ガリア社会党要人暗殺(1)
七月二十日。
五年ぶりに、テクラ・クラカウは母国ガリアへと帰国していた。党大会に出席する父トマシュを激励するためだ。大会当日の午前中とはいえ、彼は二つ返事で娘の頼みを快諾した。
ひとりの尼僧としてではなく、帝国を売り渡して成り上がった修道騎士として。
「気分はいかが?」
浮かび上がってきた懐古の念を押しこめて、テクラは横のエリーゼ・ガーデルマンの姿を見やった。背丈の異なる彼女の歩幅に合わせて歩くのには、もう慣れている。
「そこまで感慨深くはありませんね」
「たった一人の肉親に会いに行くのに、少し冷たくはなくて?」
「私の肉親は、修道会のみなさんだけです」
「私、有角人の姉妹に覚えがありませんわ」
景気の悪い顔つきで、惨死した亡霊めいた笑いを普段から浮かべるこの女もまた、帝国修道騎士団の女騎士。テクラを拾い上げたヘレネ・フォン・ヴィッテルスバッハ女伯の使い走りにして、テクラと同じく女伯の右腕。黒で統一されたマニッシュなスーツを纏い、二人はパリ市街の入り組んだ街並みを、迷うことなく歩いていく。マロニエの木陰から零れる正午前の陽光を浴びながら、テクラはエリーゼに応じる。
「意地悪を仰らないで」
「意地悪ではなくってよ」
「私の家族に雌豚は居ない、でしょうか」
「……不愉快、ですわね」
エリーゼは口をヘの字にしかめた。毒舌潰しは、共にヘレネの部下として仕えているテクラだけの特権であった。今更そんな低俗な悪口で気分を害するほど稚拙でもない、そんな主張の表れである。唐突な殺人衝動に理性を燻らせる面はあるものの、テクラは決して愚かではない。生来の身体能力や個人の格闘技術もさることながら、頭の回転も遅くなく、同世代の女と比べれば雲泥ともいうべき教養の深さがある。
二人は互いを苦手に感じている。ヘレネの寵愛を奪い合う立場にあるという点では当然ではあるが、一方でヘレネが自分たちに特段の思い入れを抱いてくれているなどといった希望的観測を、単なる思い上がりだと断ずることのできる程度の内鑑能力を有していた。その考えの中で、どれだけ自分たちはヘレネの幸福に貢献することができるか。こうした前提で目の敵になるのは、いったいどこの誰か。むろんテクラもエリーゼも自身の能力の限界を人並み以上に知りえているし、その範疇でヘレネを愛し愛されたいと心に奉じている。彼女たちがヘレネ以外に特段の感情で気に掛けるとするならば、それは自身と同じ立場にある信奉者だろうか。出自や境遇こそ異なれど、同じ役職で肩を並べる騎士。同胞にして、それはきっと天敵であろう。
「ヘレネ様は、民族や人種で人々を差別される方ではありませんのに」
「寛容に接される方だからこそ、側近の私が目を光らせねばなりませんのよ」
「偏見で曇った世界は、さぞ美しく見えるものなのでしょうね」
「お姉さま以外のものがいかに曇ろうが、一向に問題なくてよ」
「レイシストの視界がそんなでは、危なくて仕方ないのではなくて?」
「……下手人の分際で、よくもそんな口が叩けるものですわね。お姉さまの御慈悲で永らえただけの殺人鬼が」
「ヘレネ様の人事に、異論があると仰るの?」
「採用の基準に問題があるというのは、以前から申し上げていますの。いかにお姉さまの審美眼が凡夫のそれとは異なるとはいえ、相貌だけで騎士を選定するのは聊か危険ではないか、と」
