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嗤う女騎士  作者: カスミカ
セーヌの強欲ロビイスト
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パリ市諜報工作(3)

「やはり男性にしては、頭が回りますのね。大尉殿は」


「尻軽が。帝国の次は、モスクワを裏切るわけだ」


「大尉殿がご立派な愛国者であるなら、その誹りも甘んじて受け入れましょう」


 言って、エリーゼは手にした一枚の封筒をひらひらと見せつけた。見覚えのあるそれは、ソロヴィヨフがお守り代わりにジャケットへ忍ばせていた、辞表の収められた封筒だった。いつの間に抜き取られたのか、エリーゼはにんまりと口端をゆがめて笑った。


「か、返せッ」


 慌ててひったくった封筒には、中身がなかった。目の前の退職志願者があたふたするのを見るのがよほど愉快なのか、エリーゼは見せびらかすように辞表の紙切れをピラリと示した。


「三国同盟の舵取りをしているのは、言うまでもなくブリタニアですわ。そして、敗死しつつある帝国領というパイの取り分を最初に定めるのも、きっと同じ。モスクワは傀儡政府を創設する手筈だけは整えたものの、世論は依然として同盟側を支持している。リーハイムの一件でどちらの評価も焦げ付きましたが、魔王軍の被害者面の上手さは予定外でしたわね。このまま強気に出ていられるほど、モスクワの解放戦争とやらは支持を得られてはいない。近いうちに、本国はベルリン以東への撤兵を正式に下すでしょう」


「だが、お前らには新政権でのポストが確約されているはずだ。そのためにわざわざマニロフ中佐を抱き込んで、諸民族解放委員会《UBA》とやらを作らせたんだろう?」


「世論がこのまま魔王軍への斟酌に傾き続ければ、モスクワもダンマリを続けるわけにはいかなくなるでしょう。リーハイム事件に関するケジメを、必ずどこかにつけさせるはずですわ」


「お前らの自業自得だ。諦めて詰め腹のひとつふたつでも切ったらどうだ」


「あら。まさか大尉殿、事件発生時に同じくヘルヴェチアに駐留していたモスクワ士官が、その候補に上がらないとでもお思いでして? エラくなるというのは、そういうことでなくて?」


「俺が?」


「有名税というものですわね」


 ソロヴィヨフのこめかみから、一筋の冷や汗が流れた。


「モスクワは戦争に勝って、しかし勝負には負ける。魔王軍やブリタニアへのご機嫌取りのために、手ごろな何人かに腹を切らせて手打ちにする。この流れはおそらく規定路線でしょう、情報庁から背広組が直接出張ってきたのも、案外その人事査定のためかもしれませんわね」


 フラリと、ソロヴィヨフは足元をぐらつかせた。


「マジかよ。ははは」


 貧血のもたらす症状のようだった。粘土細工のように歪んで捻じ曲がる視界に惑わされながら、ゆらゆらと彼はテーブルの傍の椅子に腰を下ろした。


「なんなんだ、そりゃあ。冗談じゃねえぞ」


 ソロヴィヨフは、テーブルに置いた紙袋の中に手を突っ込んだ。中からリンゴのブランデーの瓶を取り出すと、虚ろな様子のままオープナーを手に、きりきりとコルク栓を抜き放った。ガブリとそれをあおって、瓶の中の四割ほどを飲み干した。袖で口元を拭ってから、ソロヴィヨフは悲痛に言葉をこぼした。


「死にたくねえな……死にたくねえ」


 それを口にしてから、嗚咽を漏らす間もなく死んでいったであろう部下たちのことを、ソロヴィヨフは連想した。誰もが断末魔に縁深い恋人や家族のことを瞼に浮かべながら凍土の上に臓物をぶちまけていったのだろうし、きっとソロヴィヨフも、そのように死んでいくのだろう。


「しかし大尉殿の場合、死んだ方がマシかもしれませんわよ」


 ソロヴィヨフは、応じなかった。悪趣味な罵倒めいた冗談かと思ったからだ。


「いえ、冗談ではなく。お忘れですか、大尉殿。大尉殿はいま、最前線で命を懸けて戦うモスクワ軍の英雄ではありませんか。そこらの雑兵とは命の価値も、影響力も段違いなのですよ」


 広報部を唆してこの状況を作った集団の一人は、いけしゃあしゃあと言い放った。


「当然、情報庁にもマークされていることでしょう。もちろん、大尉殿のご家族に関しても、例外ではない。お気の毒ですが、妹君からの手紙が届かなくなったのは、その証左かと」


