あなたの人生が、愛と祝福に満たされていますように(2)
それは何のことはない、帝国の片隅で起こった痴情の縺れに起因する出来事であった。
ある伯爵夫人が子を産んだ。四年おきに子を孕み、三人目がこの世に生まれると同時に、当主である伯爵が急逝した。女は白痴も同然で学もなく、家督を継ぐことは不可能だった。また三人の子はみな女で、長女ときたら、母親と同じで白痴の疑いがあったからだ。
やむを得ず、長姉と末妹はそれぞれ遠縁の家へと貰われていった。
女とその二女はというと、領地の近隣に住まう伯爵の甥、男爵閣下の家へと迎え入れられた。伯爵と似て男爵は温厚で、篤信に熱い男性であった。
しかし夫人の美貌を前にすると、たちまち彼の纏っていた紳士の仮面は剥ぎ取られ、同居して実にひと月もすれば、褥を同じくするまでに至っているのであった。
ところが、女は白痴といえどもその本心は死んだ夫に後ろ髪を引かれていた。そのことに感づかぬほど男爵は鈍感ではなく、しかしこれを無理やり力で従わせることも良しとはしなかった。叔父へのコンプレックスと、女への憧憬が混ざり合い、快活だった男爵は鬱屈した日々を過ごすようになった。
懊悩の迷宮へ迷い込んだのは、女も同じであった。
二女は、当然ながらすくすくと成長していった。いつしか彼女が自身の面影を宿した濃艶なる相貌の萌芽を醸し出すようになると、女は得も言われぬ不安感に苛まれるようになった。今までそんな懸念を抱くほどに成熟していなかったはずの女の精神が、嫉妬と恐怖という感情を発するようになったのである。美しいという理由だけで貴族からの寵愛を受けてきた自分よりもさらに美しい娘の存在は、彼女にとって邪魔でしかない。だが、その考えが頭をかすめたからと言って、即座に娘の首をへし折るようなことはできなかった。
二女が六歳を迎えると、すっかり塞ぎ込むようになった女は従者たちに命じた。娘を尖塔の部屋から出すな。この世界に、わたしはふたりと要らぬ。男爵も、これを二つ返事で了解してしまった。彼もまた、娘に対して成人女性と同等の劣情を抱いてしまうことに自己嫌悪と内罰の情を抱いていたからに他ならない。
しかし娘を隔離したとて、女の心が晴れやかになることはなかった。真っ当な母親としての情から手紙を綴るたび、彼女はみずからのうちに眠る憎悪と妬みの奔流に引き裂かれた。日を追うごとに女は他者と関わらなくなっていき、ついには居もしない聴衆やありもしない罵詈雑言を耳にするようになり、周囲からも狂人のレッテルを貼られるまでに至った。
女の精神に劇的な改善が現れることなく、それからまたも時が流れた。
大勢いた使用人は一人、また一人と館を去っていった。人手不足から、尖塔へ足を運ぶ者も少なくなる。哀れに思った警護の兵が直接ヴェールの君への食事を用意し、配膳までを賄うまでになっていた。
自らの業務の傍らで女を介護していた男爵にもまた、破滅の時が訪れる。
切欠は、少なくなった使用人たちの間でまことしやかに囁かれだした、根も葉もない噂であった。曰く、男爵は萎みゆく愛人に見切りをつけて、あのヴェールの君のもとに毎夜通っていらっしゃるのだ。尖塔には、もうすでに男爵の子を身籠った姫君が暮らしているのだ……
その噂が男爵の耳に入ると、彼は館へ戻るなり、目に留まった侍女の一人を絞め殺した。続いて洗濯場で屯す女たちを次々に手にかけ、最後には心を病んだ伯爵夫人のもとへとやってきた。男爵は女たちの返り血を潤滑油としながら、緩んだ肢体を犯し尽くした。娘の放つ高貴なる美から逃れたい一心で、彼はけだもののように腰を振ったのだ。気のふれた男爵がなぜ尖塔の部屋へと向かわなかったのかは、本人にもわからなかったはずである。最期に残った一握の正気が彼をそうさせたのかは定かではないが、かくして館の住人は惨劇によって死に絶えた。
ただひとり生き残った尖塔の少女だけが、外の世界へと脱することができたのである。
『あなたの人生の旅路が、愛と祝福に満たされていますように』
しかし、今まで少女に与えられていた環境は、果たして愛と祝福に足るような思慮の表れと言えただろうか。否。断じて否である。彼女が否と断じたのだから否なのであろう。
こんなにも美しいわたしを、あんな薄汚い小部屋に閉じ込めて、一体何がしたかったのかしら。自分たちがあんなに醜いから、それでわたしにあんな仕打ちをしたというの? それ以外に考えられない。外面が醜いと、内面までそうなってしまうのね。
魔物。魔物。魔物魔物。魔物魔物魔物。世の中どこもかしこも魔物で溢れている。
楽しくて、面白くて、きれいで、おいしくて、こんなにも美しいはずのこの世界に、どうして不釣り合いにもほどがある人間もどきが跋扈してしまっているのか。おぞましい、いたましい、こんな理不尽なことがあるか?
人と魔族が争っていた? だからどうした。
その末で勇者と魔王が手を取り合った? ふざけるな、最後までやりあえ。
わたし以外は等しく魔物だろうが。勝手に人間の範囲を広げるな。
わたしは生きるぞ、愛と祝福に彩られた、在るべき人間の人生を。
二度と卑しい異常者どもに、魔物ふぜいに、わたしの自由を奪われてたまるものか。
わたしは自由だ。わたしの自由を、誰にも奪わせてなるものか。
亡びて消えろ、地を這い腐れ。負けて死ぬのはお前らだ。二度と洞から出てくるな。
この黄金比の満ちた世界を正しく享受できるのは、私をおいて他にないのだから。




