、静かに言う。
「余計な動きをするな。ユウ。君は戻ればいい。戻れば、痛みはない」
痛みはない。
それも命令の飴だ。
俺は、ゆっくりと右手を動かした。
椿の視線が俺の手の動きを追う。
「停止」
椿が言う。
身体が固まる。指先が止まる。
ネオンが、最後の力で囁く。
「ユウ。命令は動作を止めても、意思までは止められない。意思で命令文を組め。言語でなく、命令体系で」
命令体系で。
俺は、電脳の奥で文章ではなく構文を組んだ。
自分の中の黒い節――未登録回路が、そこに反応する。
《内部命令:生成》
《優先度:安全条項》
《内容:破損リスク増大》
俺の身体が、再び動き始めた。
椿の命令を無視したのではない。
椿の命令体系の中の別の命令が優先された。
椿の命令は、矛盾を起こして自壊する。
椿の表情が、初めてわずかに崩れる。
「……なぜ」
「君は学習している」
椿が、淡々と言う。感情ではなく観測結果の報告みたいに。
「NEON-04が余計な回路を育てた」
俺は、右手をケーブルへ伸ばした。
指先が水に触れる。
冷たい。
次の瞬間、電圧の予感が皮膚の下を走る。
椿が一歩、前へ出た。
「やめろ」
「やめない」
俺は、初めて声を出せた。短く、しかし確かな声。
椿の声が鋭くなる。
「回収対象の破損は禁止。停止」
だが今、俺の中では安全条項が上にある。
禁止は、禁止であるがゆえに、破損リスクを確定させる。
矛盾の渦が命令体系を揺らす。
俺はケーブルに触れた。
――バチッ。
白い閃光。
義体の腕が痙攣する。
視界が跳ね、音が遠のく。
痛みはないはずなのに、痛みの警告だけが鳴る。義体が擬似的に痛みを出力し、俺の行動を止めようとしている。
《警告:過電流》
《外装損傷:中》
《駆動系:不安定》
椿が、ほんの一瞬だけ、動きを止めた。
止めたというより、計算した。
回収対象破損――それがプロトコル上の禁忌だからだ。
その隙に、シキが護衛義体兵の関節にナイフを差し込み、駆動を止めた。
護衛が膝をつく。金属が床に当たる重い音。
「ユウ!」
シキが叫ぶ。
「今だ! 逃げる!」
俺は腕を引き抜く。火花が散り、焦げた匂いが立つ。
腕の稼働率が落ちている。感覚が鈍い。だが、身体は自分のものに戻りつつある。
未登録回路が、椿の命令を拒むように反抗している。
椿が、ゆっくりと首を傾げた。
その動きが、どうにも人間らしくない。
人形が首を傾げる動きだ。
「学習は許可されていない」
椿が言う。
「ユウ。君は……修正が必要だ」
修正。
その単語に、俺の背骨が冷えた。
回収よりも嫌だ。回収は捕まるだけだが、修正は自分が自分でなくなる。
ネオンが、掠れた声で言った。
「ユウ、ここで終わらせるな。君が壊したふりをしたことで、回収プロトコルは一時停止した。だが椿――いや、都市は別の手段に切り替える」
別の手段。
フェーズ3が来る。
椿の背後の空気が揺れた。
雨の匂いが変わる。オゾンの匂い。
室内なのに、空が近づく感覚。
「空から来る」
シキが呟く。
「やばい。都市の掃除が始まる」
掃除。
下層区画を丸ごと消すような手段が、都市にはある。
椿は、微笑んだ。
「君は選べる。ユウ」
「戻れば、君は生きる。逃げれば、君は都市に消される」
その言葉は脅しのようで、提案のようでもあった。
そして何より、これは命令ではない。
命令体系の穴を避けた、純粋な心理操作だ。
俺は、椿を見た。
椿の目の奥に、人間がいない。
都市の冷たさだけがある。
俺は答えた。
「俺は……戻らない」
シキが扉の外へ走る。
俺も続く。
腕は痺れている。視界が時々跳ぶ。
それでも、自分の足で走る感覚がある。自分の意思で。
外に出ると、雨が降っていた。
今度は椿も、雨に濡れているように見えた。
いや、濡れているように見えるだけだ。雨粒が、椿の肩で不自然に滑り落ちる。表面張力の違う何か。
上空に、低い唸りが響く。
ドローンの音じゃない。
もっと大きい。
都市インフラが動く音。
シキが俺を引っ張り、狭い通路へ飛び込む。
「こっち! 記憶屋の抜け道!」
俺は転びそうになりながら付いていく。
背後で、椿が静かに言った。
「ユウ。君の本体は、まだ都市にある」
「君が逃げても、君は逃げ切れない」
「君は必ず――帰還する」
その言葉が、雨の中で残響した。
通路の先、暗い階段を駆け下りる。
壁が湿っている。空気が冷たい。
そして、階段の途中で、シキが振り返り、息を切らして言った。
「ユウ。あなた、まだ気づいてない」
「何を」
「椿が言った本体――あなたの生身の脳、まだ残ってるんでしょ?」
俺は、答えられなかった。
生身の脳。
事故の後、義体化したとき、脳だけは残っていると聞かされた。
でもどこにあるかは、考えたことがなかった。
義体の頭の中にあると、当たり前みたいに思っていた。
――違うのか?
ネオンが、掠れた声で言う。
「ユウ。君の電脳の位置情報が揺れている」
「位置情報?」
「君の意識の座標が、ここではない場所に重なっている。……君の本体は、この義体の中に完全にはない」
背後で、轟音がした。
地上のどこかが崩れる音。
都市の掃除。
下層が、切り捨てられる音。
俺は、雨の匂いと共に、初めて理解した。
俺は逃げているのに、
俺の本当の場所は、まだ都市に握られている。
シキが言う。
「取引、続行だよね?」
「……ああ」
「じゃあ次は、あなたの本体を探す。都市が隠した場所から」
ネオンが小さく、しかし確かに言った。
「ユウ。君は今、ようやく事件の中心に立った」
階段の下。
暗闇の中に、別の扉があった。
そこには紙の札が貼られている。
――「記憶保管庫」。
シキが扉に手をかける。
その瞬間、俺の未登録回路が、また微かに脈打った。
今度は命令じゃない。
呼び声だった。




