ヴァイルブルク・スキャンダル(2)
修道騎士テクラ・クラカウは、人を殴るのが好きな女である。
どちらかといえば温厚であり、普段は虫も殺せぬ気性の彼女は、大柄な人種的形質とは裏腹に、繊細で柔和な性格の持ち主である。しかしどうにも、有角人種に付きまとう北方の人食い巨人なる差別的ステロタイプの示す性質は、確かに彼女の性癖の奥深くに根差しているらしかった。犬ではダメだ。猫でも足りぬ。豚でも牛でも羊でも、鳥でもダメだ。人間だけが、テクラのもとへ唐突に襲い来る無根拠な渇望を満たしてくれるのだ。
最初に彼女の拳に殴り潰されたのは、路上の片隅でプラカードを抱えて壁にもたれる中年の男であった。当時のガリアは、時の帝国宰相クリゾルトの辣腕によって故意に引き起こされた国家間対立で疲弊しており、国家運営を担う旧王党派への不満が国内に蔓延していた。経済的な逼塞や一部国民衛兵の暴徒化なども相まって、治安機能が一時的に麻痺していた時期だった。
男はきっと、経済恐慌の余波を食らって職にあぶれた失業者の一人だったのだろう。彼は小学校からの帰路を歩くテクラを上目に見つめ、恨みがましく呪詛を吐きつけた。公衆の往来ではあるが、彼のような人間は道のそこここに溢れていた。誰もが彼らをいないものとして目を反らす中で、偶然テクラの視線が彼らのそれと交差してしまったのだ。
男の不明瞭な一喝で、一緒に並んで歩いていた同級生は、竦み上がって動けなくなっていた。テクラもまた、影を射抜かれたように立ち尽くした。男の恨み節は、テクラの属する人種や信仰に対して憎悪を向け、さらにはテクラのような移民が増えたから、ガリアはここまで落ちぶれたのだと吐き散らかした。やがて男の憤りは、テクラを取り巻く少女たちの方にも向く。彼女たちの比較的恵まれた着衣と境遇を男は見透かしたのか、いよいよ彼は一人の少女の襟首を掴み上げて喚きだした。
まア、まア、どうしましょう。なんてこと、どうしてこんなひどいことを。
警邏の巡査はおられないのかしら、憲兵さんの姿もみえないわ。
まア、まア、どうしましょう。いったい私はどうしたらいいの。
おろおろしだした少女たちを尻目に、気づけばテクラは襟を握る男の手首を掴み上げていた。ほんのちょっぴり抗議の意を示すためだけに行われたその行為は、いともたやすく男の手根骨をへし折った。長葱を中央から折ったようなくぐもった水音がしてから、男は喉笛からだみ声を絞り出して呻いた。その隙にテクラたちはそそくさと逃げ去っていったのだが、テクラの耳元には、男から発される苦悶の声が耳にこびりついて離れなかった。
その日の夜、テクラは初めて父の言いつけを破り、夜間の外出を決行した。使用人のコートを纏ってやってきたそこは、つい先刻自分たちに絡んできた男たちが屯す通りであった。粗末なムシロに巻かれて眠る浮浪者たちを一瞥すると、比較的簡単にさっきの男は見つけられた。折れた腕はそのままに投げ出され、眉間に皺を寄せながら歯ぎしりしていた。
テクラは下腹が熱くなるのを感じていた。月経を迎えて間もない彼女が、産まれて初めて感じる甘い快楽の先鋭。彼の発した低い悲鳴は、テクラに根付いていた被虐の癖を逆撫でし、社会通念において遥か昔に卑俗とされた原初的な本能を呼び起こした。性別・種族、老若男女を問わずして、その癖というのは至極単純なもの。
圧倒的な強者として振舞うことへの悦楽である。
もちろん手を出したことに関しては、テクラなりの正当化が働いていることは言うまでもない。友人の危機を救うため、不当に貶されたクラカウの家系の名誉を守るため。そこには確かに義憤の念が入り混じっていたことは確かなのだが、わざわざ男一人痛めつけるのに家を飛び出すという凶行に対する言い訳など、幼いテクラは持ち合わせていなかった。
二次性徴期にあった少女が、衝動と葛藤を押さえつけられるほどの理性を有しているはずがなかった。いかに彼女が貞淑で温厚だとしても、あのとき手のひらから伝わってきた人体破壊の感触を数時間で拭い去ることなど、到底不可能だった。
人を傷つけるのはよくないこと。右の頬を張られたら、左の頬を差し出さねばならない。そんな社会秩序と人間関係を円滑にするための道徳的方便に、さながら泥を塗り付けるような背徳的暴行。自分は確かに、神を奉じるだけでは得ることのできない、暖かで穏やかな闇の中に居るという実感が得られた。多感なテクラの感性は、義憤に任せた権利回復という名の暴力の虜囚と化していたのだ。
