ヴァイルブルク・スキャンダル(1)
「彼女はそうしてつつましく館での生活を享受していましたが、ある日突然彼女のもとに強盗が押し入ってきました。強盗は彼女の両親を残忍に殺し、ついにはその凶刃は少女にまで迫りました。しかし、間一髪で強盗は駆け付けた警察官によって射殺されました。館で助かったのは、従者の血だまりでうずくまる少女だけ……」
ヘレネが小話をそうして結ぶと、琥珀色の液体が注がれたグラスの氷が音を立てた。
「ずいぶん唐突ですね。帝国では強盗が畑でとれるのですか」
ランプの置かれたテーブルを挟んで座るオーギュストが茶化した。
「もっとも、人生なんぞで唐突でない出来事なんて、何一つないでしょうが」
「貧富の差に関してはどこよりも激しいもの。兵を連れてなければ、どんな貴族も賊にとっては足の生えた財布にすぎません。そんなに珍しい話でもありませんわ」
余所行きの口調で、ヘレネは柔和に応じてみせた。初対面、しかも相手はヘルヴェチア外務省の参事官である。いかにオスカー・ヴァイルブルクの縁者とて、邪険に扱って余計な反感を抱かせても仕方がない。内心では七面倒くさくてたまらないが、ヘレネは営業用の淑女を演じながら、こうして下心を小脇に抱えてやってきたであろう男の相手をしているのである。
元来の気質として男を好かないヘレネではあるが、高価なブランデーを献上品として携えて訪ねてくるのであれば、無碍に叩き帰すのも損であろう。
「しかし、塔の頂上に幽閉される少女というのは、なかなか突飛でありながらロマンティックな話に思えます。童話の姫君のようだ。そこに白馬の王子が登場する予定は?」
「残念ながらその予定はありませんわ。彼女はきっと興味がありませんもの」
「経験したことのないことを味わうのも、世界に満ちる愛と祝福の再確認になりましょう」
オーギュストの流し目がヘレネの相貌を捉える。長い金褐色の睫毛が飾る瞳には、今なお野心と精力が爛々と滾っているようであった。
「まさかオーギュスト様、今の話がノンフィクションだとお思いですの?」
白い顎先に指をあて、ヘレネは微笑んだ。
「そっくりそのまま、この私の身の上だとでも?」
「しかし貴女ほどの女性であれば、あのような境遇であったとしても納得がいきます。絶世の美貌を世間からも身内から羨まれ、ついには監禁されてしまう始末。いやあ、わかります」
「まア、お上手。参事官閣下は、わざわざそれをお伝えにいらしたの?」
オーギュストがホテルの部屋に現れたのは、リーハイムの事件から一週間後のことであった。事件のもみ消しはリヒャルトによって進められ、次なる一手であるガリアでの作戦のための布石は着々と打たれつつある。
ヘルヴェチアで初めてヘレネ達を迎え入れたオスカーが業務に追われて顔を見せなくなった代わりに、折衝役として彼女たちの前に訪れるようになったのがオーギュストであった。ヘルヴェチア外務省は魔王軍の福祉政策に協調の意思を見せていたはずだが、こうしてモスクワ側に籍を置くソロヴィヨフ隊との繋がりを持ちたがっているところを見るに、先日ヘレネたちが感じたヘルヴェチア、ひいては同盟内での協調性の欠如は、やはり実在しているらしかった。どこの組織も、一枚岩と呼べるほど団結できてはいないのであろう。
「女性のもとへ通うことこそが男の本懐なれば」
「どうもエルフの方々は美男子揃いで、私には見分けがどうにもつきませんの」
歯の浮くような口説き文句は、しかしヘレネの耳には届かない。
「小話の少女であればともかく、生憎と私は世俗とのしがらみを絶った修道院の騎士です。実家が強盗に入られたことなどありません」
女抱きたきゃ余所を当たってほしいもんだね。エルフの官僚ともなりゃあ、引く手あまただろ。ヤリチン野郎がよ。言外にそんな感情を含ませ、ヘレネは吐き捨てた。
「確かにこれまでは質より量、恥の多い性生活を送ってきました。どんな女性とも平等にお付き合いをさせていただくのが、モットーでしたので。先日、三十四回目の入籍をさせていただきました」
「間女のところに通ってるのがバレても構わないと? もう少し辛抱を覚えることをお勧めいたしますわ」
ふわわ、と、ヘレネはあくびをした。卓上時計は午前一時を示していた。
「それでは、そろそろお帰り願えますでしょうか。抱くのであれば、私の部下を使ってもらって……」
「しかし今日はなんだか、量より質に拘ってみたいと思っておりましてね」
「……?」
オーギュストの発言が、ヘレネは上手く理解できなかった。平時の就寝時間を四時間もオーバーしていることで、思考力が普段より落ちているのかもしれない。
「……さっさと帰れよ、あたしもう寝るんだから」
