リーハイム・ジェノサイド(10)
うら若い《魔法野郎》の柔肌に男どもが殺到するのを尻目に、ヘレネは監視塔で督戦隊の任を担っていたエリーゼとノーラの二人と合流した。
入国管理事務所の一室で、ヘレネ達は未だ続く宿舎の炎上と兵たちの暴挙を眺めていた。未だ冷めやらぬ喧噪の中で、一同は国境警備隊の制服に着替えていた。事務所内に避難していた軍属職員を殺害して奪ったものである。襲撃に遭った負傷者を装って脱出する算段であった。
モスグリーンのジャケットに袖を通しながら、エリーゼは推測を語った。
「魔王軍から出向してきた兵はともかく、ヘルヴェチア兵の士気は、あまり高いようには思えませんでした。両国の兵には、なにか認識の齟齬のようなものを感じますわ」
「ヘルヴェチアも一枚岩じゃないってわけだ。当然その手の対立は、同盟側にも絶対にあるだろうな。この場にガリアの兵もブリタニアの兵もいないとなると、足並みが揃っているわけでもなさそうだ」
「それにしても、お姉さま。私はお姉さまみずから現地に赴くなど、聞かされておりませんでした」
平時のエリーゼらしからぬ焦りの混じった声色で、彼女はヘレネに不満を零しだした。
「お姉さまに万一のことがあれば、私の首がいくつあっても足りません。レーゲンスブルクでの件を、お忘れではございませんでしょう?」
「事前に申し出ていれば、監視塔組に入れてくれたのか?」
「それは……」
ヘレネに盲目的な忠誠を誓っている反面、エリーゼ・ガーデルマンという女には若干保守的な側面があった。今回の一件でのヘレネの関与はマニロフ中佐とのやりとりにのみ留まるのだと認識していたぶん、秩序を失った作戦地で彼女の姿を認めたエリーゼの心臓は、ひときわ高く飛び跳ねた。おいしいもの、面白いもの、楽しそうなもの、そういった興味を引くものに対して、ヘレネはとにかく率先して直接的に関わりたがる。
エリーゼとしては毒見役は吝かではなく、すすんで彼女の身の安全に努めたいところではあるのだが、いかんせんヘレネは気まぐれでワガママである。千匹以上の薄汚い魔物どもが詰め込まれた小屋に火を放ち、まとめて焼き殺すなどというエンターテインメントを前にして、危険だからという理由で参加を辞退するはずがない。
可能な限り意を酌んでやりたいというのがエリーゼの本音であるが、彼女のフットワークの軽さが命取りになるまいかという懸念は、今なお依然として拭えないままであった。
一同は事務所を出て、やや火の勢いが収まってきたようにも見える宿舎を見やる。懲罰歩兵と警備兵の小競り合いは、膠着状態になりつつあった。
「ヘレネ様、エリーゼ様。あれを」
負傷した警備隊員を装った三人の中では、弾痕と血痕にまみれてひときわ痛々しい風貌となっていたノーラが、市街から国境方面へ続く一本道に、馬を走らせる集団の影を認めた。
「ようやくご到着か。はてさて、一番乗りはヘルヴェチアか魔王軍か……」
間もなくやってきた騎兵の集団はそのどちらでもなく、事態鎮圧に派遣された両軍共同の混成部隊らしかった。先陣を切って臨場した部隊はフリュギア軍の騎兵隊らしく、肌の色から身体的な形態まで多種多様で、武装した馬人までもが行軍に参加していた。
あとは後送されていく負傷者に混じってここから撤収すればよい。肩口と脇腹を射抜かれた激痛に喘ぐノーラの迫真の演技もあり、救護兵には訝しがられることはなかった。措置は自分たちでできると謙虚に振る舞い、消毒用のアルコールと包帯だけを彼らから受け取った。一同は、そのまま続々と集結しつつある騎兵たちとは逆方向に歩き出した。エリーゼとふたりでノーラに肩を貸し、その後ろをハイダとニーナの二人がとぼとぼついてくるかたちとなる。
そこへ、ヘレネの頭上に鋭い一声がかけられた。
「そこのあなた。そう、あなたです。金髪の」
すれ違った二騎の騎兵が、こちらに振り返って戻ってきた。ひとりは肌の青いフリュギア人の女性将校。もうひとりは、兵と呼ぶにはあまりに華奢で若々しい赤毛の少女。ふたりは行軍から外れると、負傷兵の皮を被ったヘレネたちを睥睨した。
赤毛の少女の装いは、痩身にぴったりと誂えられた黒のフォーマルスーツ姿。その顔かたちに、ヘレネ達は見覚えがあった。忘れるはずがない、モスクワにとって目障りこの上ない、魔王に傅く恥知らずの不埒者。
(勇者、ラウラ?)
