憧れの作家は気になる彼でした
次の日。何も予定がない日曜日というものは至福の時間である。今日は大好きな作家の新刊を読むのだ。おととい購入したので、軽く朝食を食べてベッドでゴロゴロしながら小説を開いた。
水川累という作家は恋愛やミステリー、今流行りの復讐系などさまざまな分野の小説を書いている。
人気は高いのだが、性別と年齢が一切不明の作家なのだ。ミステリアスな水川の文章はどれも美しく寧々は水川の世界観に没入するのが好きだ。
寧々が好きな水川累の小説はデビュー作の恋愛小説で、愛する女性を亡くした主人公が前を向いて歩けるようになるまでの話が切なくも勇気を与えられて好きだった。
読み終わっても余韻に浸り感情が揺さぶられ、心が苦しくなったりしたものだ。
今回出た新刊は水川の久しぶりに出す恋愛小説で、あらすじを見た時からずっと気になっていた。寧々はわくわくする気持ちのまま、ページを捲っていく。
三時間ほどで読み終わり、ハッピーエンドを迎えた物語は気持ちよくて気分がいい。
いわゆるオフィスラブというテーマで物語は進むが、途中にシリアスシーンが入りどぎまぎした。どうなるものかとハラハラしながら読み進め、ハッピーエンドで締めくくりを迎える結末はとてもよかった。
誰かと語りたいが、SNSに投稿するとなるとネタバレになってしまうので避けたい。
かといって友人達は読書が好きではないので、あまりこういう話題をしつこく言うのは躊躇われる。
こうなったら、もう頼れる相手は伊織しかいなかった。伊織はプロの作家だし、いちファンの意見として聞いてくれるかもしれない。
伊織に通話できるかメッセージで聞くと、数分経ってから「ええよ」と返ってきたので寧々はすぐ通話ボタンをタップした。
「もしもし、清水さん?」
『寧々ちゃん? こんにちは』
「こんにちは。通話に付き合ってくれてありがとう! この感動を誰かと共有したくて、誰かいないかなって思ったら清水さんがいたから! そうだ、私水川先生のファンだって昨日言ったよね? その水川先生の新刊について語りたいんだけど」
それから寧々はまくし立てるように一人で話していた。時折伊織が相槌を打って間に入ってくれたのが嬉しかった。
伊織も水川の新作を読んでいたらしく、あのシーンをどう思った? と逆に感想を求められたりしたのが感想会のようで楽しいひとときを過ごした。
およそ三十分ほど語っていた寧々だが、いくら伊織が作家とはいえ他の先生の作品語りをしていたらうっとうしいと思われていないだろうか。
急に不安になった寧々は「一人で話してごめんね」と謝った。
『俺は楽しいで。寧々ちゃんの声、もっと聞かせて?』
そんな風に言われたら、水川累の小説だけではなく普通に伊織と話したくなる。こういうところが伊織はずるいのだ。
「私だけ話してもつまらないだろうから、清水さんも話してよ」
『……せやなあ、寧々ちゃんは水川累の熱心なファンでええってこと?』
「そうだよ。それがどうかしたの?」
伊織は電話の向こうで何か考えているようだった。
そして、放った言葉は。
『この後俺とデートせえへん?』
いきなりデートに誘われた寧々は、それはもう急いで身支度を整えて家を飛び出た。好きな人からデートしたいなんて言われたら、その気にならない女の子はいないだろう。
待ち合わせ場所にはラフな服装をした伊織が既にいた。昨日と違い、女性に囲まれていなかったのでそれはよかった。
珍しく伊織が無表情なことが寧々は気になった。
すると、寧々に気づいた伊織が先ほどのまでの無表情はどこへやら、いつもの柔らかい笑みを浮かべて手を振ってくれた。
寧々は伊織に小さく手を振り返して伊織の元へ近づいた。
「寧々ちゃん、こんにちは。急にお誘いしてすまへん。でも、来てくれて嬉しい」
「ううん、気にしないで。ちょうど時間空いてたし、清水さんと話すのは楽しいから」
「そう言ってくれるとこっちも嬉しいわ。おおきに」
「そういえば、今日はどうするの?」
伊織に駅まで来てほしいと言われて急いでやって来た寧々だが、今日の予定を聞かされていなかったのだ。
「そやねえ、寧々ちゃんに会いたくなったから、じゃあかん?」
ずるい。そんなこと言われたら、期待してしまう。寧々はぎゅっとバッグを握りしめた。
「……だめじゃ、ない」
「よかった。ここじゃなんだから、俺の家行かへん?」
「え? いいの?」
「寧々ちゃんならええよ。ほな、行こか」
まさかのお家デートになるとは思わなかったが、伊織がわざわざ自分のプライベートゾーンに入れてくれることが嬉しくて、寧々は足取り軽く伊織に着いていく。
わざわざ寧々の最寄駅まで来てくれた伊織には悪いが、電車に乗って伊織の家がある駅まで電車に乗ること数分。改札口を出て五分ほど歩いたところに伊織の家、もといマンションがそびえたっていた。
オートロックマンションのようで、広いエントランスがあった。寧々の身長と同じくらいの観葉植物があり、日常と少し離れたところに来た感覚がした。
エレベーターに乗り十二階で降り、伊織の家に入る。前回来た時は意識がなかったし、すぐ帰宅したのでそこまで注意して見ていなかったが、部屋も広く内装が綺麗なところを見ると家賃も高そうでなんだか気が引ける。
「寧々ちゃん? 遠慮せんと、くつろいでや」
「いえ、お構いなく……!」
「ほんまに遠慮せんでええから」
二人がけのソファーに腰を下ろした伊織は、空いている隣をぱしぱしと叩いた。どうやら隣をご所望のようだ。
寧々はおそるおそる腰を下ろした。ふかふかでお尻がゆっくり沈んだ。
「うわあ、すごい」
「なにが?」
「このソファー、ふかふか」
「おおきに。これでも家具にはこだわっとるんよ」
ちらりと家の中に視線を寄越す。清水家はそんなに物が多くないらしく、白と黒が基調となったシックな雰囲気が伊織らしいと思う。
「そんでな、秘密にしてたというか、言ってなかったことがあるんやけど……」
「な、なに……?」
含みを持たせたことを言われ、寧々は心臓が高鳴った。何を言われるのだろうか。もしかして、愛の告白?
