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電脳公安0課:相棒AIは嘘を嗤う  作者: Futahiro Tada
第4章:統合(インテグレーション)

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1:雨の外周

1:雨の外周


 梯子の上の空気は、ひどく薄かった。

 外周――都市の外に一番近い場所は、外のはずなのに外ではない。コンクリと鉄骨で囲われ、強風が通り抜け、遠くのネオンが霞み、雨だけが淡々と落ちてくる。上層の無臭の雨。仕様の雨。けれど今は、雨であるだけで合図になった。

 俺は梯子を登り切り、縁に手を掛けて体を引き上げた。義体の関節が短く鳴る。外周の床は滑りやすい。濡れた金属は靴底の吸着をすり抜けようとする。足裏の補正が働き、転倒の未来が自動的に消される。

 その自動が、少し怖い。

「ユウ、立てる?」

「立てる」

 シキがカプセルを引き上げるのを手伝いながら、俺の顔を覗き込んだ。義体の目は涙を出さない。だから俺は泣いていないように見える。けれど胸の奥では、さっきから何かがずっと痛い。義体に痛覚はないのに、痛い。

 原本の痛みだ。

 カプセルの中で眠っている俺が、ここまで来た道の余韻を、端子の残滓として俺に渡してくる。拒否の構文を流したときに焼けた感覚。廃棄シュートの吸い込み。椿の裂け目の声――「生きて」。あの声が、内側でまだ振動している。

 鴉城が最後に梯子を上がってきた。義眼の光は弱い。だが周囲を読む速度が落ちていない。彼は外周の風を一度だけ吸い込み、地面の水たまりを踏まずに歩き出した。

「止まるな」

「ここでも?」

「ここだからだ。外周は掃除の通り道だ。危険物を外へ流すだけじゃない。危険物を外で消す」

 危険物。

 俺のことだ。俺たちのことだ。カプセルのことだ。

 ネオンが最小出力のまま囁いた。

「ユウ。都市の表層ログは君を廃棄対象として確定した。次からは誘導ではなく、処理が来る」

「処理」

「破壊。焼却。溶融。……合法の笑顔ではなく、無表情の機械で」

 外周の遠くで、低い唸りがした。ドローンの音とは違う。もっと重い。壁の向こうを移動する大型機械の音。

 鴉城が目を細めた。

「……溶融班だ」

「何それ」

「清掃局の下請け。義体や危険物を溶かして消す」

「最悪」

 シキが吐き捨てる。

「最悪は更新される」

 鴉城が同じことを言い、歩幅をさらに整える。呼吸に混ぜる歩幅。目立たない速度。だが遅くはない。生き残る速度だ。

 外周の柵沿いに、細い通路が伸びている。下は見えない。都市の腹の闇だ。

 俺はカプセルを引きずる手に力を込める。金属の重さ。原本の重さ。選択の重さ。

 ――この原本を、どうする?

