コンコルド七月暴動(7)
「……」
一瞬の間をおいて、ラウラは言葉もなく聖剣を顕現させていた。薄桃色の妖艶な燐光が周囲を照らし、勇者の右手に飾り気のない滑らかな剣を模した鋭利な結晶塊が握られる。
「誰があたしを名前で呼んでいいっつった? 魔物ごときがナマイキに上流階級ごっこしてんじゃねぇ、この……」
「喋るな、クズ」
ヘレネの罵倒を、ラウラの一声が遮った。
「躾のなってねぇクソガキだなぁ。あ?」
「お前と話すことなんか何もない」
「てめェになかろうが、こっちにゃ多少なりともあるんだよボケ」
繊細な声色でありながら、チンピラも同然の口調と語気で、ヘレネは流暢なガリア語を紡いだ。やがて彼女は膝を折ってしゃがみ込むと、手にした拳銃の銃口をスーツケースの側面に押し付けた。
「さあて、問題です。この状況であたしがお前ら相手に突きつけるものといったら、なんでしょーか?」
ぱちんぱちんと、問いの答えを待つことなく、ヘレネはケースの施錠を解いていく。ラウラが手を出さなかったのは、早々に、そしておのずとケースの中身に予想がついてしまったからだった。十中八九、この場で交渉の材料となりうるもの。ラウラやアミルが失ったもの、失いたくはないもの。その条件に合致したものが、ただ『ひとり』、彼女たちの中で浮かび上がった。
そうであってほしくない、まさか、それだけはやめてくれ。
あってはならないことじゃないか、そんなこと。
開帳されたケースの内側には、柔らかな純白のクッションが敷き詰められていた。内部の容積は、大型犬が納まるのに難儀する程度のもの。まるでケースを揺籃かのように、その少女はすっぽりとコンパクトに収められていた。余分な四肢を切断され、文字通り赤子のようにその体躯は小柄。淀んだ瞳で虚空に視線を投げ続ける多感な年ごろの少女、その抜け殻であった。
「エルチェ……?」
仮にそれが名前を呼ぶ叫びであったとしても、ラウラの声に彼女が反応することはなかっただろう。少女の顔つきは、モルぺリア常習者の典型的なそれ。言葉と思考を放棄し、意味をなさない呻きと喃語を、快楽の夢幻の中で延々と呟き続ける肉塊。黒のドレスがさながら乳児のスワドルかのように丁寧に着付けられ、目にする者により一層の奇妙な諧謔をもたらしていた。橙の頭髪は、ウェーブがかったガーリーなロングヘアに仕立て直され、黒のレースがあしらわれたリボンで飾られている。その鮮やかな髪色を、ラウラが見間違えるはずはなかった。
「ほぉ~~ら、ほらほらほら! あたしの言いたいことわかったろ? ベルリンであたしらに火の玉ぶん投げてきたガキだよ、お前らのお友達のよぉ!」
「ふざけるな……!」
「返答がそれっておかしいよなぁ? なぁ? このラリッたメス犬のドタマ、ここでぶちまけてやってもいいんだぞぉ。畑の畝で腐り散らかしてるスイカみてーによぉ」
「ラウラ。言う通りに、して」
ラウラの背後から、震え混じりのアミルの声がかけられた。
「剣を、おろして」
「わかってるのかアミルッ、あの女、あの女はっ……」
「フォン・ヴィッテルスバッハ伯。こちらに貴女を害するつもりはありません。どうか、我々と対等な議論のテーブルについてはいただけませんか」
「対等だあ? 寝ボケてんじゃねぇよタンカス。こちとらテメェら魔王軍のシロアリどもに心底ウンザリさせられてんだ。せっかくモスクワが何もかもぶち壊しにしてくれて楽しい世の中になったと思ったら、何なんだテメェらは。シラける横槍入れやがって。みんなで仲良く? お行儀よろしく? ケンカはやめてだあ? 空気読めよ、鼻に耳クソつまってんじゃねぇのか?」
「お前の目的は何だ。何が楽しくて……こんなことをする」
「てめェら薄汚ぇ魔物が嫌いだからに決まってんだろォ? 魔物を殺すのに理由がいんのかボケ! 知らん間に街に潜りこんではモリモリ増えまくる、他人に迷惑かけまくる、パッと見クソキモい、挙げてったらキリがねぇんだよ魔物はよぉ! 生かしとく価値もねぇから、あたしが慈善事業で殺してやってんだろォが! あたしの世界に勝手に産まれてきやがって、図々しいとは思わねぇのか?」
話が通じない。