ぞくりと背筋が凍る。鉄面皮の裏側で、冷や汗が伝う。全身の体毛が総毛だつ、久しぶりの感覚。最近では、レーゲンスブルク攻防以来の厭な戦慄が、ヘレネの胸中をほとばしる。いかに一世を風靡する著名人と言えど、直接的な面識はない、あるはずがない。それなら何を恐れることがある。このまま騙しとおせぬ道理はない。しかし不快な胸騒ぎがやむことはない。初めて味わう感情だ。無根拠なざわめきに苛まれつつ、ヘレネは応えた。
「……なんでしょう?」
「お急ぎのところすみません。身分証を見せていただくことは?」
「この子の怪我が見えませんか。申し訳ありませんが、後にしていただきたいのですが」
エリーゼが義憤の演技を顔に貼り付けながら、赤毛の勇者に反論した。
「……急いで逃げたもので、持ち合わせているかわかりません」
そう繕いながら、ヘレネはジャケットの内ポケットに手をやった。奪った軍隊手帳を取り出し、個人情報の頁を開いて差し出した。
「ヘルヴェチア連邦国境警備隊リーハイム検閲局所属、カミラ・ラインムート中尉であります」
ヘレネは事前に暗記していた所属をすらすら名乗り、続いて故ラインムート中尉の個人情報を並べ立てていった。予想外の詰問に内心焦ったものの、なんとかヘレネは名乗り終えた。
ラウラは開かれた紙面を一瞥し、再びヘレネの顔を見やる。
「……では、ラインムート中尉。このボクの顔に見覚えは?」
「忘れるはずがございません、ブルクゼーレ義勇軍の、ラウラ様であらせられます」
「ラインムート中尉。偶然ながら、ボクもあなたの顔に見覚えがあるんです」
「恐れながら……ラウラ様とは、初対面かと存じますが」
「あの時は、お互いずいぶん濃い化粧をしてたからな。わからなかったとしても、無理はない」
「……あの時、とは?」
探り探りで言葉を返すヘレネの前に、ラウラが馬から飛び降りた。
「エアフルトでの会食で、ボクはあなたを見ている。モスクワ軍士官の隣にいた、あなたの顔を」
ラウラのソプラノが謳う内容は、やがてヘレネの脳内における近縁の情報と結びつく。数ヶ月前、ベルリン攻防戦を間近に控えた、ブルクゼーレ義勇軍代表団との会食。あのソロヴィヨフの目の前の卓についていた、頭のおかしいロリィタ娘。そこまで記憶を掘り返して、両者の美貌と頭髪の紅さが合致する。あるはずがないと高を括っていた面識が、確かにあった。
どうする。勇者ラウラは、明らかにこちらの正体を訝しんでいる。シラを切り通すか? だが他者がこの美貌を見間違えることなど、万に一つもあり得ない。口先でいくら言い訳を重ねても、勇者は確信をもってヘレネを会食の日に現れた伯哲の麗人と同一視するだろう。だが、いかに思案を巡らせたところで、帝国を見限ってモスクワについたヘレネの立場を理解できるはずはあるまい。帝国のヴィッテルスバッハ伯爵ではなく、ソロヴィヨフゆかりの愛人としての境遇とでも応えれば、勇者ラウラ側はそれ以上の追求はできなくなるはずであろう。
だが国境警備隊の風体でラインムート中尉を名乗った以上、そうもいかなくなってしまった。ラインムート中尉が、なぜ帝国はエアフルトの会食の場に現れたかの証明など、できるはずがない。故人が国を股に掛けた淫蕩家であればよいのだが、先ほど提示した手帳には彼女の従軍記録も記載されていた。出国もしていなければ、ここ数ヶ月このリーハイム検閲局を離れた記録もない。
「そちらの怪我人には申し訳ないが、少し調べさせていただきたい」