「俺なあ、小説作家やねん」
「そう言ってたね」
「ほんで、水川累は俺なんよ」
伊織の言っていることを頭の中で反芻する。
──水川累は、俺なんよ──
……水川累は、清水伊織らしい。伊織という人は寧々の隣に座っている男だ。ということは。
「ええ!? し、清水さんはっ、私の大好きな水川先生なの!?」
「そうやで」
寧々が驚きながら隣に座る伊織をまじまじと見ると、くすくす笑いながら寧々を見つめる伊織と目が合った。いたずらが成功した子どものような目をしている。
全てにおいて不詳な水川だから今回の件は騙されたという気分にはならない。
だが、今日あれだけ水川累の新作について熱く語っていたのでだいぶダメージを受けた。主にメンタル面である。
それよりも。
「本人を前に一人でぺらぺら語ってて、本当に気持ち悪いよね……」
いたたまれない気持ちになり、寧々は俯いた。恥ずかしさといたたまれなさ、それと、どうしてすぐに正体を明かしてくれなかったのかと色んな感情の波が押し寄せた。
寧々は服をぎゅっと掴み、行き場のない感情をどうにか抑えようとした。
すると、大きな手が寧々の手の上に重ねられた。伊織である。
「そこまで思い詰めさせてたなんて、ほんまにすまん。つい意地悪したなって、いきすぎて寧々ちゃんを傷つけてもうた。それやったら本末転倒やのにな」
「清水さん……」
「俺の謝罪、受け入れてくれはる……?」
じっと見つめてくる瞳はいつもの柔和な印象はなく、怒られて落ち込んでいる犬のようだった。どうやら反省しているらしい。
伊織は秘密主義なだけで、水川累のことを黙っていたのも職業柄仕方ないことだろう。
だから、謝られるというのもなんだかおかしい気がしてきた。
寧々は重ねられた手から自分の手をそっと抜き取り、伊織の大きな手に重ねた。
「清水さんは何も悪くないよ。ただ、私が色々気にしすぎただけだから。ごめんなさいはこっちのセリフだよ」
「寧々ちゃんは何も悪くあらへんよ、俺が喋らんのが悪いんやし」
確かにそれは言えている。いくら秘密主義とはいえ、友達になったのだから色々と話してくれてもいいのに。
「それはそうかも」
「……寧々ちゃん、意外とええ性格してはるね」
「それほどでも」
寧々がにっこりと微笑めば、伊織は苦笑しながらも一応笑みを浮かべてくれたのでよしとする。
伊織はすっと手を離した。あたたかった熱が急速に冷えていき寂しさを感じるが、それを止めることはできなかった。
そして、伊織はすっと立ち、寧々に「少し待っとって」と言って別の部屋に行ってしまった。
それから五分ほどして戻ってきたかと思えば、手に何かを持っていた。よくよく見れば、それは水川累最新刊の小説だった。
伊織は寧々の隣に座り直し、手渡してきた。
「はい、寧々ちゃんにあげる」
「水川先生の最新刊だよね? 私持ってるよ」
「そうやけど、中見てみて」
伊織に押されて寧々は小説を受け取った。表紙をめくったその瞬間、寧々は驚きで目を見開いた。
「これ、水川先生のサインだ……!」
伊織の方を勢いよく振り返れば、ちゃめっ気たっぷりに笑い寧々を見つめる伊織と目が合った。
「意地悪してもうたし、お詫びにな」
「でも、もらっていいの?」
「これは寧々ちゃんのために書いたんや。名前もあるやろ?」
伊織に指差されて見たサインには、水川累の他に「寧々ちゃんへ♡」と書いてあったのだ。ハートマークに思うところはあるが、名前付きでサインをもらえるなんてこれほど贅沢なことはないだろう。
「ありがとう、清水さん」
「一応内緒やで?」
「もちろんだよ」
寧々は嬉しくてサインを指でなぞる。あの水川累からサインを直々にもらえることがこんなに幸せとは思わなかった。
「本当に、ありがとう」
「うん」
寧々はいただいたサイン本をハンカチで包み丁寧にバッグにしまった。
それを間近で見ていた伊織は照れくさそうにしていたが、それほど貴重なものなのだから許してほしい。




