事後処理(4)
翡翠の万年筆が記していく文字列は、ソロヴィヨフの抱えている辞意を表していた。軍内の書式に則って誂えられた書類を折りたたんで、丁寧に封筒にしまい込む。
しかし問題なのは、これが問題なく受理されるかどうかであった。
こんなことなら武勲なんて立てるんじゃあなかった。
同盟軍という目下の障害に圧力をかけられ続けるモスクワ軍が、士気の要となりうる今のソロヴィヨフをやすやすと手放してくれるかというと、かなり怪しいところであった。パルスベルク攻略の英傑、ペテルスブルク突破の仕掛人、ヴィルヘルミーナ第四皇女を救った名指揮官。ヘレネという裏切者の共犯者にすぎない一介の士官であるソロヴィヨフを示す肩書は、日を追うごとに増えていった。
厭戦気風の萌芽を片っ端から摘み取りたい司令部としては、ここへさらに勲章の一つ二つでも上乗せしてやろうという魂胆すらあるのではないか。軍人としてはこれ以上ない名誉であろうが、ソロヴィヨフとしては、軍功にさほどの魅力を感じなかった。
辞めよう。辞めて、エカテリンブルクの故郷に帰ろう。妹たちには失望されるだろうが、しかし自分には、パルチザンに殺された父ほどの度胸も甲斐性もなかったのだ。だがそんな父とて、ヘレネのような女には出逢ったことはなかっただろう。あまつさえあの女と共犯となり、二千人を超える犠牲者を産んだ虐殺に加担することになろうとは。しかしレーゲンスブルクの地下牢からヘレネを連れ出したのは、他の誰でもないソロヴィヨフなのだ。
しかし彼とて、ペテルブルクの士官学校の門をくぐったときには、夢にも思わなかった。自分がこんな身の上になるなど。捕虜とした女騎士の口車に乗って英雄に仕立て上げられ、兵士のみならず、無辜の民草との区別すらなく殺してまわり、死体の山を築く一助に相成ってしまう未来を、かつてのソロヴィヨフは想像すらしていなかったはずである。
骸のうちひとつは、ヴィタリー・ジルキンのものだ。彼に銃を放ったときから、きっとこのおかしな関係性の車輪は、坂から転げ落ちるかのように加速し始めたのだろう。
亡き粗野な戦友の曇った眼を、ソロヴィヨフは今でもありありと思い描くことができた。死体をまさぐり、万年筆を奪い返し、力なく横たわる彼の末路を一瞥したときの光景を、きっと忘れることはない。どんよりとした不快な浮遊感が頭をゆさぶるのを感じて、ソロヴィヨフはデスクから立ち上がり、トイレへと駆け込んだ。ひとしきりえずくものの、空っぽの胃から罪悪感が形をもって嘔吐されることはない。ふらふらとおぼつかない足取りでデスクへ戻ってくると、書類の脇に置いてあった酒瓶を鷲掴み、一気に中身を口に流しこんだ。食道から胃までの経路が一気に焼かれ、その刺激でソロヴィヨフは束の間の正気を取り戻す。
そこへ、ドアがノックされる音がソロヴィヨフの耳に入った。
誰とも会いたくはなかったが、それでも今の職務を蔑ろにするわけにもいかない。声をあげて在室を示すと、ソロヴィヨフはドアの施錠をはずした。
そこに立っていたのは、修道騎士のテクラ・クラカウであった。
「何の用だ」
「折入って、大尉殿にお話ししたい案件がございまして」
淡いベージュの癖毛に包まれた素朴な顔つきには、いつもの柔和な笑みはない。
「少々お時間をいただいても、よろしいでしょうか」
逡巡はしたものの、ソロヴィヨフはテクラを部屋に迎え入れた。先日の事件について追及したいことは山ほどあったが、出逢うなり彼女を声高に怒鳴りつけるほどの気力はなかった。彼女の巨体に声を荒げてヘレネの所業を追及できるだけの度胸も、今のソロヴィヨフにはない。
「手短に頼めるか。どこぞの阿呆のやらかしの言い訳を考えるので、疲れてるんだ」
額を手のひらで覆いながら、デスクへ戻ったソロヴィヨフは吐き捨てた。
「やらかしとはひどいな、僕なりにあの作戦の意義をそれらしくまとめてみたというのに」
テクラに伴われて現れたのは、リヒャルト・ヴァイルブルクであった。予想外の客人に、ソロヴィヨフの心臓がずきりと高鳴った。
「ヴァイルブルク少将……?」
「かけたままでいいですよ、僕らも適当にくつろぎますから」
そう言って、テクラとリヒャルトは手近なソファに腰を落ち着けた。
「そう面白い顔しないでくださいよ、僕はモスクワ軍の敵じゃあないんですから。これからの進退について、役に立つお話を持ってきたんです」
「味方というわけでもないだろう」
「まあまあ。年上のお節介を少しは聞いていってくださいよ」
朗らかに言うリヒャルトの表情には、やはり何か含みがある気がしてならなかった。
「ありていに言えば、このまま戦争続けるとどうなるか、ってことですよ」
「それは俺個人に話したところで、どうにかなるものでもないはずだ。俺は一介の士官にすぎないんだぞ」
「しかし僕は、モスクワ軍に特別親しい友人を持っていませんので。情報というのは、役立てられる人間の耳に入って初めて生を得る生き物です。あなたが話を聞いてくれないと、僕の頭の中で腐ってダメになってしまう」
ソロヴィヨフの怪訝な表情を青い瞳で伺いながら、リヒャルトは本題を口にした。
「ブリタニアの飛竜兵団に実用化の目途が立ちました。世界初の、空軍戦力の誕生が秒読みに入ったのです」