 取り返した。持ち出した。拒否で窓を閉じた。逃げた。

 でも本当の問題はこれからだ。

 原本を義体へ統合するか。

 統合すれば、俺は欠けた名前を取り戻すかもしれない。

 取り戻せば、鍵はより強くなる。拒否も強くなる。

 同時に揺れも大きくなる。都市の分類に刺さる揺れ。椿の窓に触れる揺れ。暴走の危険。

 俺は足を止めかけて、やめた。止まるな。止まれば回収ではなく廃棄が来る。

 思考は歩きながらやる。

「ユウ」

 シキが小声で言った。

「さっきから、目が変」

「変って」

「遠い。見てるのに見てないみたい」

「……原本が近いからだ」

「近い?」

「触れてると、記憶が滲む」

 滲む。

 それは優しい言い方だ。実際は、視界が二重になる。手が二重になる。雨が二種類の匂いを持つ。

 上層の無臭の雨と、生身の肌に当たる雨。

 生身だった頃の雨は、冷たくて、痛くて、皮膚が縮む。

 その痛みが、いま俺の内側で薄く鳴っている。

 ネオンが囁く。

「統合の副作用。原本の記憶が義体側の自己像と衝突している」

「衝突するとどうなる」

「君は揺れる。揺れは都市の分類を乱す。だが揺れが大きすぎると、君が裂ける」

「裂けたら?」

「椿のように、窓になる可能性がある」

 窓。

 それだけは嫌だ。

 嫌なのに、椿の裂け目の声が胸に残っている。

 「生きて」。

 あの声がこちら側なら、椿は完全な敵じゃない。

 敵じゃないなら、救うべきかもしれない。

 救うなら、窓を閉じるだけでは足りない。窓そのものを――椿を、戻す必要がある。

 戻す。

 返す。

 鴉城が言った「返す」だ。

 外周の曲がり角で、鴉城が手を上げた。止まれではない。音を消せの合図。

 俺とシキは呼吸を浅くする。浅くするだけで止めない。止めたら異常になる。

 柵の向こう側に、白いライトが揺れた。

 点検ではない。清掃局のライト。無表情の光。

 そして、湿った金属が擦れる音。溶融班。

「距離、二十」

 鴉城が呟く。

「迂回する」

「どこへ」

「外周の保守室。都市が嫌う匂いが溜まる場所だ」

 鴉城は柵の根元にある小さなハッチを開けた。物理の鍵。黒鍵ではない。古い鍵。

 ハッチの中は暗い。油の匂い。紙の匂い。懐かしい匂い。

 都市の顔が嫌う匂い。

「入れ」

 鴉城が言う。

「カプセルが通るか」

「通す」

「狭い」

「狭いから薄い」

 薄い。

 薄い監視。薄い呼吸。薄い目。

 ゼロではない。だが、いま必要なのはゼロではなく遅れだ。都市の処理より少しだけ早く動く遅れ。

 俺とシキがカプセルを持ち上げ、ハッチへ押し込む。金属が擦れそうで擦れない。鴉城が吸音パッドを差し込み、角を潰すように誘導する。

 カプセルが通る。

 俺たちも通る。

 ハッチが閉まると、外の無臭が一段薄くなった。

 その代わり、油の匂いが増える。

 紙の匂いが増える。

 俺は少しだけ息ができた気がした。

「ここは?」

 シキが小声で聞く。

「保守室」

 鴉城が答える。

「都市の外周の廃液を処理する部屋だ。都市が嫌うものを集める場所。だから監視が薄い」

「嫌うもの?」

「匂い。湿気。腐食。矛盾」

 鴉城が短く言う。

「人間も、な」

 その言葉に、俺は笑いそうになった。

 笑うと揺れが出る。だから笑わない。

 でも、ネオンが小さく囁いた。

「いまのは皮肉だ」

「禁止だろ」

「指摘。事実」

「皮肉じゃん」

「……少しだけ」

 その少しだけが、合図になった。

 俺は自分に戻る。雨の匂いに戻る。シキの息に戻る。ネオンの揺れない声に戻る。

 鴉城が保守室の奥へ進む。

 壁に古い端末が埋め込まれている。画面は割れているが電源は生きている。黒鍵のカードをかざすと、画面に文字が浮かんだ。


 外周保守ログ:閲覧

 廃棄対象:鍵(未分類)