苛立ちからか、猫被るのも忘れてヘレネは低く唸る。恫喝気味に叩きつけるはずだった言葉は、突然頭蓋を覆った激烈な睡魔と倦怠感によって、情けなく宙を舞うだけにとどまった。両脚に力が入らない、腕にもだ。椅子の背もたれだけが、今のヘレネの体をかろうじて支えていた。
「もちろん、帰りますよ。働いたぶんだけの対価をいただけたらね」
穏やかな紳士の声色を崩さないままに、オーギュストはヘレネの肩を抱き、そのまま腰に手を回して彼女の体を抱えた。そして、そのまま悠々とベッドにヘレネを横たわらせる。
手を添えられた箇所は、ブラウスの布地越しにも関わらず、ぞわぞわした不快感で満たされていた。発疹でも出たのかと感じるような、痛みすら感じるほどの激烈な拒絶反応。
「やめろ、てめえ、はなせ、糞たれ」
微睡のフィルターで思考や視界が曇りを増していく。細かな罵倒と、弛緩した筋肉でようやく掲げた両の腕で拒否を伝えるが、シーツの上という独壇場で獣欲を燃やすオーギュストには、油を注ぐ結果にしかならない。両の手首を掴み上げられ、頭上に押し付けられる。再び腕を持ち上げることは困難である。
全身が水圧で圧し潰されているかのような感覚に耐えず見舞われ、ただ曇った眼でオーギュストの端正な、そして貪欲な情痴を噴出させる長躯を見上げることしか叶わなかった。これまでの瀟洒な振る舞いを包み隠していたジャケットとワイシャツを脱ぎ去り、程よく鍛えられた胸板を露にする。オーギュストは、その炯炯とした眼光で憎悪に震えるヘレネを睥睨した。
「口さがない女性が好きでね。貴女ほど容姿と口数の多さが魅力的な女は、そうはいない。そんなにもかわいらしく囀られると、私もそれに応えられずにはいられない」
口元を歓喜に歪ませるオーギュスト。煮えたぎる情欲が下腹に位置するスラックスの布地を張り詰めさせ、みずみずしく豊かに実った獲物の肉を前に垂涎しているようだった。
「素晴らしい、ああなんと美しい。貴女を産んだご両親に、貴女を育んだ帝国に、貴女の魂をそうまで愚かに歪ませたその社会に、感謝しなければなりますまい」
「くたば……れ……」
女とは畢竟金を産む肉袋。
ヘルヴェチア国内ですら懐古的な思想として蔑まれるべき男尊女卑を、オーギュストは己の睾丸に封じて生きてきた。常に正しくあれという社会的な要請に応えつつ、そうした生来の欲求を抱える彼にとっては、惰弱にして痴愚なる女を、男という自分自身の手によって糺すという行為は、なくてはならない生き甲斐であった。地上の生物が酸素を取り込んで呼吸するように、オーギュストは女の肉を、頬骨を己の拳で殴り潰さねば、到底生きていけないのであった。
固く握られた拳を振り上げるのを見て、ヘレネは咄嗟に瞼を閉じ、奥歯を食いしばった。
「そして貴女自身にも、心からの感謝を……貴女を糺すことで、ようやく私は世に生れ出たことを実感できる」
右頬を殴りつけられ、すかさず左頬を張られる。口中に鉄の味があふれ、血痕がシーツと枕を濡らす。再び拳を振り上げられると、ヘレネは咄嗟に顔を横にして庇った。その仕草が、たまらなく行為に耽るオーギュストを興奮せしめることを知らずに。
「ひっ……」
これが、あのリーハイム虐殺を仕組んだ女の本性か。なんとまあ、漏れ出た怯えの声すらも可愛らしい。頬を内出血で腫らして、口元を鮮血で汚して、生き意地汚く顔だけは殴られぬようこうして庇ってみせる。そんな儚い矮小さにオーギュストは一層昂ぶりの度合いを高め、拳をみぞおちにつき込んだ。臓物がわずかに収縮し、こもった水音がごぽりと鳴った。食道内から逆流してきた液汁に噎せこみ、ヘレネはひどくえずいた。
よくオーギュストは、この一連の行為を畜獣の解体かのように感じることがある。実際に精肉工場を視察する際には、女を痛めつけるときのことを思い出して勃起するのだから、やはりこの両者には精通するところがあるのだろう。さながら自分は嫉妬からアベルを殺した牧者のカインである。天井からもたらされる至福の瞬間を求めんがために、オーギュストは畜獣の血と肉をけなげに捧げ奉り続ける、哀れながらも敬虔な父なる神のしもべの一人。
ああ女よ、痛みに怒り悲しむことはない、この私の振るう拳と刃に身を委ね、新たなる洗礼を経て三十五人目の供物となるがよい、エイメン、エイメン、エイメン。
やがて訪れた解放の恍惚に陶酔するオーギュストの意識を現実に引き戻したのは、一発の銃声だった。彼特有の交接の場に相応しくない音と匂いに基づいて周囲に目を配る。ヘレネが、小型の護身用拳銃を手にしている。枕か、あるいはシーツにでも隠していたのだろうか。銃口からは青白い硝煙が立ち上り、力なきヘレネが中指を突き立てているようにも見えた。