男の体に馬乗りになると、醜く弛んで汚れた寝顔に拳を振り下ろす。有角人種の皮膚や拳の前では、猿人の頭骨など何の気休めにもならない。飴細工も同然に頬骨を粉砕された男は、次なる一撃によってふたたび意識を失った。鼻だった箇所に空いている孔から、放物線を描いて噴き上がる鮮血がテクラの頬を濡らした。それから顔面がリゾット状に撹拌されるまで、彼が再び呻き以外の声をあげることはなかった。
続いて彼女の犠牲となったのは、父親が雇っていた使用人の一人であった。
彼女と同じ有角人の中年男だ。人種にしてはやや小柄で、小太りの男だった。テクラが三つのころから屋敷で働くようになり、お世辞にも表情豊かとはいえないその振る舞いから、彼女は理由なく彼を忌避していた。時たま侍女と控室でまぐわっていたり、火の点いた葉巻をそのまま邸内に遺棄してボヤを起こしたり、そして不祥事の数々を下働きの少年少女に擦り付けたりと、お世辞にも誠実な人間とは言い難かった。主人であるテクラの父から預かった出納簿の一部を改竄し、私腹を肥やしているといった噂が邸内に流れ出すと、彼は噂の出処として有力と思しきメイドのうち一人を折檻した。
その話を耳にしたテクラは、淑女の仮面を顔に貼り付けたまま、嬉々として彼の私室へと向かった。雇い主の娘を何の疑いもなく室内へ招き入れた彼は、無防備な左頬に強烈なフックを叩き込まれ、そのまま昏倒した。絨毯の上に仰向けになって白目をむき、痙攣する男の姿を見てテクラが思ったのは、『なんて美味しそうなのかしら』といった感情だった。悦び勇んで、彼女は馬乗りになって男を殴り始めた。
当然ながら、その暴行は父の知るところとなった。状況からしてテクラが一方的に責められることはなかったにせよ、人が一人死んでいる。ここでいかにテクラが男から性的なハラスメントを受けていたといった狂言を口にしたとて、この直後に父が決断したことは覆らなかったはずだ。結果として、テクラは父と繋がりのある帝国のルプブルク修道院へと預けられる運びとなった。
表向きには、今回の一件で心的外傷を負ったであろうテクラを、神の膝元において聖別奉献を通し、その心を癒し清めるため。しかし公職に就いていた父には、自身の心証を害しかねない問題にかかずらったテクラを遠ざけてしまいたいという目論見もあったのだろう。
仮に一時的な措置であれ、不祥事を理由に娘を国外への島流しにした事実は、歴として残ってしまった。互いが納得の上での結果とはいえ、テクラは父との関係の変化を悲しみ、自身の性癖を呪った。
しかしあるいは修道院での生活であれば、この屈折した自分の癖は洗い清められるのではないだろうか。そんな一縷の望みを燻ぶらせながら、テクラはルプブルクの住人となった。
学問に堪能なテクラは流暢な帝国古語を駆使して、瞬く間に院内で一目置かれる存在となっていた。農作業においても並の男手以上に活躍し、尼僧たちからの信頼を得ていた。父の包んだ持参金の額であれば免除されるであろう作業にも、すすんで参加した。
しかし、帝国において非猿人種であるということは、それだけで大罪である。ガリアからの移民、しかも二等市民ともなれば、存在そのものが好ましからざるものといって差し支えない。そんな風潮は、修道院内外に漂っていた。慈善活動の一環で街へ繰り出せば、当然長身のテクラは目立つ。そのせいか、罵倒に混じって石を投げられることも少なくない。院内生活であればともかく、敷地外でテクラと活動を共にする女たちは、みるみるうちに減っていった。
修道院の有する騎士団が、周辺を支配するパルスベルク侯爵と昵懇の関係にあるとはいえ、それ以上にテクラはガリア人である。ふたつの強大な権力の庇護下にあったとしても、彼女に対する偏見に端を発した排他的な対応は、ついぞ止むことはなかった。しかしテクラは、人々に対して祈ることをやめなかったし、施しを求める人々には分け隔てを設けることなく、若い修道女としての務めをきちんと果たしていた。欲求を発散する機会には、いくらでも恵まれていたからである。
それはひとえに、帝国の地方都市の治安機能がガリア以上に低劣だったからに他ならない。つまりは、獲物を吟味し放題ということである。帝国で誓願を立てたテクラは、決して自分からは手を出さなかった。あくまで獲物があちらからやってくるのを期待して、彼女は罵詈や投石を甘んじて受け入れていた。劣悪な二等市民を厭う集団があったとしても、独りでいるところを狙ってしまえば、懐柔してしまうのはたやすい。基本的に下手に出るのは苦ではないし、そもそもまっとうな奉仕活動に喜びを感じるというのは嘘ではない。一方で帝国にやってきてからは、欲求不満を解消するべく立場と境遇を利用する行為は、みるみる上達していった。
