ガーデルマン造反計画(2)
ラ・ヴィラ・プリュムは、半世紀前の開業以来、常に他国からの貴族や富裕層を迎え入れてきた、パリで最初のグランドホテルである。客室は約百七十に及び、そのうち国賓クラスの宿泊客に誂えられたスイートルームは二十室。社会党党大会を前日に控えたこの日は、パリ市内外を問わず、そのほとんどが満室となっていた。仮に部屋の予約を買い上げるとするなら、多額の予算が必要になるであろうことは想像に難くない。しかしながら、金銭感覚が庶民のそれと大きく異なるオスカー・ヴァイルブルク参事官は、いともたやすくホテルマンを袖の下で買収してしまっていた。
金の力で強引に部屋を手に入れたソロヴィヨフたちは、勇者ラウラの訪れを願って、じっと客室内で待ち続けていた。本来であれば一人で部屋で勇者を迎えるつもりだったが、部屋の奥のベッドでは、オスカー参事官がおどおどと震えていた。刻限が迫るにつれて、快活さを取り戻していたはずの瞳が、徐々にひどく不安なものへと変わっていく。
ベッドの脇には、彼の持参してきた大きなトランクが置かれている。
客室に入ってすぐのこと、ソロヴィヨフは中に何が入っているのか問うと、なぜかオスカーはトランク内を嬉々として披露し始めた。中身は、彼が愛用しているというハンティングライフル、そのパーツ一式であった。十三ミリ近いサイズの大口径弾を用いるオーダーメイド品らしく、狐や鳩を撃つには火力過剰が過ぎる代物だと、ソロヴィヨフは感じた。小動物など撃とうものなら、肉も骨も木っ端微塵になりかねないだろう。護身のために持ち込んだのだといい、先刻までは「自慢するわけではないが、国内の競技射撃ではそれなりに良い成績をおさめたのだ」「鳥や獣どころか、飛竜すら落としたこともある。無論自慢ではないが」といった真偽の定かでない自慢を意気揚々と垂れていたが、今のオスカーは借りてきた猫にすら威圧されかねないほどに委縮していた。確かに、決して安全とは言い切れない交渉、そして皇女拉致の作戦である。しかしながら、自分も何がしかの決意表明とやらをしないと示しがつかんだろう、とのことらしく、こうして現場に出張ってきたのだという。
どうせなら、その一握の戦意と一緒にまとまった人手も用意してほしかったところだが、極秘裏のガリア入国に際して彼と同伴できたのは、二人のヘルヴェチア人護衛だけであった。
彼に付き従う黒服の二人組が、国家安全局所属の警護官《SP》だという説明は受けたが、過度な期待はしない方がよさそうだった。第一、彼らの護衛対象はオスカー参事官であってソロヴィヨフではない。最悪の場合、ヴィルヘルミーナ皇女の護衛たちと撃ち合いにでもなったとしても、数的に圧倒的に不利であることには変わらない。確実に生き延びるためには、なんとしても、勇者ラウラにはあのメッセージの真意をくみ取って、このホテルまで来てもらわねばならないのだ。
ドアの前に置いたスツールに座り込んで、ソロヴィヨフはひたすらに来客を待った。腕時計は、午後九時五十分を過ぎた。約束の時間まで、十分を切った。ジャケットで隠した腰元の自動拳銃に意識を巡らせ、祈るような、そして縋るような思いでソロヴィヨフは待ち続けた。仮に彼らが時間通りに訪れたとして、ドアを開けたと同時に身柄を拘束されてはたまらない。協調の意はあるものの、自分の身を守ることを怠るわけにはいかなかった。
客室のドアが、三度ノックされた。どきりと心臓が跳ね上がり、ソロヴィヨフは慌ててスツールから立ち上がった。時計の時刻は、午後九時五十九分。やがて間もなく秒針が頂点を横切り、約束の時刻がしずかに到来した。反射的にドアアイに目を近づけようとしたが、目潰しを警戒して、やめた。
「誰だ」
