同棲生活の始まり
拓也の予想外な訪問から一カ月が経った。それから一度も接触がないので、拓也も諦めたのだろう。
友人から聞くとすっかり大人しくなったようで、そんな拓也は人でなしから人に成長してもらえるよう願うことしか寧々にはできなかった。
季節も十月を過ぎ、肌寒くなってきた。
寧々としてはそろそろ解消してもいい頃だと思うのだが、伊織が頑として首を振ってくれないせいで同棲生活が続いている。
寧々は今日こそはと伊織に突撃して、仮同棲生活を終わらせようとしていた。
「伊織さん、そろそろ私も家に帰りたいんだけど」
「あかん、何かあってからじゃ遅いんやで」
「そんな不吉なこと言わないで。それと、こういうことは段階を踏んできちんとしたいの」
寧々は色々すっ飛ばして仮初の同棲生活になっていることが嫌だった。安全面を考慮してくれたのはありがたいが、落ち着いた今は元の生活に戻りたいと思っている。
「あのね、話を聞いて欲しいの。私だって一緒にいられる今の生活は悪くないなって思ってる。でもね、本当に同棲するのならきちんとしたい。荷物だってまとめたい。なし崩しになるのが嫌なの」
「寧々……」
なあなあで宙ぶらりんな状態の今が嫌なのだ。同棲するなら今住んでいるアパートを解約したいし、荷物だってきちんとまとめておきたい。それに、お揃いの食器だって買いたいし、同棲するならやりたいことはちゃんとある。
それらを言葉にして、ようやく伊織に届いた。伊織の過去が過保護にさせているのは分かっているが、寧々は寧々だ。
「……俺が悪かった。寧々の気持ちを無視してなあなあにするのはずるいよな。ほんまに、ごめん」
「ううん、私こそうまく説明できなくてごめんなさい。でも、ちゃんと伝わって嬉しい」
「ということは、俺の家で同棲生活を改めて始めるってことでええ?」
「うん。よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくお願いします」
頭を撫でられて、その優しい力加減にほっとする。同棲は決まったのだ、これから忙しくなる。
新生活に胸が躍った。
寧々は友人や伊織に手伝ってもらい、引っ越しが終わった。友人達にはちょっとお高めのご飯をごちそうし、お礼をした。
それから本格的な同棲生活が始まった。
伊織が綺麗好きということが分かっていので、寧々もストレスなく同棲生活を楽しんでいた。
お互い仕事をしているから、家事は分担。
洗濯を溜めがちだった寧々だが、自分一人の生活ではなくなったので気をつけながら洗濯機を回すことができた。伊織宅の洗濯機が乾燥機付きだったこともある。天候が悪くても洗濯をできるのがストレスフリーでできるのもありがたい。
極めつけは、伊織の甘やかしが毎日あることが寧々の鼓動を早まらせていた。甘い言葉を囁かれ、好きやと事あるごとに言われるのだ。そんな生活が始まるとは思っていなかったので、心臓に悪い。
でも、嫌な気はしなかった。恥ずかしさはあれど、恋人に可愛いと言われ大切にされたらこの女冥利に尽きるというものだ。
アラームの鳴る音で目が覚めた寧々は、アラームを止めるためにスマホをタップする。時刻は六時半。
寧々は身体に絡まっている手足の枷をどかす。それで伊織は目が覚めたようで、寝起きの低い声で「おはよう」と挨拶をする。寧々も「おはよう」と言って伊織の頭を撫でる。寝癖のついた髪は、普段シャキッとしている伊織にはないものだから愛おしい。
「かわいい」
「寧々の方がかわええよ」
「ありがと」
洗面台には寧々の歯ブラシがある。同棲を始めて寧々用の日用品も置かせてもらったのだ。
顔を洗いスキンケアをして、歯磨きをする。そうしているうちに、遅れて伊織も洗面台にやってきて寧々同様歯磨きをした。
二人並んで歯磨きをしていると、同棲してるんだなあと妙に感心してしまう。
