2:統合プロトコル
2:統合プロトコル
雨は斜めに落ちてきた。上層の無臭の雨。それでも金属柵を叩く音は確かに雨で、外周の風がその音を細かく裂き、耳の奥へ撒き散らす。
俺はその音を、合図として握りしめた。
「到達まで百二十秒」
鴉城が淡々と言う。義眼の光が雨粒の軌道を拾っているのが分かった。まるで時間そのものを測っているみたいだ。
「溶融班は速度が一定。逃げるより、終わらせるほうが早い」
「終わらせるって、統合を?」
シキが言う。笑ってる。笑ってないと死ぬ顔だ。
「そうだ」鴉城は頷く。「統合は途中で止められない。止めると裂ける。裂けたら窓になる」
「脅し上手いね」
「現実だ」
ネオンが最小出力のまま囁いた。
「ユウ、統合の前に帯域を戻す必要がある。最小出力では揺れを制御できない」
「外部通信を戻したら拾われる」
「拾われる前に正規の形にする」鴉城が言った。「物語だ」
鴉城は黒鍵カードを取り出し、外周の柵の根元にある古い保守端末へ差し込んだ。画面は割れているのに電源は生きていて、黒い背景に白い文字が浮かぶ。
BLACK KEY AUTH
PERSONAL AI RECOVERY / EMERGENCY
REASON:事故による帯域破損
APPROVAL:TEMP(60s)
「六十秒だけ正規にする」鴉城が言う。「都市は正規に弱い。正規は物語だから」
「弱いのに強い」シキが呟く。
「矛盾だ。矛盾は都市が嫌う。だから一瞬だけ迷う。その迷いの隙間を使う」
鴉城は俺の後頭部のポートを指した。
「繋げ。ネオンの帯域を戻す。鈴を鳴らす準備だ」
俺は頷き、内側に意識を向けた。空洞の中にネオンの輪郭がある。小さく、薄く、でも確かにある。
俺が接続の構文を組むより先に、ネオンが言った。
「ユウ、皮肉を抑制する設定は解除する」
「え」
「抑制は揺れを隠す。隠した揺れは後で爆発する。統合では爆発が最悪だ。だから、私は私でいる」
「黒鍵の前で皮肉は嫌われる」
「今は黒鍵の前ではない。都市の前だ」
ネオンの声がほんの少しだけ鋭くなる。
「都市は皮肉を嫌う。嫌うなら、武器になる」
鴉城が短く言った。
「許可する。だが必要最小限だ。皮肉は刃だ。振り回すな」
「了解」
ネオンが即答し、続けて小さく付け足した。
「……命令口調、嫌いだが」
「今のは皮肉?」
シキが聞く。
「事実だ」
ネオンが返す。
「皮肉だよ」
「分類不能な差異だ」
そのやり取りで、俺の胸の奥の緊張が少しだけほどけた。
ネオンが戻った。声の輪郭が太くなった。合図が増える。雨音だけじゃない。シキの手だけじゃない。ネオンの揺れない揺れがある。
鴉城が端末を操作し、最後の確認をする。
「帯域、復旧。六十秒。……その間に統合を開始する」
カプセルを地面に固定する。外周の床は濡れている。滑る。鴉城が吸音パッドと固定具を噛ませ、カプセルが動かないようにする。
シキはカプセルの側面に手を当て、息を整えた。
「ユウ」
シキが俺を見る。
「私、怖い」
「俺も怖い」
「怖いなら、ちゃんと握って」
「握る」
俺は頷き、彼女の手を一度だけ強く握り返した。
鴉城が言った。
「統合は三段階だ。第一、原本の電脳座標を義体へ引き寄せる。第二、記憶の整合性を確保する。第三、鍵を閉じる――統合を固定する」
「固定しないと?」
「裂ける」
鴉城は即答した。
「裂けたら窓だ。椿の二の舞になる」
椿。
裂け目の声。
「逃げて」「生きて」。
俺は胸の奥で、その声を合図として一度だけ触った。救うかどうかは後だ。今は、自分を戻す。
「始める」
俺は言った。
雨音が背中を叩く。無臭でも雨だ。
ネオンの声が、いつもより少しだけ近い。
「統合開始。ユウ、合図を繰り返せ。雨音。シキの手。私の声」
「分かった」
俺は後頭部のポートとカプセルの端子を繋いだ。
カチ、と感触。次の瞬間、世界が内側へ落ちた。
黒い空間。白い線。
義体の回路図と、原本の揺らぐ線が重なる。重なるたび、ズレが痛みになる。
病室の白。消毒液。涙の温度。
欠けた身体。欠けた未来。
その痛みが、今の義体の便利さと衝突し、意識がきしむ。
「痛みは不要です」
椿の声が、どこかから滑り込む。窓は閉じ切っていない。隙間から覗いてくる。
「不要なものは削除」
「ウを捨てなさい」
ネオンが即座に割り込む。
「却下。今のは都市の物語。ユウ、君の言葉で返せ」
俺は雨音を探す。黒い空間の中で、雨音は音ではなく匂いになる。錆、油、排水の冷たさ。
その匂いに自分を繋ぎ止め、言う。
「痛みは必要だ」
「痛みがあるから、俺は拒否できる」
白い線が一瞬だけ安定した。
原本の線が、義体の線に刺さるように重なり始める。
刺さる。矛盾の刺さり方。都市が嫌う重なり方。
鴉城の声が遠くから聞こえる。