ラウラはまだしも、アミルはこのとき実感した。根本的に異なる世界、異なる国家、異なる文化によって培われた人格とは、仮に言語が共通であったとしても、意思疎通など到底不可能なのだということを。そしてそのもどかしい事実は、きっとヘレネにとっても同じだろう。
「おい、お前。頭まっかっかのお前だよ」
銃口をラウラの方へ向け、さながらそれを教鞭のように振って指示するヘレネ。
「でけぇ刃物振り回してさんざん脅してくれやがってよぉ。つくづくイカレに刃物って笑えねぇわ。お前、今からそれ使って、なんか詫びろ。なんかだよ、なんかして……どっちか死ね。そしたらこのガキ返してやるよ」
「……女子供のたった一人が、ボクや彼女に吊り合うとでも思ったか」
居丈高なヘレネの命令に、ラウラは低い声で応じた。
「そのくだらない取引に、いったいどこの誰が乗ると思う?」
「おい、動くな。来んな、来んなって……調子こいてんじゃねぇぞてめェ!」
「それとも、その人質をかなぐり捨ててボクを撃つか? 弾の無駄だ、試したことはないが、その程度の火器では、きっとボクは殺せない」
徐々ににじり寄るラウラ。相対するヘレネは、眉間に皺を寄せてさらに呟く。二人の距離は、十メートルを切る。二対の碧眼が、その中間で重なり合う。剣の切先が、ヘレネの喉元を指し示す。
「二度目はない。次は殺す」
ラウラの冷たい宣告から間を置くことなく、乾いた舌打ちがヘレネの口元から響いた。続いて、ヘレネは手元の銃を発砲した。レザー素材のケース生地を貫通し、内部に収まるエルチェの肩部を弾丸が射抜いた。銃創から血が噴き出す。しかし彼女は麻薬のもたらす陶酔に落ち込んだまま、外界からのやや強い刺激に対して、言葉なく呻くだけだった。
「なんだって?」
ラウラが二の句を告げるより先に、もう一発を発砲。続いて二発、三発。腹部から、胸部から、喉笛から、それぞれ穿たれた風穴より鮮血がこぼれだし、少女の着衣を濡らしていく。離断された肩と膝をもぞもぞ動かし、熱された鉄板の上で喘ぐ地虫のようにエルチェはもがいた。
「いっちょまえに痛そうにしてるぞ。どうする、続けんのか?」
「やめろ」
「お前がそうやって殺すだなんておっかないこと言うからだろ? 勇者様ともあろうものが、殺すだって! 怖くて指が震えちまったんだよ。お前が痛めつけたも同然じゃねえか。責任転嫁すんなよなあ」
得意の詭弁で、ラウラの神経をなおも逆撫でするヘレネ。
「で、なんだっけ? 銃じゃボクは殺せないって? ハイハイ、なんとなくわかったよ、このイモムシもなっかなか死なねえもんなあ……人間ってのはさあ、クソと小便以外に妙な剣だの炎だのを垂れ流したりしねェーーーーんだよ! わかったか魔物野郎どもが、その猫の下痢が詰まった頭蓋骨の中身によーく言い聞かせとけ! テメェらは! ま! も! の! モ! ン! ス! タ! ア! だってよお!」
「……やめろ」
「で、どっちが死ぬ? お前? 後ろの魔王様? ほら早くしろって、あたしそんな難しいこと言ってねぇだろぉ? テメェでテメェの首カッ斬るか、魔物女をズパッと始末するだけじゃねーか? お強いんでしょお? 勇者様ってぇのはさあ」
剣を水平にかざしたまま、ラウラはただ辱めに震えていた。その姿に次なる言葉を告げたのは、アミルだった。
「もう、やめにしましょう。ラウラ」
「……アミル?」
「たくさん死んだわ。これからも、もっとたくさん死ぬ。私がこうして、生きているだけで。エルチェさんだって、そうでしょう?」
「……アミルのせいじゃない」
「私がここに来なければ、ああはならなかった。ヘルヴェチアだってそうでしょう」
「違う」
「違わない。私は、ずっとあのベルリンの牢獄にいるべきだった……」
「そんなはずないッ! そんなはず……あるもんか」
アミルはラウラの傍らに立つと、剣の腹に両の手を這わせ、その切先を自らの喉元へと誘っていく。鋭利な突端が、アミルのきめ細やかな素肌へかすかに触れる。
「勇者ごっこは、もうおしまい」
甲斐性のない魔王で、本当にごめんなさい。あなたを勇者にしてあげられなくて、ごめんなさい。絞り出すようなかすれた声で、アミルは自嘲を込めて呟いた。