昨日の残りであるきんぴらごぼうとあさりのおみそ汁を白米と一緒に食べる。
それから化粧をして身支度を整えてから、いつも通りいってきますのキスをして出社する。
そんなルーティーンができあがり、寧々も慣れてきた。
週末になり、二人の休みが揃ったので新しい食器を買いに雑貨屋さんに見に行くことにした。
伊織に車で大型ショッピングモールに連れて行ってもらい、いろんなお店を見て回る。
どうせ新しく買うなら、お揃いのものがほしい。
とあるお店に入り、一つの食器に目が行った。ギフトセットになっている、三点揃ったシックな色合いのペアセットだ。ピンクと水色で色は可愛いし、伊織と使うのにいいと思う。
茶碗、マグカップ、プレートのセットになっており、合計五点で税込一万八千円だ。
ややお高めだが本格的な同棲生活を始めるにあたり、ケチっていてはダメな気がする。寧々はこれに決めた。
「伊織さん、私これのセットが欲しい」
「そう言うと思て、店員さんに在庫確認してもらってるで」
「さすが伊織さん! ……でも、これでいいの?」
「デザインもシンプルで使いやすそうやし、俺はかまへんで」
「ありがとう! じゃあ、これにしよう」
店員が確認したところ、まだ在庫は残っているらしい。レジで商品を確認させてもらい、買うことにした。
「伊織さん、これは二人の新生活が始まるお祝いとして買うから、折半でいい?」
「寧々ならそう言うと思たわ。それでええよ」
「ありがとう!」
二人でお代を折半し、一人九千円を払い合計一万八千円出して購入した。
紙袋を受け取り伊織が持ってくれるようなので、手を繋いで店内を歩く。
フードコートでお昼休憩をしていると、伊織がスマホを見てなんだか驚いている。なにかあったのだろうか。
「伊織さん、どうしたの?」
「場所が場所やから小声で言うわ。あのな、『きみが思い出になるまで』の映画化打診の話が来たんよ」
『きみが思い出になるまで』は、伊織の実話をフィクションにして書いた物語だ。悲しい恋の結末は、思い出にすることで主人公が昇華するお話。
それが映画化するということは、伊織の小説が世間に認められたということだ。
「おめでとう、伊織さん」
寧々の気持ちとしては未だ複雑だが、この感情が別のものになる頃にはもう少し成長しているのだろうか。
それでも、めでたいことには変わりない。寧々は再びおめでとうとお祝いをした。
「おおきに。まさか、こんな話が来るなんて思わへんかった。……俺はこの話を受けようと思うんやけど、寧々はどうや?」
「もちろん伊織さんを尊重するよ。私としてはまだちょっと複雑だけど、それは私の感情であって伊織さんの仕事には関係ないものだからね。だから、受けていいと思う」
「寧々……おおきに。俺、今、むっちゃ嬉しいわあ……」
伊織は涙ぐんでいた。過去の出来事を思い出しているのかもしれない。今もなお伊織の心の中に在り続ける理沙が羨ましいと思うし、どうしても嫉妬してしまう。そう思うのは、まだ寧々が精神的に未熟だからなのかもしれない。
自分が未熟だと分かっていても、伊織のことが好きだからそばにいたい。支えたい。愛しあいたい。それができるのは、生きている寧々にしかできないことだ。過去の人の理沙には、もう訪れることのない未来。そう考えると、申し訳なさで苦しくなる。
こんなことをくり返しているとは、理沙は知る由もないのだろう。
寧々は伊織にそっとハンカチを差し出した。それは、出会った時に伊織から渡された清潔なハンカチ。泣いてしまった寧々を慰めるためにわざわざ渡してくれた、あのハンカチだ。
それを伊織が覚えていなくてもいい。今は、そばにいて支えたい。
ハンカチを受け取った伊織は、わずかに微笑んで「あの時のやね」と言ってくれた。それだけで寧々は救われるのだ。




