あじさいデート、近づく心
伊織を好きだと認めてから、気持ちが楽になったと思う。振られてすぐに次の恋へ進む自分に嫌気がさしたりもしたが、伊織が魅力的な人だから好きになったのだと言われて腑に落ちたのだ。
どうやらちゃんとした理由が欲しかったようで、その言葉で確かに寧々は救われた。
明日からとうとう六月が始まる。梅雨がくるのは勘弁願いたいが、それよりも楽しみなことがあった。伊織とのあじさいデートだ。
伊織とは六月中旬の土日に行こうと話をつけているので、あと二週間ほどでまた会えるのだと思うと胸が高鳴る。
それから数日に一回はメッセージを送り合うようになり、寧々もその時間を心待ちにしていた。
伊織という人は自分のことを教えてくれないけれど、それでも彼の魅力は劣えることはない。名前と年齢しか知らないのに、それでも好きになってしまえるほど伊織は素敵な男性なのだ。
デート前日の金曜日、寧々は仕事をしながら明日のことを考えるだけで胸がいっぱいになった。
片手で数えられるほどの回数しか直接会っていないのに、こんなに浮かれるのだから自分でも呆れてしまう。
表情に出さないようにしていたのに、同期の岩澤には気づかれて「明日デートなんだね」と微笑ましいものを見る顔で見つめられたので、寧々は「実はそうなの」と言うしかなかった。
一週間の仕事も終わり、久しぶりに書店へ寄ったのには理由がある。
それは、大好きな小説作家の新刊が発売されたからだ。寧々は作家の水川累が大好きだ。水川は性別、年齢ともに不詳で、ジャンル問わず物語を書けるオールラウンダーな作家なのである。
今回の新刊はミステリーらしい。細やかな描写が素晴らしい先生なので読むのが楽しみなのだが、明日はデートが控えている。楽しみは取っておくことにして、急いで帰ろう。
寧々は新刊を手に取って会計を済ませ、やや早歩きで帰宅した。
家に帰宅した寧々は、夜ご飯を食べてから念入りにお風呂に入浴した。お気に入りのバスソルトを入れて身体を清めればテンションが上がる。なにより、いい香りに包まれて心が落ち着くのだ。
湯上がりにスキンケアをして、ボディークリームを丁寧に身体に塗り込んでいく。明日は好きな人とのデートだから、気合を入れてメンテナンスしなければ。
洋服やバッグ、靴を引っ張り出し、姿見の前でああでもないこうでもないと悩む。
伊織は背が高くて手足もすらっとしているから、きっとどんな服でも着こなしてしまうんだろうな。
明日の服装について悩んでいると、伊織からメッセージがきた。
【寧々ちゃん、明日はよろしゅう頼みます。夜更かしせんようにな。会えるの楽しみにしてるで】
にっこりと笑っている猫のスタンプが送られてきて、寧々はほっこりする。明日のデートを楽しみにしているのは自分だけじゃないと知り、心が浮つく。
『こちらこそよろしくお願いします。清水さんも夜更かししないようにね。私も明日楽しみです』
よろしくお願いしますとぺこりとお辞儀をした最近流行りのキャラクターもののスタンプを送信する。
すぐに既読がついて、伊織からもお願いしますのスタンプが送られてきた。
【早いけど、おやすみ。また明日】
初めておやすみのあいさつをされた。今の時刻は二十一時。こんな時間までメッセージのやり取りをするのは初めてだと思うと、少しでも距離が縮まったことを嬉しく思う。
『おやすみなさい。また明日ね』
そう返して、寧々はスマホを胸元に抱き寄せた。こんなに胸が高鳴るのは本当に久しぶりだ。幸せな時間に寧々は幸福感で満たされる。
明日の服装は全部決まり、寝る準備をした。明かりを消し、ベッドに潜り込む。眠る前に伊織の顔が見たい。初めてのデートで伊織の写真を撮ったものを見返して、明日は彼と二回目のデートをするのだと思うと胸が躍る。
いつの間にか日付が変わっていたようで、夜ふかししていたら明日に響くかもしれないと急いでスマホを枕元に置いて充電した。
