コンコルド七月暴動(6)
コンコルド広場から四方に広がった暴動の熱波はまたたくまに街路を塞ぎ、アミルたちの脱出を困難なものにしていた。あちこちで警官隊が、ガリア憲兵が、ブリタニア軍が、聖戦士と化した革命の徒の集団と対峙している。
しかしながら、今となっては手の施しようがない。まるで人目を憚るかのように、アミルたちはセーヌの川沿いを西にひたすら駆けていた。そこへ突如、街路とテュイルリー庭園を隔てる左手の生垣から、暴徒の集団が姿をあらわした。コートを頭から覆っているとはいえ、至近距離で相対したことで、アミルの顔は驚くほど簡単に割れてしまった。もはや言葉の体すら失った威嚇の怒鳴り声が、一同に浴びせかけられた。
「だめだ、撃つなあッ!」
ドリヴァスの部下の凝魂人の士官が、押し寄せんとする人の波に向け、反射的にショットガンの銃口をさしむけた、その時だった。ラウラの一喝が彼の引き金にかかった指を一瞬制止させたかと思うと、ショットガンの銃身が、ちょうど中央から真っ二つに両断された。
「ベルギエン卿、しかし」
「彼らを傷つけちゃダメだ、魔王を人殺しにさせるなッ!」
フリュギアの首魁アミル・カルカヴァンが、ガリアの猿人を殺害した。そのような風評が万一広まっては、いよいよ取り返しのつかない事態になる。もはや暴動を招いた元凶だと、大多数から認識されているであろうこの期に及んで、しかしラウラは、アミルの名誉がこれ以上傷つけられることに耐えられなかったのだろう。
「貴様ら、何をしにここまで参った。熱気に浮かされただけのボンクラがどれだけ向かってこようが、相手は所詮素人であろうが。我らは民草を殺しにわざわざパリくんだりまで足を延ばしたわけではあるまい。偉大なる魔王エレシュキガル二世閣下と、その矜持を命を賭してお守りするためであろうがよ!」
ドリヴァスの檄が部下に浴びせかけられ、彼らは再び正気を取り戻す。アミルと、彼女の護衛たるラウラを中心に据えた陣形が、意を決して錯乱する暴徒の壁へと飛び込んでいった。
パリ中央から南東に二キロの位置に、セーヌ川に浮かぶシテ島は存在する。南北の両岸からは計六本の橋が中州に向けて架設されていて、平時にはパリ発祥の地という逸話に惹かれた観光客の往来も多い地域であった。
人波を文字通り、軍人たちによる力ずくで押しのけて辿り着いた西端の橋から、アミルたちはシテ島へと渡っていった。ドリヴァスの部下たちがひとり、またひとりと、数に任せた暴徒の襲撃に消えていった。
込み入ったパリ司法宮が居を構えるパレ通りを抜け、首都警察本部に面したシテ通りに出ると、そこでは暴徒の集団どうしが血みどろの抗争に明け暮れていた。元来はガリア社会党の党大会に呼応して開催を予定したものの、当日の活動を却下されていた反移民デモ行進の一団が暴徒化し、私怨から警察本部庁舎を包囲したのである。これに対し、非猿人種を中心とした移民排斥反対派の人々が警察長官への直談判を目的として決起し、半ばデモ参加者への当てつけかのように、対抗演説を開始したのだ。売り言葉に買い言葉、もはやどちらが先に手を出したかなど、両手を血に染める彼らの中で、それを正しく認識している者は一人もいなかった。
警戒態勢下における予備人員として割り当てられていたのであろう、武装した警察官たちが仲裁に奔走するも、コンコルドから伝播した憎悪の熱気が冷めることはない。いつしか彼らからも、衝動任せに暴徒を殺めてしまう者が出るだろうことは、時間の問題だった。
「ちくしょうっ!」
党大会での緊急時には要人を連れ、警護員主導でシテ島の警察本部へ向かう手筈になっていた。その目論見が脆くも潰え、ラウラは悪態をついた。引き返したところで、先ほど使った西のヌフ橋に殺到しつつある暴徒たちには、アミルの顔が割れている。シテ島に彼女が逃げ込んだと、当たりを付けられてしまっていると考えていいだろう。