エリーゼがぼやく通り、テクラは自身の倒錯嗜好が明るみになったあの夜、ヘレネの一存によって騎士団に迎え入れられた。その理由は、テクラが他の人間よりも容姿に優れていたから、その一点だけである。基本的に帝国修道会では、例に漏れず非猿人種の存在は歓迎されはしない。重役に採用されることはまずなく、普遍的隣人愛を標榜してはいるものの、表立って自分たちの猿人至上主義的な性格を糺すような振る舞いは見せない。そのような組織にあって、ヘレネが籍を置いていたルプブルク修道院、ならびにレーゲンスブルク修道会は特殊であった。ヘレネの人間観同様、美貌以外の採用基準に頓着がないのだ。無秩序と言ってもいい。
奥歯二本を折られ、頬に二針縫う怪我を負ってまでテクラを制圧したエリーゼにしてみれば、これがヘレネによる決定でなければ、席を蹴るような結果であったといえよう。
「ヘルヴェチアでは、大手柄だったようですわね。危機一髪で、お姉さまを助けられたとか。ご褒美はいただけましたの?」
「だとしたら、何だというのです? 羨ましいのですか?」
エリーゼはひときわ、ヘレネとの肉体関係に関しては嫉妬深い。反面、先のオーギュスト・ヴァイルブルクによる暴行事件に関しては、彼女も思うところがあるのだろう。あの場になぜ自分が居なかったのか、そんな偶然性がもたらした理不尽への後悔が、彼女の白んだ顔から笑みを消失させていた。テクラへは嫉妬と同時に、ヘレネを襲ったふしだらなエルフ野郎を見事撃退してみせたという実績もまた、エリーゼは認めているのであろう。言うまでもなく、負傷したヘレネがそんな戯れを行えるはずがない。しかしテクラは、睦事の約束を取り付けたとでも言わんばかりの態度をエリーゼに差し向けてみせた。
「ええ、とっても。正直言って、不愉快ですわね。非常に」
「私がヘレネ様の窮地を救ったのだとしても?」
「貴女さえいなければ、きっと私がそこにいたはずですわ」
普段の不自然な笑みはなく、エリーゼは淡々と言葉を口にした。平時の彼女であれば、こうした感情的な抗議などするはずがない。エリーゼという女性は、ヘレネとはまた異なるタイプの差別主義者であるが、彼女もまた人種以上に個人の持つ能力や実力を慮ることのできる人間でもあった。ゆえにこそ、個人的な好悪を脇に置いてヘレネによるテクラ登用を看過することができるのであるが、それにしては、ここまでエリーゼが嫉妬を露にするのは、五年来の付き合いのあるテクラとて、初めて見る光景だといえた。
「私はお姉さまが貴女を、能力以外の面で重用する理由が理解できませんわ」
だって、貴女より私の方が可愛いではありませんか? 平然とエリーゼは吐き捨てた。
「ヘレネ様の判断と貴女の感性が乖離していることを、お認めになるのですか?」
「ええ、もちろん。貴女こそ、自分の感覚がお姉さまと相似しているとお思い?」
予想外の物言いに、応えに窮するテクラ。ふっと鼻で笑いながら、エリーゼはつづけた。
「異なるからこそ惹かれるの。貴女はどうやら、そこが少し違うようですが」
「それが、貴女が私を嫌う理由ですか」
「理由の一つとして解釈してくれれば、御の字ですわね」
「生憎、私はそこまで厚かましい女ではありません」
別にテクラとて、ヘレネと感性を共有しているなどといった、思い上がった考えがあるわけではない。しかし漠然と抱いている目標めいたものに関してだけは、親近感を持っていることは確かである。その形而上的な感覚こそが、テクラをヘレネに惹きつけてやまないのだ。
あの日。ヘレネは、テクラを修道騎士とした。人殺しの大好きな部下として、または夜の愛玩動物として。他の帝国民や貴族たちと同じように、家畜の延長と思われているのかもしれない。ただ、そんなことはまったく気にもならなかった。
ヘレネはただ、倒れ伏したテクラにこう述べた。掃除屋になる気はないか、と。人間であろうが、そうでなかろうが、ヘレネの口ぶりは変わるまい。ただ、男を撲殺せざるを得ない産まれ方をしたテクラという役に立ちそうな誰かに、そう持ち掛けただけなのだ。