ラウラの傍らの騎馬の上から、フリュギア人士官が言った。
あちらに主導権を握られたままノーラを調べられれば、いらぬ容疑をかけられる。客観的に考えれば、ラウラにとってラインムート中尉を騙って負傷者を装うヘレネ一行ほど、疑わしいものはない。思考を巡らせるが、効果的な打開策が見当たらない。わざわざマニロフ中佐を懐柔して、モスクワ側から懲罰歩兵を出させた努力が灰燼に帰してしまう。
「傷を見せていただけるかな?」
馬を降りたフリュギア人士官が、ノーラへと近づいていく。
まずい。バレる。
なぜだ。おかしい。
仕込みのすべてが済んだはずなのに、最後の最後で勇者とやらに鉢合わせるだと?
いったいどういう天文学的確率だ。こいつが私に気づかなければ、こいつさえいなければ、皮膚を赤錆にまみれたカミソリで逆撫でされていくような焦燥に苦しむこともなかったのに。
私が一体何をした? 畜生。こいつさえいなければ。
こいつさえいなければ。こいつさえいなければ。こいつさえ、いなければ!
「近づくな!」
痺れを切らしたノーラが叫ぶ。それと同時に、ふたつの銃口がラウラの喉元へと向けられた。懐より拳銃を抜いたのは、ノーラとエリーゼである。ここでもっとも貴ばれるべき、そして人質に適した人材はいったい誰か。至極簡単な問いに答えを見出した二人は、迷うことなく銃を構えた。ノーラの一声に応じ、ヘレネもまたジャケット内の武器に手を伸ばす。が、そこで腕が止まってしまった。
「動くな」
ヘレネの白い喉に、奇妙な長剣の切先が突き付けられていた。薄紅色の鉱石を、滑らかで鋭利な剣の形状に研磨したようなそれは、淡い燐光を伴って辺りを照らした。
ラウラの手に握られていたのは、一振りの直剣であった。否、剣の形状に成型が施された結晶である。刀身にせよ柄にせよ、飾り気の一切が廃されており、その表面は研磨されたローズクォーツを連想させる外見である。兵器たる剣を模した品としては美しくすらあり、またその外光を呑み込む淡い紅色の刀身は、暖かさとともに生物的な脈動をも感じさせるものであった。
奇妙な剣の鋭い先端がヘレネの薄皮に触れると、表皮にプツリと血の玉を生じさせた。
「まずはラインムート中尉。銃を、捨ててください」
言われるがまま、ヘレネは手にしたものをラウラに見せ、地面に放り投げた。それは銃ではなく、修道会で支給されていたナイフであった。
誰一人、この場で【ラウラが剣を抜く】といった仕草を目にしていなかった。二人から銃を向けられた瞬間、ラウラは異形の剣をその手にしていたし、二つの引き金に圧力がかけられるより早く、剣はヘレネの喉元に向けられていた。ラウラの装備には、長剣を収納できる鞘らしきものは見当たらない。あたかも虚空から引き抜かれたかのような剣は、現実性に欠ける魔力的存在感を周囲に振りまいていた。
「あなたたちをいたずらに傷つけるつもりはない。あなたが何者かを教えてもらいたいだけだ」
動けない。いかに居丈高さが豪奢な自尊心を纏って闊歩しているかのようなヘレネとて、この状況で下手な策を弄せるほど愚鈍ではない。
畜生畜生、やらかした。やっちまったぞ。
頭をいくらフル回転させても、いつものような小細工や屁理屈が出てこない。ノーラとエリーゼが銃を抜き、ラウラを人質にさえできれば、あとは流れでどうとでもなったはずだ。魔王アミルほどの価値はなくとも、この場を脱するくらいの役には立っただろう。だがこの目論見は、世にも奇妙にしておかしな人外の奇跡によって潰えた。《魔法野郎》は、さっきの田舎娘だけではなかったのだ。