暗がりが寧々を包むが怖くはなかった。早く明日が来ますように。そう願いを込めて瞼を閉じた。
待ち合わせ時間は前回とほぼ似たような時間なので、平日よりはゆっくり眠ることができた。
寧々はトーストと牛乳を急いで胃の中に詰めて化粧をする。
今回ははっきりとデートだと認識しているから、普段よりは少し濃いメイクにしてもいいだろう。
セミロング丈の髪もヘアアレンジをして、毛先を巻いてローポニーテールにする。アクセントに髪留めをつける。大人かわいいになっていたらいいのだ。
洋服はホワイトカラーのワンピースにした。ウエスト部分に切り返しがあり、きゅっと細く見せてくれる。
バッグはグレーのハンドバッグ。ショルダーバッグにもできるから、使い勝手がいい。
靴は歩くことを考えて、かかとが5センチあるベージュのサンダルを選んだ。汚れていないし、歩きやすいことから気に入っている。
まだ時間には早いが、待ち合わせ場所に向かうことにした。
電車に揺られながら、伊織のことを考える。デートしようとは言ってくれるけれど、肝心なことは自分からは教えてくれないし、心がどこにあるかも分からない。
それでも、嘘をつく人には見えないし、人並みの倫理観を持っている人のように思う。要するに、寧々は伊織を信じたいのだ。
待ち合わせの場所に行き伊織の姿を探していると、彼の姿を見つけたが声をかけにくい状況だった。二人組の女性に囲まれているからである。最初は知り合いなのかと思ったが、伊織の様子から察するにそうではなさそうなのでどうしたものかと悩んでいたら、急に伊織と目が合った。
すると、手招きされたので自分かどうか確認すると、何度も頷かれた。寧々はそろそろと伊織の元へ向かう。
「寧々ちゃん待ってたよ」
女性達は寧々のことを訝しげに見てくるが、伊織は寧々に話しかけることをやめない。
「寧々ちゃん、聞こえとる?」
「あ、うん」
「おにーさん、この子だれ?」
「俺の連れやで、これからデートするんよ。せやから、お姉さん達離れてくれへん?」
普段柔和な印象の伊織が、怒っている。
それに気づいた女性達は、愛想笑いを浮かべながら去って行った。
「はあ、疲れた。無視しても話しかけてくるもんやから、うっとうしくて嫌やわ」
ため息をついて苦笑する伊織はいつもの雰囲気に戻っていた。
「清水さん、待たせてごめんなさい」
「気にせんでええよ、俺が寧々ちゃんに会いたくて早くきただけやから」
寧々は十五分ほど早く来た。
しかし、伊織はそれよりも早く来たのだろう。早く来た理由も、寧々に会いたいからという、くすぐったい理由で。
「寧々ちゃんも俺に会いたいと思ってくれたんやね、嬉しいわあ」
時計を見てまだ待ち合わせ時間になってないことに気づいた伊織にそう言われてしまった。恥ずかしい。
「そうだよ、悪い?」
寧々が認める発言をすると、伊織は驚いたように瞬いた。
すると、ふんわりと微笑んで「なんにも悪くあらへんよ、むしろ嬉しい」と柔らかい声で言ってくれた。
「ほな、行こか」
「……うん」
照れ臭い気持ちはあるけれど嘘をつきたくなかったので、寧々はそっけないと分かりながらもうんと返したのだ。
あじさいが見られる場所へ連れて行ってくれるという伊織についていき、約五分ほど歩いたところで目的地に到着した。
「ここは公園なんやけど、あじさいがむっちゃ綺麗なんよ」
この公園のあじさいが綺麗だということを、どうして知っているのだろう。
もしかして、前の彼女と来たことがあるのだろうか。そんな風に考えてしまうが、ここで言っても空気を悪くするだけなので、寧々は口をつぐんだ。
「そうなんだ、教えてくれてありがとう」
「どういたしまして。ほな、見て回ろか」
伊織の言う通り、あじさいが色とりどりに咲いている。青色や紫色など、寒色系のあじさいは見ていて心が落ち着く。
スマホで写真を撮り、一周する頃には一時間ほど経っていたようで、時刻は一時過ぎとなっていた。