我ながら情けなく思えるような震えた声で、訪問者に尋ねた。それに応じたのか、ドア前に立つ人間は、ドア板のアンダーカットから一枚の紙を挿しこんできた。見覚えのあるそれは、先日ソロヴィヨフ自らが投函した、ラウラ宛の手紙であった。
「フリュギア連邦陸軍第四軍団司令部少佐、およびブルクゼーレ義勇軍客員将校ジュゼッピーナ・ルッツァである。手紙をもとに、ここまで来た」
低くささくれだった、しかし理性を感じさせる怜悧な女性の声色が、そう名乗った。この声には聞き覚えがある。警戒するに越したことはないが、その記憶はソロヴィヨフに少々の安寧を抱かせるのに十分なものだった。
「貴公の指定通り、ラウラ・フォン・ベルギエンも同伴である。話をさせてもらいたい」
じっとりと、銃のグリップを握る手の中が汗で湿っている。ゆっくりと左手をサムターン錠に近づけ、そして開錠する。チェーンロックは、かかったままだ。おそるおそる、ソロヴィヨフはドアノブをひねった。
徐々に開かれていくドア板の隙間を注視していると、その足元へ勢いよく軍靴の爪先が突き込まれた。続いて固定されたドアの隙間から、黒光りするリボルバーの銃口がぬっと差し込まれた。撃鉄が起こされ、引き金を引くだけで銃弾が発射される状態である。ドア板の向こうから、さっきのルッツァ少佐の声が響いてきた。
「チェーンを外せ。ゆっくりとだ」
「わ、わかった、言う通りにする、だから、だから撃たないでくれ」
ぎらぎらとこちらを威嚇する銃口に言われるがまま、いそいそとチェーンロックを外し、改めてドアを開ける。高価そうな赤絨毯の上に仁王立ちする長身の女性士官が、そこに立っていた。服装は白のワイシャツに飾り気のない黒ネクタイと、実に簡素なものである。傍らには、派手なロリィタ・ファッションに身を包んだ、小柄な一人の少女。そのウェーブがかった深紅の頭髪を両の側頭部で結んだツインテールを、ソロヴィヨフが忘れるはずはなかった。
「ご無沙汰しております、ソロヴィヨフ中尉……今は、大尉でしたか」
「……本当に、来てくれたのか」
感極まったソロヴィヨフの言葉に、仮の姿のラウラは柔らかに笑みを向けた。
ソロヴィヨフが歓喜と感謝を伝えたい気持ちで胸を膨らませていると、それを察したらしいルッツァが、戒めの念を込めた冷ややかな口ぶりで、するどく釘を刺した。
「こうして再び対面できて光栄だが、エアフルトの時とは状況が異なる。我々が貴公らを完全に信用しているわけでないということは、重々承知しておいていただきたい」
「あ、ああ」
冷静な思考を取り戻し、ソロヴィヨフは銃の弾倉を外した。銃そのものもまた傍らの靴箱の上に置き、争う気がないことを示すべく、両手を肩の位置まで上げた。
二人の来訪者は室内へ入り込むと、足早に部屋の奥へと歩いていった。リビングルームのソファでだらだらと観光雑誌を読みふけっていたオスカーは、飛び上がって驚愕した。一通りの情けない弁明と言い訳を並べ立ててから、彼は来客へのせめてもの気遣いとして、二人の護衛に紅茶を淹れるよう指示した。それを半ば無視しながら、ラウラたちはダイニングの中央に置かれたテーブルの前に座り込むと、ソロヴィヨフにも着席を促してきた。茶飲話をしに来たわけではないとでも言いたげな表情で、ルッツァの金の眼光がソロヴィヨフを睨んでいた。
「二人だけ、なのか」
「なにか問題でも?」
「……これからやることがやることだ、人手は多い方がいい」
「仮に用意があったとしても、貴公にそれを話すことはできない」
申し訳なさげな表情ではあるが、ラウラもまたその考えに基づいているらしい。
「いや、いいんだ。そちらからすれば当然だろうからな」
そう言って、ソロヴィヨフはふたりの目の前に着席した。今はあの与太を書き連ねたとしか思えないような手紙を信用してくれただけでも、涙が出るほど嬉しかった。多少の疑念を抱くのは当然だ、むしろそれくらい警戒を強めていてくれている方が、ソロヴィヨフとしてはありがたいくらいだったからだ。