「……」


 反論する気も起きなかった。否、反論の余地を見つけて声を荒げられるほど、ソロヴィヨフにはまともな覇気が残っていなかったのだ。お前らのせいだ、お前らが悪い、俺の前から消え失せろ。そう怒鳴りつけてやれれば、どれほど気が楽になっただろうか。しかしながら、この論法は使えない。なぜなら、この結果は目の前のゲス女たちが招いたものではないからだ。


 レーゲンスブルクでヘレネと密約を契ったのは、自分だ。


 悪いのは、ソロヴィヨフ(おれ)だ。ゆえに、消えるべきは自分であろう。


「こんなことになるなんて、想像できるわけねえだろ……」


「背広組の前での申し開きで、それを仰いますか?」


 万が一情状酌量の余地が認められたとして、長期間にわたる監視と軟禁からは逃れられまい。そしてそれは、妹たちや母に関しても同じことだ。


 置き場を失った両の手で頭を抱えて、ソロヴィヨフは呻いた。


「こうなってしまった以上は、死ぬか消えるかするほかありません。大尉殿も、私も」


「それで、残った手は亡命しかないって言いたいのか」


「ええ。我々は我々でケジメを付けて死んだ……そう見せかけでもしませんと。なに、いかにガリアやブリタニアとて、命までは取りませんでしょう。命あっての物種ですわ。生きてさえいれば、ご家族ともいつかきっとお会いできます。違いまして?」


 聞こえのいい言葉を並べ立ててはいるが、ソロヴィヨフには救いの文言には思えなかった。しかしながら、エリーゼの発言はいちいちもっともであった。彼女からの誘いに対して、彼が首を縦に振るのは、間もなくのことだった。


「協力していただけるようで、何よりですわ」


 静かに喜びの意を示すと、続いてエリーゼは、会わせたい人間がいると口にした。音もなくソロヴィヨフの部屋から出ていくと、数分もしないうちに、ある男を伴って彼女は戻ってきた。


 仕立ての良いスーツ姿の、ヘルヴェチア系の男。どことなく怯えを孕んだ瞳を眼鏡の奥に宿すエルフに、ソロヴィヨフは覚えがあった。


「オスカー、参事官……」


「どうも。何日ぶりかな」


 ヘルヴェチアのホテルで中隊各員を一ヶ月にわたって手厚く迎えてくれたオスカー・ヴァイルブルクの姿が、そこにはあった。


「協力するにあたって、こちらのオスカー氏の希望も汲んだうえで、行動に移りたいと考えておりますの」


「希望、だと?」


 エリーゼは、灰色の双眼でじろりとオスカーの顔をねめつけた。オスカーは身震いして、しどろもどろながら、自らの境遇は滔々と告白し始めた。ヘレネたち修道騎士団との麻薬や銃器を通した黒い関係、兄であるオーギュストの倒錯した加虐嗜好と、それに関する彼との密約、その標的にヘレネを据えたところ、手痛いしっぺ返しを食らわされてしまったこと。


 すべてを聞き終えてソロヴィヨフが抱いたのは、「ろくでもねえ兄弟だ」という感情だった。


「我々にも、その……体裁というものがあるんですよ、大尉」


「体裁とは?」


「……兄が姿を消し、末の弟は一三〇年目の春に浮かれている始末だ。それもモスクワの外様の女相手に……いや、もとは帝国だったか。ともかく、なんとかメンツを整えないとこちらとしてもまずいというか……」


 口淀むオスカーに代わって、エリーゼが端的に説明した。


「ブリタニアを相手に本格的に商売するにあたって、後顧の憂いを絶ちたいということです。このままお姉さまにやられっぱなしでは、信用問題になりかねない。沽券にかかわる」


 ポイントは、永世中立を謳うヘルヴェチアもまた、三国同盟の側に与する勢力のひとつだということだ。一連の不祥事をもとに、大口の顧客であるブリタニアから物言いがついてはたまらない。万一取引を反故にされてしまえば、動脈からの大出血は免れまい。もうすでに飛竜騎兵用の器具の増産態勢に入ってしまっている以上、今更各地の工場に待ったをかけるわけにはいかないのである。


 しかしながら、魔王軍との窓口を担当していた外務省のオーギュストが醜聞をこじらせて死んだとなれば、内外からの風当たりが強くなるのは自明の理。東西の大国を股にかけるヘルヴェチアにすれば、大きな外交問題にも発展しかねないわけだ。何しろオスカーは国防に携わる官僚である、その身に圧し掛かる責任は相応に重かった。