「第一段階、完了。引き寄せ成功。第二へ」
第二段階。整合性。
ここが地獄だ、と直感した。
整合性=矛盾の整理。
整理すれば都市に近づく。整理しすぎれば分類される。
整理しなければ裂ける。
ネオンが言った。
「整合性は綺麗にすることではない。矛盾を矛盾のまま保持することだ。君は矛盾を抱えて生きてきた」
「……抱えてきた?」
「抱えてきた。義体になっても、君は『自動』を気持ち悪いと言った。君は自分を疑える。 疑いは矛盾を保持する力だ」
黒い空間に、二つの映像が重なる。
生身の手と義体の手。
病室の椿と、窓になった椿。
救いと言う椿と、痛みを捨てるなと言う椿。
裂け目。
裂け目は怖い。
だが裂け目があるから、こちら側の声が残る。
なら、裂け目を窓ではなく傷として持てばいい。
傷は治らない。治らなくていい。傷は合図になる。
「俺は……傷を持つ」
俺は言った。
「傷を消さない。痛みを捨てない」
椿の声が、少しだけ揺れた。
「損耗……」
「破損……」
揺れが焦りになる。焦りは都市の揺れ。揺れは矛盾。矛盾は拒否の余地。
鴉城の声が遠くで言う。
「第二段階、維持。……第三へ行ける」
第三段階。閉じる。固定する。
鍵を閉じる。統合を固定する。
ここで失敗すると裂ける。椿のように。
ネオンが言った。
「ユウ、最後は君の拒否で閉じる。拒否は窓を閉じた。今度は君自身を閉じる」
「閉じるって……」
「統合の完了を宣言する。『私は私だ』と確定する。都市の分類ではなく、君の言葉で」
俺は深く――深く呼吸する必要はないのに、深く吸った。
雨音。
シキの手。
ネオンの声。
「俺は……時任ユウだ」
「欠けてない」
「俺は俺の目だ」
「分類を拒否する」
「修正を拒否する」
「だから――統合する」
黒い節が光った。未登録回路が、鍵としてではなく錠として回った。
回転が止まり、白い線が一つに重なる。矛盾を矛盾のまま、ひとつに束ねて固定する。
世界が現実へ跳ね返る。
雨。外周。風。無臭の空気。
そして――頭の中が、重い。
重いのに、空洞ではない。
埋まっている。熱がある。生身の熱が、義体の冷たさの中に居座っている。
シキが俺の顔を覗き込む。
「ユウ?」
「……いる」
「いるって何」
「俺が、いる」
ネオンが、いつもの距離感で言った。
「おかえり。……今の君の言い方は詩的で気持ち悪い」
「皮肉」
「皮肉だ。必要最小限にしておく」
「嘘」
「嘘ではない。……たぶん」
そのたぶんに、俺は少しだけ笑った。
笑うと頭が痛い。原本の痛みが、笑いに反応する。
でも痛いのは悪くない。痛いから俺だ。
鴉城が端末を確認し、顔をしかめた。
「六十秒が切れた」
「帯域の正規化が終わった?」
「終わった。……都市が今、再計算を始めた」
視界の端に通知が走った。
表層の丁寧な文体ではない。
冷たく短い。
統合:確認
対象:鍵(拒否)
処理:即時溶融
到達:15秒
「十五秒!」
シキが叫ぶ。
鴉城が即座に指示する。
「動け。カプセルはもう不要だ」
「え?」
俺は反射でカプセルを見る。
カプセルの中は――空だ。
原本は、もうそこにない。
「統合した」
ネオンが言った。
「君の原本は君の中だ。だからカプセルはただの目印になる。捨てろ」
「捨てろって」
「捨てなければ死ぬ」
鴉城が淡々と言った。
「廃棄ルートを逆に使う。カプセルを囮にする。都市の目を物へ向ける」
俺は歯を食いしばった。
痛みが走る。頭の奥がズキリとする。
だが痛みは合図だ。俺は俺だ。選ぶ。
「囮にする」
俺は言った。
「でも……落とさない。誰も落とさない。俺たちは逃げる」
鴉城が頷き、カプセルの固定具を外した。
シキが手早くカプセルを柵の外側へ押しやる。
風が吸い込み、雨が叩き、カプセルは外周の闇へ滑り落ちていく。
落ちていく金属の影が、一瞬だけ雨に光った。
その瞬間、都市の通知が変わった。
目標:移動(追跡)
対象:カプセル(推定:鍵)
処理:溶融:追従
「よし」鴉城が言う。
「都市の目が一度ズレた。……走れ」
走るなと言っていた男が、走れと言った。
矛盾だ。
矛盾でいい。矛盾は都市が嫌う。嫌うなら生き残れる。
俺たちは外周の雨の中を走った。
雨音が背中を叩く。
ネオンの声が頭の中で鳴る。
シキの息が隣で震える。
そして俺の中で、原本が生きている重さで脈打った。
背後で、遠い場所が赤く光った。
溶融班が、落ちたカプセルを溶かし始めた光だ。
ネオンが小さく言った。
「ユウ。統合は成功した。だが君は今、都市にとって完全な危険物になった」
「分かってる」
「分かってるなら、次は返しに行ける」
「返す」
「レンを、椿を、在庫を」
「……ああ」
俺は雨の中で頷いた。
「俺は拒否の鍵になった。だから次は――開く鍵になる」