 追跡:継続

 処理:溶融班/ドローン遮断網


 遮断網。

 上へ逃げても、空は塞がれる。下へ逃げても、廃棄ルートに戻される。

 都市は流れを設計する。逃げる流れも含めて設計する。

 だから、流れを壊す必要がある。

「ここで一度、決める」

 鴉城が言った。

 彼の声は短いが、重い。

「次の一手だ」

「一手?」

 シキが聞く。

「原本をどうするか」

 鴉城が俺を見る。

「持ち歩くのは危険だ。だが隠す場所もない。統合するか、分割するか、囮にするか」

「囮」

 俺が反射で言う。

「囮にすれば、都市の処理がそちらへ向く。その間にレンを回収できる」

 鴉城は淡々と続ける。

「だが囮にした瞬間、原本は奪われる可能性が高い」

「奪われたら終わりだ」

「終わりだ」

 鴉城は頷く。

「だから囮は最後の手段だ。第一手段は――統合だ」

 統合。

 俺の喉が乾く。

 統合すれば強くなる。拒否が強くなる。

 同時に揺れが大きくなる。裂ける可能性がある。窓になる可能性がある。

「統合したら、俺はどうなる」

「目が増える」

 鴉城が答える。

「原本の目と、義体の目が重なる。重なれば、都市の分類に対して強い矛盾になる」

「矛盾は武器」

 シキが呟く。

「そう」鴉城が言う。

「ただし、矛盾は自分も切る」

「椿みたいに?」

 俺が言うと、鴉城の義眼が一瞬だけ揺れた。

「……可能性はある」

「だったら」

「だったら、鈴が必要だ」

 鴉城が言った。

「ネオンの帯域を戻す。最小出力では足りない。統合の揺れを制御するために、相棒AIが必要になる」

 ネオンが静かに言った。

「外部通信を戻せば、都市に拾われる」

「拾わせない」

 鴉城が即答する。

「拾わせない方法がある。黒鍵の物語をもう一度使う」

「物語?」

「黒鍵権限で個人AIの復旧を正規手続きとして通す。正規の形で通せば、都市は一瞬だけ躊躇する。躊躇の隙間に、鈴を戻す」

「そんなの、通るの?」

 シキが疑う。

「通るふりをさせる」

 鴉城は淡々と言う。

「都市は物語を信じる。物語を信じるふりをする。信じるふりをした瞬間が、隙間だ」

 隙間。

 俺が拒否で作った隙間。

 廃棄ルートで生まれた隙間。

 椿の裂け目で生まれた隙間。

 この都市は完璧じゃない。完璧じゃないから、隙間がある。隙間があるから、俺たちは生きている。

 俺はカプセルを見た。

 透明な壁越しに、原本が眠っている。

 俺の目。

 俺の痛み。

 俺のウ。

 俺は言った。

「統合する」

 シキが一瞬だけ目を見開き、すぐに頷いた。

「いい。迷ってる暇ない」

「迷う」

 俺は訂正した。

「迷いは捨てない。でも、決める」

「それでいい」

 シキが言った。

「迷いながら決めるのが、人間」

 鴉城が短く言う。

「決まったな。なら準備する。統合はここではやらない」

「どこで」

「外周の雨溜まり」

 鴉城が言う。

「雨が落ちる場所。匂いが残る場所。君の合図が効く場所だ」

「上層の無臭の雨でも?」

「無臭でも雨は雨だ。君が選べば合図になる。……それに、下層の匂いも少し混ざる」

 鴉城は端末を閉じ、保守室の奥の扉を開けた。

 その向こうに、細い階段があった。外周のさらに外側へ出る階段。

 階段を上る途中、ネオンが小さく言った。

「ユウ。統合は危険だ」

「分かってる」

「君が裂ければ、窓になる」

「裂けない」

「断言は不合理」

「不合理でいい」

 俺は言った。

「不合理だから拒否できる」

「……君の論理は雑だ」

「雑で生き残る」

「それは……嫌いじゃない」

 その最後の一言が、確かに合図になった。

 俺は自分に戻る。

 戻って、前へ進む。

 階段を上り切ると、外周のさらに外側――柵の外に出た。

 そこは風が強く、雨が斜めに降っていた。上層の無臭の雨。だが、金属に当たる音は確かに雨だった。

 鴉城が言った。

「ここでやる。統合の準備だ」

「椿は」

 俺が問いかけると、鴉城は一瞬黙った。

「椿は揺れている」

「揺れている限り、窓は閉じ切らない」

「閉じ切らないなら、戻せる可能性がある」

 戻す。椿を。

 レンを。

 在庫を。

 そして、俺自身を。

 そのとき、視界の端に新しい通知が走った。

 丁寧な表層通知ではない。

 もっと直接的で、短い。


 統合検知:予兆

 対象:鍵(廃棄)

 処理:即時溶融

 到達:120秒


 120秒。

 二分。

 さっき俺が拒否で止めた時間と同じ。

 鴉城が吐き捨てる。

「来るな。溶融班」

 シキが笑う。

「来るなら、こっちもやるだけ」

 俺は雨を見上げた。

 雨が目に入る。無臭でも雨だ。

 いまはこれが合図になる。

「統合する」

 俺はもう一度言った。

「二分で」

 ネオンが、最小出力のまま、しかし確かに言った。

「了解。ユウ。――君が君で戻るために、私は鳴る」

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