 そこで彼が望んだのが、両国間との現状維持であった。リーハイムの虐殺には、改めてヘルヴェチア側からも追求を行う。可能であれば、その首謀者ヘレネの身柄を確保し、然るべき場で彼女を裁く。モスクワは彼女の率いていた委員会(UBA)の所業を殊更に糾弾することで尻尾切りに利用できるし、ヘルヴェチアとしてもブリタニアへの潔白と国際的な誠実さを証明できるというわけだ。


 ヘレネからの離反を企てるエリーゼからの接触は、渡りに船といったところであった。


 ヘレネの首を手土産に、オスカーらヘルヴェチアは国際社会における信用を回復させ、彼らからの支援と保護の口利きを受けたソロヴィヨフとエリーゼは、無事にそれぞれの亡命を成功させる。これが、エリーゼの持ち掛けた計画の概観であった。


「わ、私に異存はない。こちらのメンツが維持できるのなら、亡命者が一人二人増えたって構いやしない……むろん、それなりの態度を示してもらったうえであればの話だが」


 卑屈な瞳をレンズの向こうで蠢かせながら、オスカーはソロヴィヨフの赤ら顔に視線を向けた。背水の陣を敷くもの同士の信頼関係を確認しようというのだろうが、その真意にやくざな打算が含まれていることを、そしてエリーゼとは対等ではないことすらも、彼は隠そうともしていなかった。あるいは、隠しようもないほどに追い詰められているということか。


「態度っていうのは、具体的には何を指すんだ」


「実際にその身でお姉さまに弓引く意志を見せてみろ、ということですわ」


 エリーゼの冷静な補足に、オスカーはぶんぶんと首を縦に振った。


「それを言うなら、あの女の信奉者が一番信頼できないんじゃないのか」


 ソロヴィヨフの指摘に、オスカーは木陰に隠れるげっ歯類のごとくに縮み上がった。


「どうなんだ。気づいた時には、俺や参事官閣下の首があの糞女の足元に転がってるなんてのはごめんだぞ」


「か、彼女は……その……」


「娼婦として、ブリタニア軍の士官と接触いたします。ここガリアにも、ヘルヴェチアの高級娼館メゾン・クローズは点在しておりますわ。そこに属する娼婦たちに交じって、あちらとのコネクションを構築いたします」


「体を売るのか」


「ルプブルクでは日常茶飯事でしたわ。男性にも……フクク、不可能な手ではないでしょうが」


 毛ほどの躊躇を見せず、エリーゼはそう言い放った。


 政府公認の高級娼館であれば、軍人や国賓の社交場として利用されることも少なくない。また士官としての高等教育を受けたエリーゼであれば、その場に相応しい教養も身についていると考えていいだろう。ヘルヴェチア側からの働きかけでブリタニア軍を招き、そこでエリーゼは彼らと接触するという手筈なのだろう。


 オスカーとエリーゼ側の手土産は、リーハイム虐殺の真実というスキャンダルだ。フリュギアによる人種間平等政策の正当性の後押しとなってしまう部分もある計画ではあるが、オスカーらヘルヴェチアにしてみれば、ガリア内での既得権益の保全が優先である。非合法組織とのイレギュラーな密輸業は、対外的なメンツを何より信頼として重視する。国内で外様のモスクワ軍、ならびに帝国の騎士団に不祥事を起こされたままでは、今後の商売の在り様にも関わってくるというわけだ。事件当事者たるエリーゼを経由した告発によって三国同盟を後背につけ、ヘルヴェチアの保身を狙うというのが、オスカーの最終的な目的だといえた。


 計画にあたって差し出すものがものだけに、オスカーはエリーゼを信頼したのであろう。麻薬売買に携わっているとはいえ、戒律を胸に抱いて生きることを定めた修道騎士だ。そんな彼女が操を擲つことを、殊更にオスカーは不退転の決意の表明として受け取ったのだろう。


 しかしながらソロヴィヨフには、どうもこの女が完全にヘレネを見限ったようには思えずにいた。たとえ見知らぬ男を相手に春を鬻いだところで、このエリーゼならば素知らぬ顔でヘレネの足元に傅くだろう。アルコールでぼやけた思考ながら、ソロヴィヨフはそう訝しんだ。


「それで、大尉殿はどうされますか?」


 ちらりとエリーゼはソロヴィヨフを見やった。現実的に今のソロヴィヨフを受け入れてくれそうなのは、自由主義的気風が台頭しつつあるガリア政府であろう。だとすれば、エリーゼと同じく、彼らに好意的に受け入れられるような手土産を、やはり用意する必要がある。