掃除屋。修道会、ひいてはヘレネの指示した人間を始末するための人員。それはすなわち、テクラにようやく与えられた、格好の天職と呼ぶほかない。
テクラは床を這いながら、ヘレネの足元へと向かい、そして跪いた。口元を赤く染めたエリーゼから向けられるサーベルの切先など、彼女と邂逅できたことへの悦びに比べれば、些事にもなり得なかった。ヘレネの靴のつま先は、今まで殴殺してきた男の鮮血より、何百倍も甘露に味わえた。
「私は、いただいた祝福と同じように、ヘレネ様に祝福をお返しして差し上げたいだけ。私を肯定してくださったヘレネ様が、私にとって何より正しい存在なのは、考えるまでもありませんでしょう? 逆もまた、きっと然りです。私は、そう信じます」
二人は、ある一軒の建物の前で足を止めた。左右を隣り合うビルディングに挟まれ、フェンスの誂えられた門扉のさらに奥には、白い建材が目立つ四階建ての建造物がそびえている。フェンスの表札には、ガリア社会党の文字が記されている。テクラは、その傍に据え付けられた電鈴のボタンを押した。ブザーが響いてからさほど待たずして、スーツの男が奥の建物から姿を現した。フェンスの向こうに立つ、ブルネットの猿人を伴った有角人の女を見ると、男は恭しく頭を下げた。彼女がトマシュ・クラカウ上院議員の縁者であることに感づいたようだった。
男性職員に通された待合室のソファに、エリーゼは腰を落ち着けていた。当初の目論みの通り、職員はエリーゼのことをテクラの秘書か何かだと認識してくれたらしい。
エリーゼはソファの横に置かれた観葉植物の葉脈に目を這わせながら、ぼんやりと暇をつぶしはじめた。建物内はほぼほぼ無音。職員や支持者のほとんどは、党大会の準備や各所への根回しに駆り出されてしまっているらしい。必要最低限の事務員だけを残して、党本部は閑散としていた。
同階の応接室では、今まさにクラカウ父子が五年ぶりの対面を果たしているのであろう。党大会が終わった後にはディナーにでも洒落込もう、そんな他愛のない会話が繰り広げられているはずだ。当然ながら二部屋を隔てたこの待合室まで、二人の声が聞こえてくるはずもない。
エリーゼは、テクラの述べたヘレネへの感情を連想した。ヘレネを神格化して久しいエリーゼは、彼女の有する主義や嗜好への同一化を何より尊ぶべき主題として考えるところがあった。
しかしながらエリーゼ・ガーデルマンは、ヘレネ・フォン・ヴィッテルスバッハにはなり得ない。そしてその手足や感覚の代替にも、延長にも。なればこそ、彼女を深く愛することができるのだし、祝福を授かることもできる。そう、断じていた。
だがあのテクラ・クラカウは、不遜にもあんな物言いを口にしてのけた。ヘレネを肯定する者こそが、ヘレネにとって何より正しい。自分とヘレネは互恵関係にあるのだと言うのである。相手があの立場に居なければ即座に延髄を蹴り飛ばしていただろうが、今思えば、彼女の言動をつけあがった末の妄言と断じるには、いささかの躊躇が生じた。
いただいた祝福を、お姉さまにお返しして差し上げる。その考えは、エリーゼの中にも存在する。そして、彼女にもやはり、ヘレネからの寵愛を独占したいという欲がある。最終的にヘレネを唯一肯定する者こそが、ヘレネにとって何より正しい。それなら、そこに名を連ねるのはエリーゼ・ガーデルマンであるべきだ。
「嫌な女」
テクラ・クラカウは、朴訥で無害そうな顔と振る舞いに、嵐のような暴力性と狡知を包み隠している。厄介なのは、それに伴った腹の探り合いの能力が備わっている点である。そして何より、ヘレネへの忠誠と義信に関しては、エリーゼに勝るとも劣らないというのが気に入らない。個人としては嫌悪の対象でありながら、ヘレネの懐刀としては、これ以上ないほどに優秀なのだ。