すべては、諦念からなるアミルの本心。お仕着せられた使命に対しての、有り余るほどの無力感。生き別れになったヴィルヘルミーナと再び巡り逢うため、そんなロマンチシズムに溢れた、幼稚で空虚な動機で空回りをし続け、大陸じゅうを駆けまわって得られたものは、果たして何か。要らぬ憎悪と二極化をまき散らし、死者の頭数だけが増えていく。啓蒙などと呼ぶにもおこがましい独りよがりな演説をぶちあげ、結局コンコルド広場はあの有様ではないか。
人種差別や民族的な対立において危険にさらされるのは、兵士や警察官だけではない。およそ戦場とは無縁の、女子供や老人までもが、苦痛と汚辱の中で事切れていくのだ。
眼前の女への憎悪は、ない。ただ、哀しいだけ。虚しさがつのるだけ。
彼女が事を起こさずとも、きっと彼女以外の誰かが自分たちに異を唱え、同じような所業に手を染めていたはずだからだ。そしてきっと、こうしている間にも、リーハイムのような惨劇は大陸のどこかで起こっているに違いない。それほどに、これまで丹念に育まれてきた人魔対立というものは根深く、そして広大に瀰漫されきっている。そんな偏見と憎しみの風雨の只中に躍り出たところで、単なる小娘である自分に何ができるというのか。烈風と雷鳴が吹きすさぶ屋外に、こんなものはただの幻影だと、みなを連れ出そうとした結果がこれではないか。誰もが音なき雷に打たれ、誰もが形なき暴風に肉を裂かれ、無惨にも死んでいった。オオカミ少年がハーメルンの笛吹まがいの真似をして、ここでようやくその罪業に気づいたのである。
これは、私にしかできないこと。私だからできること。彼らから求められる、魔王の血を引く私に課せられた使命。それを果たせば、おのずと囚われのヴィルヘルミーナにも近づけるはず……なんと、浅ましい。なんのことはない、大勢を死に追いやった罪びとだ。それも、とびきり愚かな。ほかに形容のしようがない。周囲からエレシュキガルの末裔と持て囃され、多少なりとも全能感にまかれてしまったが故の悲劇。否、喜劇であろう。
「ごめんなさい。出来の悪い魔王で、ごめんなさい。産まれてきて、本当にごめんなさい」
手指が薄桃色の刃を握り締め、裂けた皮膚から流れた鮮血が、それらを一色に染めていく。
――――ラウラ、最後まで付き合ってあげられなくて、ごめんね。
――――ごめんなさい、ミーナ様。私、なにもできませんでした。
銃声。
アミルの喉に切先がわずかに沈み、青い血の筋が静かに流れ出した、その時だった。
広場の北側から、突如として飛来した弾丸が、ヘレネの右脇腹を射抜いた。ぱっと血の玉が飛び散り、装束の生地が赤黒く染まっていく。
「はぇ」
いきなり腰を突き飛ばされたかのような衝撃に見舞われ、ヘレネは目を白黒させた。やがて襲いくる、灼熱を伴った激痛に、彼女は息を荒げて恐慌に見舞われだす。
「い、痛ッ、痛……熱、痛ったああああっ!」
穴の開いた傷口を力いっぱい握り締め、ヘレネはもんどりうって倒れ込んだ。足をばたつかせ、さながらクリスマスプレゼントの品物に納得のいかない駄々っ子のように彼女は慟哭した。
「な、何だよぉおおおおっ、何なんだよ糞ぉぉぉぉっ、痛っ、痛ぁぁぁいっ、ざけんなっ、ざけんなざけんなふざけんなあっ、なんであたしが、こんな目に遭わなきゃなんねんだよおおっ」
この場で銃を構えていた者は、ヘレネを除いて他に居なかったはず。ラウラは聖剣を、そしてアミルは護身用にリボルバーを所持していたとはいえ、ヘレネに直撃させられるほどに熟達した射撃の腕は持っていない。
狙撃者は、広場を囲う建築物や並木に隠れて接近していた。
仇敵が膝を折り、自らの前に屈し、やがて同胞を手にかけるその様を、ヘレネは最上段で、そして誰よりも間近で観覧することを望むはず。その予測にすべてをかけ、彼はついにその弾丸を、傾城の女傑ヘレネへと叩き込んだのだ。
「ど、ど、ど、童貞がぁぁぁぁぁぁぁぁっ! 童貞野郎てめェぇぇぇぇッ、どっち撃ってんだこのボンクラ野郎ぉぉぉぉっ!」
ヘレネの蒼く潤んだ瞳は、既にその狙撃者を捉えていた。
渾身の罵倒を叫んだその先には、静かに拳銃を構えるソロヴィヨフの姿があった。
再び放たれたソロヴィヨフの弾丸はヘレネの肩を射抜き、彼女を地面へと縫い付けた。
「やかましい。寝言は寝て言え、糞女」