こういうところでピクニックするのも楽しいだろう。できるならお弁当を持ってきたかったが、伊織が人の手料理を食べられないタイプなら気をつかわせてしまうだけだ。
余計なことはしなくてよかったとひとり胸の中にしまう。
伊織も何枚か写真を撮っているようで、真剣にあじさいを見ていた。きっと伊織は美しいものが好きなのだろう。自分のことを教えてくれないのは寂しく思うが、こうして何気ないところから伊織のことを知ることができるのは素直に嬉しい。
「寧々ちゃんは、こういうの好き?」
あじさいを見つめていると突然伊織からそのようなことを聞かれて戸惑うものの、寧々はかわいいものが好きなので割と楽しい時間を過ごしている。
「うん、楽しいよ。私かわいいもの好きだから。それに、清水さんの趣味も知ることができたからね」
「俺の趣味?」
「そう。清水さん、綺麗なものが好きなんでしょう?」
寧々の率直な言葉に伊織は間を置いて頷いた。
「寧々ちゃんは綺麗なものに心惹かれること、あらへん?」
「感動したりすること?」
「せやで。綺麗なものを見ると、感動したり心が浄化されたりするやん? そういうのが好きなんよ。刺激を受けることもあるしな」
伊織の言いたいことが分かる気がする。目の保養にもなるし、心が安らいだりするからだ。
自動販売機があったので、寧々と伊織は雰囲気に合わせて緑茶を購入した。
近くにあったベンチで腰を下ろし、二人並んで座る。ペットボトルのキャップを開けて緑茶を飲む。のどが渇いていたので潤いが心地いい。
のどかな気分で休憩をしていると、顔に冷たい雫のようなものが落ちてきた。指先で確認すると、やはり濡れている。顔を上げるとぽつぽつと雨が降ってきたのが分かった。
「寧々ちゃん、すまへん、雨が降ってきてもうた、移動しよか」
今日の天気予報は一日晴れだったのに、梅雨という季節柄雨が降ってきてしまった。
寧々は念の為折りたたみ傘を持ってきていたので、バッグから取り出して傘を広げる。
「清水さん、中に入って」
「おおきに。入れさせてもらうわ」
寧々より頭一つ分背の高い伊織が小さい折りたたみ傘の中に入るだけで一気に狭くなる。二人とも大の大人だし何より伊織は男性だ。それだけで幅が取られる。
寧々はせめて伊織の肩が濡れないようにと持ち上げて傘を斜めにすれば、そっと伊織の手に取られてしまう。
伊織に視線を向ければ柔らかい微笑みが返ってきたかと思えば、ぐいと肩を抱き寄せられた。何事かと目で訴えても、優しい笑みを浮かべるだけ。
「傘くらい持たせてや。それと、女の子が身体を冷やしたらあかんで。もっとこっておいで」
小さな傘の中で、男女が肩を寄せ合う。触れているところはじんわりとぬくもりが伝わってあたたかい。声も響いて耳に届くから心臓に悪い。
好きな人に肩を抱かれるのはこんなにドキドキするのだと、乙女心が久しぶりに疼いて胸は高鳴る。
伊織がそれを分かってやっているのなら、タチが悪いと思う。こんな風に好きな人から思わせぶりな態度をとられたら、簡単に女の子はときめいてしまうのだから。
「ここの近くに喫茶店あるんやけど、雨やどりがてらお昼ご飯食べに行かへん?」
「……うん、そうしようか」
この状況にドキドキしてうまく話せない寧々に、伊織は目線を下げてちらりと寧々の様子を伺うように見てきた。
「寧々ちゃん、どうしたん?」
ここはなんていうのが正解なのだろう。寧々は答えを求めて考えあぐねる。
「もしかして、ドキドキしとる?」
言い当てられて寧々は肩が跳ねた。
それを見た伊織はくすくすと笑う。低い声で「かわええよ、寧々ちゃん」なんて耳元で言われたら、もう成す術などないだろう。
寧々は顔に熱が熱くなるのを感じ、今度こそ無口になるが伊織はそれ以上何かをしてくることはなかった。
それを寂しいと思うほど、心は伊織に捕まってしまっているのだ。
雨がしとしと降る中、二人は無言で道を歩く。傘の中は雨の音が響き、それもまた心地よかった。