昨日はオーギュストの蛮行を食い止め、そしてガリア遠征においてはこうしてクラカウ議員と渡りをつける手柄を立てている。テクラ本人が知ってか知らずか、エリーゼの自尊心はこれ以上なく傷つけられていた。ヘルヴェチアでは久々に夜を共にしておきながら、オーギュストの襲来に立ち会えなかったということも、エリーゼの憂いに拍車をかけていた。
「本当に、嫌な女ですこと」
目元に手をやって、エリーゼは呟いた。
自分を差し置くほどに優秀で、ヘレネの眼鏡に適う相貌の持ち主。ヘレネ以外に関心を示さないエリーゼが、唯一明確な悪感情を抱く相手、それがテクラであった。
そこへ乾いた銃声が三発ぶん、待合室まで響き渡った。やがて廊下からも二発の発砲音がすると、待合室のドアが開かれた。そこには、拳銃を手にしたテクラが立っていた。黒い血痕のまだらがこびりついたジャケットと書類の束を小脇に抱えながら、テクラはエリーゼに言った。
「お待たせしてすみません」
「済みましたの?」
「ええ。つつがなく」
実の父親と、その道連れとなった哀れな事務員の数名を屠ってきたばかりであろうテクラは、エリーゼの向かいのソファに腰掛けると、さらりとその事実を口にした。
「やはり推察通り、当初は魔王だけを出席させる腹積もりだったそうです。私やブルクゼーレ側からの働きかけで、急遽パルスベルクの英雄……もとい、さらに強い影響力を持つヴィルヘルミーナ殿下と魔王が鉢合わせるようにセッティングした、と」
そう言って、テクラは書類をエリーゼに手渡した。党大会開催に関しての計画が記されており、ひとまとまりに綴じられた冊子ごとに、その内容は異なっている。計画書は総じて二種類、ひとつはガリア政府経由でフリュギアのエレシュキガル二世に働きかけるもの、もうひとつはテクラやソロヴィヨフを通じて、ヴィルヘルミーナやモスクワ情報庁との繋がりを構築していくもの。これら二つの計画が冊子内で同時に記されることはなく、党内でも両者を演台の上でブッキングさせることを知り得ていた者は、ごく少数だったらしい。
「宣伝効果としては申し分ありませんわね。仮に成功していたら、ですけれど……」
「とはいえ、演出はまだ終わっておりませんのでしょう?」
テクラにそう指摘され、エリーゼは彼女を睨みつけた。
「貴女が何を一人でこそこそしていたか、ここで問い詰めるつもりはありませんが……」
「ご心配なく。お姉さまに弓を引くようなことだけは、決していたしませんわ」
そう吐き捨てて、エリーゼはソファを立った。
「そうして父親を殺めて譲られた椅子を、せいぜいお姉さまのために役立てなさいな。私たちは、お姉さまが在るがゆえに生かされている。このこと、努々お忘れにならないよう……」
先刻の言い合いでの、負け惜しみ。そう取られてもおかしくないような物言いを捨て台詞代わりに、エリーゼは待合室から立ち去っていった。
無人になった部屋の中、テクラは床に転がる琥珀色の球体を見つけた。エリーゼがポーチから取り落としたものであろう、包み紙に収まったハチミツのキャンディだった。テクラはそれを拾い上げ、くりくりと指先で弄ぶ。エリーゼの去ったドアに目をやって、テクラは誰ともなく呟いた。
「不機嫌なところも……本当におかわいい人……」
自然と、手が左頬へとのびていく。エリーゼによって数年前に砕かれた頬骨は、幸いにもその貌に痣や歪みを遺すことなく完治している。指先が、まるでその時の痛みを懐かしむかのように皮膚をなぞる。
「あのひと……今日もぶってくれなかったな……」
ブルネットから覗くグレーの眼を想いながら、もどかしげにテクラは独り言ちた。