「ヴィルヘルミーナ皇女殿下……か?」


「フクク……」


 エリーゼは肯定の意で、景気の悪そうなにやつきをソロヴィヨフに向けた。


「仮に皇女殿下の身柄を同盟側に引き渡すことができれば、きっと重役待遇で迎えてくれましょう。政治的な価値は、今や皇帝のザイリンゼル三世陛下よりも上と考えてよいでしょうし」


「だが居場所がわからないぞ。皇女殿下の護衛は、すべて情報庁の背広組に一任されていたはずだ、パリ市内にいることは確かだが、どのホテルを選んだかなんて」


「第十六区マラコフ通り一三四番地、ラ・ヴィラ・プリュムのマスタースイートルーム。情報庁の警護官も、同ホテル内に宿泊しておりますわ」


 やはり連中は独自に情報庁と繋がっていたらしい。皇女の所在をソロヴィヨフ隊に回さなかったことには、もはや悪びれる様子すらなさそうであった。


「護衛の配置に関しては、私からお伝えすることができます。隙をついての拉致は十分に可能といえるでしょう。くれぐれも、殿下の玉体に疵のひとつでもつけることのないように……」


「わかってるよ、お前なんかに言われなくたって……」


 ソロヴィヨフは幾度目かの自嘲で口元を曲げて、額を指で押さえた。あれよあれよという間に、皇族誘拐の常習犯となりつつある非現実的な事実を、一度の深呼吸で嚥下しきることはできそうになかった。しかもこれに乗ってしまえば、完全にモスクワ政府を敵に回すこととなる。いかに同盟やヘルヴェチア側の公的な口利きがあろうとも、合法な手段で故郷の土を踏むことは、恐らく不可能になるだろう。


「……拉致は十分に可能とは簡単に言うがな。俺の勝手な私事に、部下は巻き込めないぞ」


「誰が大尉殿の部下に参加してもらうと言いました?」


「なんだと?」


 エリーゼはポーチの中から三通の封筒を取り出し、それをソロヴィヨフの前に差し出した。


 ラウラ・フォン・ベルギエンの名が、差出人として記されていた。


「バカな、こんな……嘘だろう、あのフリュギアの勇者が、俺に……?」


「最初はエアフルトを発った直後……その次はベルリン陥落後。そして最後の一通は、リーハイムの一件のすぐ後、でしたでしょうか。ヘルヴェチアの郵政公社を経由してパタノフ大隊宛てに届いたものが、再び大尉殿の当時の任地であるヘルヴェチアに戻ってきたかたちとなりますわね」


「お前が書いたものじゃないって、証拠でもあるのか」


「さすがの私でも、ブルクゼーレ軍の押印まで再現することなんてできませんわ」


 しゃあしゃあと語るこの女の言うことを信じるにしても、今の今までラウラからの接触を隠蔽し続けてきたというわけだ。考えてみれば、モスクワが関与したとされる虐殺事件を捜査するにあたって、彼女らが面識あるソロヴィヨフに連絡を送るのは、さほどおかしなこととは言えなかった。


 三通のうち、もっとも新しい封筒の中の手紙には、リーハイム虐殺への遺憾の意と、ソロヴィヨフ本人の関与についてを問いただすような文面が書かれていた。その几帳面な筆跡と文体は、しかし執拗にソロヴィヨフ個人に責を求め、殊更にこれを糾弾するようなものではなかった。社交辞令めいた語句の数々ではあったが、しかしながらソロヴィヨフは、これに安堵にも似た感情を想起させていた。


「勇者ラウラの手に、ヴィルヘルミーナ皇女殿下を委ねる。同盟としてはこれ以上ない天恵でしょう、臨時政府の樹立をリスクなく阻むことができるのですから。それに世論の勇者信仰のチカラを借りれば、あなた一人の身の安全くらい、おつりがくるというものでしょう」


 ソロヴィヨフはエリーゼの言葉を半ば聞き流しながら、ラウラからの文に目を走らせていた。文面の最後には返信先の住所として、パリ市内の郵便局が指定されていた。


 相手に対話の用意がある。ソロヴィヨフにとっては、涙が出るほど嬉しい事実であった。


 ソロヴィヨフは立ち上がり、ベッドに広げた自分の荷物から筆記用具の一式を手にした。愛用品の万年筆を手に便箋を前にし、真剣なまなざしでラウラへの返信を書き始めた。


「協力してくださる、という解釈で……よろしいんですのね。フクク、フクククッ……」


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