背後の司法宮敷地から、濛々と黒煙が噴き上がる。それと同時に、周囲に据えた悪臭が蔓延する。なにかが焼け焦げていくにおい。公物か私物かを問わずして、暴徒たちが建造物に火を放っているのだ。土産物屋も、パブも、裁判所も、病院も、彼らにとっては区別なく、持てる者の驕れる証として放火した。たとえそれが、富めるものが私財を擲ったことで建てられた、救貧院のような建物であっても、彼らの本能めいた獣性がそれを許さなかった。
俺より報われている奴がいる。奴は私たちより幸福に違いない。許せねぇ。死ね。
ただそれだけ。ほかには何もない。何よりもシンプルで、何よりも純粋な、他者より少しでも優れ、そして勝っていたいという願いの発露。
物言わぬ行政官らしき遺骸をなおも痛めつけ弄ぶ人々の、なんと愉快そうなことか。
命乞いをする者と、それを無視して虐殺を愉しむ者。否、涙ながらに拳や鈍器を振り下ろす者のほうが、どちらかいえば多い。思想や民族を違える隣人への、いわば憐憫とでもいうのだろうか。徐々にくっきりと二極化していく醜悪な光景に、アミルはついに目を伏せた。
ひた走る一同はやがてシテ島東端へとさしかかり、威風堂々とそびえるノートルダム大聖堂が視界に現れる。ファサードの双塔と中央の薔薇窓が特徴的な、石造りのゴシック建築。聖堂前の広場は比較的ひと気がなく、パリ中央通りの狂乱から逃げ伸びてきた数人が、空を覆う黒煙を見上げているばかりであった。
走り通しだったことを鑑み、ラウラは小休止を提案しようと、アミルの方へと振り向いた。アミルは、ただうなだれていた。立ち尽くしているのが、やっとのように見えた。
彼女の周囲を固めていたはずの護衛は、いつの間にかほとんどが姿を消していた。ドリヴァス大佐の姿もなかった。つい数秒前まで任務を全うしていたであろうフリュギア人士官が、アミルの背後でうつ伏せになって果てていた。背には、三本の調理用ナイフが突き立っていた。
「アミル、行こう。もう少しだけ、がんばろう」
足を止めたアミルに、手を差し伸べる。だが、彼女は手を握り返すようなことはしない。
「アミル……」
アミルの黄金色の瞳は、眼前のラウラの視線と交差することはない。そのさらに、向こう側へと投げかけられていたからだ。ややあって、それに気づいたラウラがそちらへと顔を向けた。
「どこへ行くっていうんですかぁ?」
平時より解放されている大聖堂の正面玄関から、間延びした女の声が、広場に向けて発された。声の主は、靴の踵が打ち鳴らす音を高らかに響かせながら、二人の前に現れた。車輪付きの大きなスーツケースの取っ手を手にごろごろ滑らせ、彼女はつんと胸を張って広場へと歩み出た。
煌めくブロンドの長髪を、流麗なオーロラのようになびかせて。
「あの世になら、ここで今すぐ送ってやっても構わねえんだけどなぁ~~っ」
青藍のベストにグレーのキュロット、肩から流れる純白のケープ。そして白銀に輝く軽鎧。お伽噺や英雄譚の挿絵でみられるような佇まいの女騎士。青い装束のもたらす趣味的な外連味すら、常人から遠くかけ離れた優艶さに貢献しているよう。澄まし顔でいる分には、けちのつけようのない絶世の麗人に他ならないだろう。
アミルは、初めてこの女と邂逅を果たした。ラウラは、初めてこの女が自らの地位を示す礼装を纏った姿を目にした。それぞれ心に抱いた感想は、まったく同じもの。こんなにも美しい女性が、なぜあのような暴挙に? 俄かには信じがたい、信じられない、信じたくない……何か理由があったのだろうか、そう想像せずにはいられない。それはいわば、神秘を纏った絶対的な美貌からなる、感性への傍若無人なまでの侵犯といえた。
無邪気な好奇心と愉悦からか、女は心底から湧き上がる勝利の快感に浮かされ、にんまりと妖しく嗤っていた。
「貴女が……ヴィッテルスバッハ女伯……?」