「飛竜兵団……だって?」
「大地を駆ける馬の代わりに、大空を飛翔する竜に騎兵を配し、はるか直上から指向性をもった攻撃を加えることのできる騎兵。まさしく高次元的な機動性を有した新時代の兵科が、産声を上げつつある」
「だが飛竜を手懐けるには、技術的な壁が問題になっていたはずだ。モスクワでも話くらいは聞いたことはある、馬と同じように手綱でどうこうできる生き物じゃないと」
「その諸問題を解決したのですよ、ブリタニアは。いえ、同盟軍は」
「それは、事実なのか」
恐る恐る確認を口にしたソロヴィヨフに、リヒャルトは額を掻きつつ、この状況で嘘を言ったってしょうがないでしょう、と応じた。
「拝火文化圏と升天教圏の積極的交流が回復されたことで、ようやく迎えた技術革新の賜物でしょう。魔王軍は、フリュギアの持つ金属加工技術を手土産にして同盟軍に名を連ねたというわけです。我がヘルヴェチアを仲介にしてね」
「仲介というのは?」
「飛竜制御器具と防御装甲の生産役に、我が国の国有企業が選ばれたのです。それなりの額での発注をいただいたようで、エルフというのは金にだけは誠実です。おそらく一ヶ月はかからないうちに、試験的な一次発注分の納品は済ませられるでしょう。そうなれば、飛竜騎兵の実用化はもう目の前です」
リヒャルトの宣告めいた発言が何を意味しているかが即座に想像できないほど、ソロヴィヨフは酩酊できていなかった。なおもリヒャルトによる、飛竜騎兵の分析は続いた。
モスクワで採用されているライフル弾では、当てたところで飛竜の鱗を貫通する事は不可能。それが新造された装甲部であればなおさら。撃墜するためには飛竜の眼球や口内を狙撃するのがセオリーだが、天候や空気抵抗を除いたありとあらゆる物理的障害を無視したとして、飛行する飛竜の機動性は騎馬の比ではなく、歩兵による撃墜は非現実的と断ずるほかない。
「平地でモスクワの一般的な歩兵部隊が飛竜騎兵の編隊と交戦した場合……歩兵にいくら肩入れしたとしても、十五対一がやっとでしょう。現行の歩兵装備で実用化された飛竜騎兵とやりあうのは自殺行為です」
まさしく猛禽と窮鼠を比べるがごとき絶望的な現実を語るリヒャルトの口ぶりは、決して受けを狙ったジョークなどではなさそうだった。
「間の悪いことに、帝国西部方面軍を統括していた貴族の一部がガリアへと亡命。モスクワによる第四皇女の拉致を指弾しつつ、臨時政権の発足を画策しているという情報が入りました」
リヒャルトのいう方面軍とは、現在ではクリゾルト派と呼ばれる貴族が統率する集団として認識されていた勢力であった。ザイリンゼル三世によって罷免の憂目に遭った元宰相を担ぎ上げ、皇帝家の為政を弾劾するとともに、同盟軍への協調すら示唆しているのだという。
感覚としては、つい先日まで戦況は拮抗していたように思えたものだった。モスクワの戦力を恐れているからこそ、同盟軍は迂闊に帝国領をまたいで進軍してこなかったのだろうし、モスクワ軍もまた、無用な流血を避けて様子を伺う選択をとったのだ。それがたったひと月でこんなにも情勢が激変するなど、誰が予想できただろうか。
「すべてはあの魔王のやったことだって、言いたいのか?」
「正確には、魔王閣下と勇者様、でしょうか」
リヒャルトは首肯した。
「主たる脅威であるブリタニア軍はともかく、クリゾルト派まで同盟に同調するとは、僕も予想外でした。元来クリゾルト宰相は反ガリア政策を推し進めていた政治屋だったはずですが、時代というのは世論とともに変わるものらしい」
「さっきも言ったように、そんな絶望的な事実だけ並べられたって、俺にはどうしようもないだろう。俺に何ができるっていうんだ?」
「モスクワが取りうる行動としては、可及的速やかにヴィルヘルミーナ殿下を元首とする臨時政権を樹立させ、ガリア側に否が応でもこれを認めさせることが挙げられましょう。そしてこれが可能なのは、現状モスクワでもっともフットワークの軽い大尉殿の試験中隊のほかにありません。リーハイムでの容疑もあって、今のモスクワは迂闊に大軍を動かせないでしょうから」
リヒャルトの解決案に際し、初めてテクラが口を開いた。
「近日、下院選挙に向けたガリア社会党の党大会がパリのコンコルド広場で行われます。当然、根強い人気のある……クラカウ上院議員や、クリゾルト派の亡命貴族たちもやってくる。自分たちの身の安全と、自己アピールのために。我々としては、この機会を逃す手はありません」
穏健な物腰のテクラらしくない皮肉っぽさで、テクラが言った。
「ブリタニアの飛竜騎兵はガリアにとっても脅威には違いないはずです。そもそも同盟軍とは利害関係によって成り立った集団です、共和政体として民声を無視できないガリアとしては、対モスクワの防波堤にブリタニア軍を国内に駐留させ続けるつもりはないでしょう。ガリアは、決して親ブリタニアの思想を持ち合わせているわけではありませんから」
「……いやに詳しいじゃないか。帝国の修道院には、そんな情報も入ってくるのか」
「すべて中立国ヘルヴェチアだからこそ、集められた情報です。ガリアには、私の父がいるんです。大陸初の、有角人種の上院議員として」