「単刀直入に伺います。皇女殿下は、どちらに」
再会の喜びもつかの間、一秒でも時間が惜しいとでも言わんばかりに、ラウラはそう切り込んだ。
「最上階のマスタースイートだ。ただ、モスクワの護衛が張り付いている。バトラーやコンシェルジュの類はいない、フロアにいるのは警護官だけだ」
「数の予想は?」
「ホテル側に話は通してあるとはいえ、そう頭数は多くない。ただ、五人で捌ききれるほど少なくもないと思う。多く見積もって、十二、三か……」
エリーゼから提供された護衛の状況を、ソロヴィヨフは応えた。参事官は頭数に入れるだけ無駄だと思い、とりあえずティーカップを配膳しにやってきた彼のボディガードだけは戦力として算定させてもらった。ソロヴィヨフの言葉を聞いたラウラは、横のルッツァと目配せしてから、言った。
「その程度であれば問題ありません。ありがとうございます」
「その程度って……」
「制圧は可能だ、と申し上げている。それ以上はお教えできない」
極力無駄口を叩かせようとしないルッツァの声が、ソロヴィヨフをぴしゃりと黙らせた。が、恐らくはこれがさっきの疑問に対する答えなのだろう。頭数の差を覆す何らかの策を事前に用意してあるという返答だけは、ソロヴィヨフはここで得られたわけである。
「……わかった。深くは聞かない」
「事情を察していただけると、幸いです。生憎、こちらも瀬戸際に立っているようなものですので」
ラウラの赤裸々な物言いに、ルッツァは渋い顔をして唇を噛んだ。
「だが、皇女をあなた達が押さえれば状況は変わる……そうだろう?」
「確約はできかねます。しかし、可能な限りの努力はいたします。同盟各国とモスクワの対立は、望むべくところでは決してありません。むろん、帝国との諍いもまた同じです。国籍や民族の差異で人が人を虐げることなど、あってはならないことだと、我々はそう思っています」
「我々の目的に共感するか、それとも理想論だと切り捨てるかは貴公次第だ。だが、こうした思想を有する我々としては、貴公にひとつ尋ねておかねばならないことがある」
ラウラから言葉を引き継いだルッツァが、ひときわ鋭くソロヴィヨフを見やった。
「リーハイムの虐殺は、貴公の差し金か?」
言い放ったルッツァの、そして傍らのラウラの瞳が、一瞬にして剣呑な気風を周囲に漂わせた。卓に置かれた紅茶のカップから揺蕩う湯気が、その圧力によってテーブルの天板を這わされているような錯覚すらソロヴィヨフは感じた。
「あの虐殺が起こって以来、我々は首謀者と思しき人間の捜査を続けている。しかしながら、この一件を探られては困る連中からの諸々の妨害によって、現時点ではその身柄を捕らえるには至っていない」
「あの事件に関して、ご存知のことがあれば……どんな些細なことでも構いません。教えてください」
返答如何によっては、ここでお前を八つ裂きにもしてやれるのだ。ラウラの表情は、柔和さを持ちながらも、そうした恫喝の意を孕んでいた。噴出しかかった怒気が、何層にも塗り固められた化粧下地やファンデーションの下で煮えくり返り、渦を巻いている。
「ヘレネ……ヘレネ・ヨーゼファ・オイゲーニェ・ゲルトルート・フォン・ヴィッテルスバッハ」
ソロヴィヨフの唇が、自然とその貴族の名前を呟いた。さながらそれは、懺悔室で告解する、良心に苛まれ続けた末に表情を失った罪人のようでもあった。
「ヘレネ……?」
「俺はあそこじゃ、ヘルヴェチアじゃ誰も殺してなんかいない。あいつが、ヘレネがやったんだ。あのドグサレのゲス女が、全部やった、あいつとあいつの舎弟が、全部!」
「ヴィッテルスバッハ……帝国の貴族、だというのか? あの女が……」
こちらへの情報開示を伏せていたとはいえ、やはりラウラたちも虐殺の首謀者に関しては、ある程度の目途はつけていたらしい。ルッツァの呟きからは、そう読み取れた。