「怪我人にしては、ずいぶん元気なものだ」
ノーラにリボルバーを向け、フリュギア人士官が言った。
「ラインムート中尉。このままずっとこうしているわけにもいかないでしょう」
ラウラの言葉の真意を汲み取り、ヘレネは視線をエリーゼたちの方へ向けた。
「銃を、おろせ」
苦々しげにヘレネがそう告げると、ノーラは弾倉を引き抜いて銃を捨てた。だが、エリーゼだけは奥歯を噛み締めつつ、ラウラに向けた銃口を下げられずにいた。
「おい。あたしを殺したいのか?」
ヘレネにしてはひどく冷静で、そして的確な制止の言葉だった。グレーの鋭い眼光をラウラに向けたまま、銃口をラウラから外せずにいた。ラウラの握った剣の切先が、ヘレネの雪肌にわずかに沈んだ。血の玉が弾け、純白の素肌に一筋の赤い線が引かれていく。食道に生唾が通過して、ごくりと音が鳴った。
「なんですかなんですか、穏やかじゃないですね」
辺りに漂う重く剣呑な空気を、市街側から蹄の音を伴ってやってきた男の暢気な一声がやわらげた。魔王軍と同じく、自らも騎兵隊を率いてやってきた彼は、夜闇によく映える金髪のヘルヴェチア士官であった。乗ってきた白馬から降りると、彼は張り詰めた緊張の糸を無遠慮に鋏で切り散らすかのような声色で言った。
「そんな物騒なもの、どうかおしまいくださいよ。お互い美人が台無しです」
胡散臭い笑顔を浮かべ、男はラウラへと歩み寄る。ライトブルーのワイシャツの上には、上掛けひとつ纏っていない。下半身は飾り気のないスラックスと、非常にラフな格好であった。傍目には、暇を持て余した腐れ大学生のようにしか見えない風体である。
「他人の庭先で流血沙汰を起こしてタダでいられると思うほど、魔王軍というのは見境のない阿呆じゃありますまい? さあさ、ここは僕の顔に免じて、どうか得物を収めてくださいよ」
小柄な体躯と柔和な表情、温厚な物腰で隠蔽してはいるが、肚の底でいななく獰猛な気性は、言外から無臭の香りを伴って感じとれるほどだった。
「ものの順序をおわかりか? ヴァイルブルク少将」
「僕とて赤ン坊じゃあるまいし、それくらいは見りゃわかるってもんですよ。少なくとも僕、ここにいる誰よりも年上ですから」
フリュギア人士官からヴァイルブルク少将と呼ばれた小男は、改めてラウラを見て言った。
「愚兄たちに何をどう言われたかは存じませんがね。われわれ国防軍は、あそこでやってるキャンプファイアには、何一つ関与しちゃいないんです」
「何が起こっているか、本当におわかりか?」
「まあ確かに、わが国の国境警備隊には、少なからず犠牲は出たようではありますが」
憤る女性士官の正論を、しかし彼は飄々と受け流す。亡命者だの難民だの、知ったことではない。暗にそう主張してみせ、ヴァイルブルク少将はヘレネ達に目を向けた。
「おたくら魔王軍がうちのシマで何やってるか、よくは知りません。だからといって咎める気も邪魔する気もありません。ただね、勇者様。さっきも言った通り、妙な言いがかりで我が国の来賓をバラすつもりでいるんなら、さすがにこっちもダンマリじゃいられません」
ヴァイルブルク少将はヘレネの傍らに立ち、鬼気迫るラウラへ穏やかに告げた。
「勇者様とて出るとこ出ていただくしか、なくなっちゃいますよ」