銃声からさほど時を待たずして、部屋がノックされた。ヘレネの安否を案じる声が廊下から聞こえてくる。オーギュストは咄嗟にヘレネの口を塞ぎ、拳銃を取り上げた。しかしその努力も虚しく、二発の弾丸がドアの蝶番が破壊する音が間もなく響いてきた。ドア板を蹴破って現れたのは、ヘレネ配下の二人の騎士であった。ひとりは小柄なノーラ、もうひとりは屈強な巨体を有したテクラである。
「ヘレネ様」
部屋に押し入るなり、テクラは即座に状況を把握した。一切の逡巡もなく、テクラは胸元から抜き放った拳銃をオーギュストへと向ける。
「待ちたまえ、これは」
小型銃を捨て、手を挙げる暇すら与えられることはなかった。続けざまに放たれた弾丸が左肩と左腿を貫き、オーギュストの弁解を封じた。激痛にもんどりうって倒れ込むオーギュスト。
「ノーラ、ヘレネ様を」
後輩にあたる騎士に短く指示を出すと、テクラは傷口を押さえるオーギュストの元へと歩み寄った。傍らに落ちた小型銃を拾い上げると、彼女は自前の自動拳銃の銃口をオーギュストの頭部へと指し向けた。
「落ち着きたまえよ、君。男女の営みに押し入ってくるなんて無粋もきわまる」
何も応えず、テクラは無傷の右腿に銃を向け、引き金を引いた。オーギュストから短い悲鳴がこぼれる。
「引き続き我々に協力する気があるなら、首を一回振ってください。ないのなら二回」
「少しは話を聞いてくれても」
許した覚えのない弁明の兆しを垂れられたテクラは、がしりとオーギュストの長く尖った外耳を鷲掴みにした。一片の慈悲を併せ持たないダークブラウンの瞳が、無機物を見やるように冷たく光る。無遠慮に力が込められていくと、みりみりと皮膚と肉とが突っ張り、ぷつりと耳の付け根から血が滴る。苦悶に喘ぐが、しかし今のオーギュストにそれ以上のことはできそうになかった。
「このまま千切られるのは嫌?」
「い、嫌だ、離、離してくれ、やめてくれ」
「わかりました」
そう言ってテクラは銃口をオーギュストの耳元に近づけると、躊躇いなく発砲した。回転する弾丸が外耳の一部を裂き、ひきちぎり、至近距離での銃声がオーギュストの内耳を暴力的に抉った。わずかな肉と薄皮でだけでぶらさがった外耳をぶらぶら揺らしながら、オーギュストは破れた鼓膜がもたらす地鳴りのような爆音に呻き悶えた。
「それで、協力するのかしないのか。片方の耳は聞こえておられるでしょう」
「する、協力する、何でもするから、だから医者を」
治療を懇願する意志を垣間見て、またしてもテクラは機嫌を損ねた。残っていた外耳を再び握り締めると、彼女は力任せに耳をもぎ取った。痛みと轟音に絶叫するオーギュスト。
「まだご自身に何かしらの価値があると思っておられるので、補足させていただくと」
健在な耳に向かって、テクラは語りかけた。
「私はあなたを殺してしまえる。仮にあなたの背後に誰がいようと、何があろうと。ヘレネ様はそう仰るでしょうし、仮にそれで大望が遠ざかろうとも、おそらくはあなたの死を望まれる」
「ガ、ガリアに行くための便宜を繕うのであれば、何だって協力する。リーハイムの件だって、つつがなく収束させる! か、金も出す、なんなら国政のポストだって……」
「その見返りにヘレネ様の玉体に疵をつけたのですか。なんと、度し難い」
無味乾燥な口ぶりでテクラは独語した。彼女はすらりと左手でケープの内側からナイフを引き抜くと、オーギュストのもう片方の耳に刃を這わせた。
「そんなものは、我々とオスカー・ヴァイルブルクとの間で結ばれた契約の前提条件に過ぎません。協力するにあたって、今夜の件をどう埋め合わせるかを聞いているのです。応えてください。今すぐ。誰でもないあなた自身の贖罪のために、あなたは何を差し出せる?」
「……」
「お耳の報復としてリーハイムの件を正式に同盟軍に密告する? それは別に構いません、生きてここを出られたのであれば、好きにされるとよろしいでしょう。それであなたは、ここでご自分の命にどれだけの値段をつけるのか。それを聞いているのですよ。あなたは今、負債を負っているのです」
ヘレネに肩を貸すノーラと入れ替わるように、騎士団の面々が続々と部屋へと入り込む。それぞれの手には金属製のアタッシュケースと、大量のベッドシーツ。年端もいかぬ少女たちがケースの中から取り出したのは、年季の入った糸鋸である。負債の返済のため幾度となく使用されたと思しき解体用具の鈍い輝きが、オーギュストの目に映った。
「最も重要なのは、あなたが、どうヘレネ様を祝福なさるかということです」
今度はお前が、供物として捧げられる番だ。見下ろすテクラの目は、オーギュストが奉じてきた神の言葉を代弁しているようだった。