男の劣情を煽り、扇情的に異性を誘う物言いも覚えた。成り行きで、処女もそのとき失った。
すべては、生まれ持った難儀な癖を充足させるためだ。常人が命を繋ぐために何かを食べ、八時間の睡眠を欲するように、テクラは誰かを撲殺しないと生きられない。皮肉にも、父が治癒と洗礼を願ってテクラに与えた場は、これ以上なく彼女の捕食に適した環境だったのである。
一時の快感で男を誘っては、夜な夜なその頭を殴り潰す。尼僧のかぶる黒のヴェールを弱者の証だと決め込んだ男が、殴打の応酬で徐々に弱弱しく従順になっていく一連の流れは、テクラにとっては極上のカタルシスをもたらす物語性の表れにほかならない。一度、口さがない金貸しの女を殺したこともあるが、肉付きが薄いし骨も脆いので、かえって飢えが強まってしまった。殺すなら男だ、できるだけ逞しい異性に限る。テクラは、殴られるのも好きなのだ。返す刀でしたたかこちらに殴りかかってくる屈強な鉱夫や軍人などはたまらない。原亜エルフの不良下士官の反撃に遭って首を絞めあげられたときには、めくるめく快楽の銀河が視界に広がった。
そうして死体とともに空き家で一夜を明かしてから、ようやくテクラは我に返るのである。これで最後にしなければと、自制に自制を重ねるものの、次の満月の夜には下腹部に粘り気のある欲望がたっぷりと貯まりきってしまっている。殴りたい、砕きたい、返り血を握り締めて殺したい。持て余し気味の衝動を抱えながら、テクラは修道院での日々を過ごしていった。
とある夜。その日も行われていたテクラの殺人は、あろうことか彼女を庇護する修道騎士団の手の者に目撃されてしまった。その日の現場は、四人を殺すのに用いた集合住宅の一室。獲物の堪能と解体をいっぺんに済まそうと、長時間を一か所に留まりすぎたのが仇になったらしかった。後に聞いた話によれば、隣室と上階に滞在していた不法移民や浮浪者が被害者のうめき声を不審に思って通報したのだという。
一通りの行為を終え、死体とともにベッド上で恍惚に耽溺していたテクラは、突然の闖入者に対して脳髄に氷塊を当てられたかのように冷え渡った。蝶番を蹴破って入室してきた修道騎士は、テクラの裏の顔に負けず劣らず乱暴であった。やってきた二人の騎士は、どちらも女性である。ドアを破壊したのは、切れ長の眼の奥にグレーの虹彩を光らせる、ブルネットの少女。もう一人は、暗がりでありながらも月光を受けて煌びやかに輝くブロンドの美しい、凄艶なる麗人であった。
「あなたは……」
ブルネットの女騎士はテクラを見るなり、その面識を認めた。金髪の騎士は、眉をひそめてハンカチで鼻を覆った。汚物を睥睨するアイスブルーの瞳に射抜かれて、テクラは無性に居た堪れない気持ちになった。父親に失望を抱かれるよりも深い落胆を覚えたのは、初めてだった。
「言い逃れは結構。我々が探しているのは殺人の常習犯。見る限り現行犯ですわね」
ブルネットの騎士は、感情を込めず冷徹に言い渡した。彼女の口にする客観的な自分の評価に、テクラは心底震えあがった。絶頂からシラフへの急転直下。転落する感情の乱高下に、テクラは目を白黒させた。
まア、まア、どうしましょう。いったい私はどうしたらいいの。
どうしていいかわからない。殺人の常習犯。また父に迷惑をかけてしまう。
まア、まア、どうしましょう。いったい私はどうしたらいいの。
ブルネットの騎士が歩み寄ってくる。むろん、テクラを制圧するために。彼女の白い手指がテクラの腕をひねり上げるよりも早く、テクラは拳を騎士に向けて叩きつけていた。その感触は、そこらの女とは違っていた。肉が、骨が、ひしゃげない。彼女の頭部を支える頸と体幹の壮健さは、男にも勝るとも劣らない。やや態勢を崩しただけで、その様子は昏倒には程遠い。電光石火の先手にも怯まない騎士は黒髪を振り乱し、右に傾いた重心を一気に左へひねり込み、勢いをつけた上段蹴りをテクラの頭部に撃ち込んだ。受け身も取れずに、テクラはそのまま倒れ込んだ。反対側の頭部を床に打ちつけられ、テクラの癖毛は裂けた頭皮からの出血で赤く染まった。ブルネットの騎士はテクラの傍らにしゃがみ込むと、ベージュの髪を無造作に掴み上げた。
「この雌豚が、なめたマネしてくれますわね」
切れた唇で口元を赤く染めながら、騎士は耳元でそう呟いた。朦朧とするテクラにその言葉が届いているかなどに構わず、彼女はテクラの頭を床に叩きつけ、そして顔を殴りつけた。何度も。何度も。何度も、テクラが意識を手放すまで。