「詳しくお聞かせ願えますか?」
ラウラのその一言に、ソロヴィヨフの暴露が、堰を切ったかのようにとめどなく流れ出した。レーゲンスブルクにおける都市戦のこと、所属していた大隊が孤立し、生き延びるためにはヘレネの甘言に身を任せねばならなかったこと、結局はヘレネの私怨を晴らすための片棒を担がされてしまっていたこと、すべては狡猾なハニートラップで帝国の各都市を陥落させていったこと。
その道すがらで非猿人種の集落に火を放ち、何度となく略奪を繰り返してきたこと。レーゲンスブルクでの密約によって生じた彼女との共犯関係を通し、その凶行を半ば黙認してしまっていたこと。この関係こそが、リーハイムの虐殺に繋がってしまったこと。そのすべてを、ソロヴィヨフは掠れた声色で語った。
「事実ならば気の毒だとは思うが……貴公の潔白を証明する材料とするには、聊か薄い」
「作り話にしては出来すぎている。モスクワの進軍経路と彼の証言が、符合しすぎている」
「しかし……」
ルッツァの抱いた当然の疑念を、しかしラウラはそれを諫めた。
「先ほども彼女が申し上げたように、まだボクたちは、あなたを信用することはできません。まずは皇女殿下をお迎えすることが、すべてにおいて優先されること。理解していただけますか」
「……わかってる。ただ、話を聞いてくれただけでも、少し気が楽になった」
ソロヴィヨフは簡潔に礼をすると、手元のカップに手を伸ばした。
「もう、たくさんだよ……」
くたびれた声で、ソロヴィヨフは言った。
まだ、何も終わっていない。戦争の結末がどう転ぶかなど未だわからないし、ヘレネは未だ野放しだ。自分の亡命だって成功するかどうか、結局はオスカー参事官の手腕にかかっている。それでも、しかしソロヴィヨフは、懺悔めいた告白によって、ほんの少しだけ救いを得たような気がしてならなかった。それがあまりに自己憐憫に終始した、陶酔めいたものであったとしても、この今だけは、自己批判の精神は鳴りを潜めていた。
ソロヴィヨフがうなだれながら紅茶を口に含むと、立ち上がったルッツァは客室のドアのもとへと歩いて行った。ドアが開閉される音がした。彼女がリビングへ戻ってくるとき、その足音は露骨に増えていた。その中には、鉄板や鎖帷子ががしゃがしゃ擦り合わせるような音までも混じっていた。
「それでは、参りましょうか」
リビングへとやってきた新たな来客の一人が、ソロヴィヨフの傍らで言った。か細くも芯の通ったソプラノだ。ソロヴィヨフは顔を上げ、来客の姿をまじまじと眺めた。
「お目にかかるのは二度目、でしょうか。ソロヴィヨフ大尉」
目の前で佇立していたのは、大柄で武骨なプレートアーマー。ひとりでに動いているところを見るに、それが噂に聞く凝魂人であることがわかった。
発言者は、その傍らで陰になって隠れていた。ルッツァ少佐と同じ、青い肌のフリュギア系の少女。数ヶ月前の夜半、ベルリンはリーツェンブルク宮殿の一室で、ソロヴィヨフはほんの一瞬、その顔を垣間見ていた。その日を境に、彼女の姿を新聞やラジオで見ない日はなくなってしまったのだが、やはりこうして実際に会ってみると、抱いていた印象よりもずっと華奢で儚げで、そして美麗に見えた。少なくとも、その双肩に地上すべての非猿人種の権利回復がかかっているとは、思えないほどに。
「アミル・カルカヴァン……」
黒曜の双角を彩る宝石類や冠、伝統的な意匠の凝らされた豪奢なローブ、波打つ金細工の施された王笏といったレガリアの類は、何一つ身に着けていない。その装いは、民衆の中に身を隠すためであろう、フード付きのコートの下は、飾り気の少ないシャツとベージュ地のスカートである。
にもかかわらず、その立ち居振る舞いや雰囲気からは、王たる者の血を引く高貴なる気風を、ソロヴィヨフは感じざるを得なかった。




