新たな生活
「あかん、俺むっちゃ心配やわ。なあ寧々、しばらくの間うちに来うへん?」
「……確かに、また拓也が来たら嫌かも」
「そうやろ? 俺も心配やし、寧々を一人にしておけへん。俺のそばにおったら守ってあげられるし、その方がええよ」
拓也の襲撃を受け、心配性の伊織からの提案でしばらくの間伊織の家に避難することになったのだ。
一カ月ほど滞在できるように、荷物をまとめて伊織の車に乗せて伊織宅へと向かう。
日用品で必要になりそうなものは、コンビニで揃えて伊織の家に着いた。荷物はほとんど伊織が持ってくれたおかげで、寧々は通勤用バッグとお出かけ用のバッグの二つを持つだけで済んだ。
「お邪魔します」
「ただいま。それと、しばらくここは寧々の帰るところでもあるんやから、ただいまでええんとちゃう?」
「そうかな? ……じゃあ、ただいま」
「はい、おかえり」
伊織に「おかえり」と言われて、胸があたたかくなる。
すぐに使う歯ブラシは洗面台に置かせてもらった。タオルは借りることにして、身の回りのものだけは自分で用意しよう。
「俺、風呂に入ってくるから、寧々は先寝ててええよ」
「分かった。本当にありがとう」
「俺がやりたくてやってることなんやから、寧々は気にせんでええよ。おやすみ」
伊織は寧々の頭を優しく撫でて、風呂に入った。時刻は二十三時を過ぎている。こんな時間まで付き合ってくれた伊織の優しさが沁みる。
この家にはベッドが一つしかないので、当然伊織と寝ることになる。
一度だけこのベッドで眠ったことがあるのを思い出した。バーで出会って意識を失った時だ。伊織のようにできた人に面倒を見てもらえてよかったと心から思う。伊織でなければあの時どうなっていただろうか。考えるだけでも恐ろしい。
なんてことを考えながら歯磨きを済ませて、寧々はベッドの中に入った。
一人暮らしをしている伊織だが、ベッドが大きいことに気づいた。シングルではなくセミダブルのようだ。
大きいベッドの端にちょこんと寝ていると、その広さになんだか寂しくなる。早く伊織が戻ってきますようにと念じていると、寝室のドアが開いて待ち人が入ってきた。
「まだ起きてたんか」
「なんかちょっと寂しくて」
「そうか。ほな、一緒に寝よか」
「うん」
布団をめくり、伊織が中に入ってくる。抱き寄せられて、広い胸に飛び込んだ。お風呂上がりのいいにおいがする。身体はしっとりしていて湯上がりの色気がすごい。
よく見ると伊織の髪は若干濡れていた。もしかしたら、寧々のことを気づかって急いで入浴を済ませたのかもしれない。
「伊織さん、髪濡れてるよ」
「冷たかった? 悪い、すぐ乾かすわ」
「冷たくないよ、急がせて悪いなと思っただけ。だから、私にやらせて?」
「……ええの?」
「私がやりたいの」
「せやったら、任せるわ」
伊織からドライヤーを借りて、シャンプーの香りがする髪の毛を乾かしていく。細い髪の毛はサラサラしていて気持ちいい。やけどしないように適度に距離を取り、風を当てていく。
「寧々、もう大丈夫やで」
寧々がドライヤーを片付けようとすると、手で遮られた。伊織が顔を寄せてきたかと思えば、触れるだけのキスをされた。
「お礼」
伊織は寧々の手からドライヤーを取り、ついでに寝室の電気を消して脱衣所に戻り片付けに行った。
「……ほんと、ずるい」
寧々のつぶやきは伊織に届かない。
伊織が寝室に戻ってきて、再び抱き寄せらせれる。逞しい身体に抱かれるだけで、こうも安心できるとは。
「伊織さんの腕の中、すごく安心できる……」
「ほんま? 嬉しいわあ」
「うん、眠くなってきた……」
「ゆっくりおやすみ」
「うん、おやすみ……」
優しく背中をぽんぽんと叩かれると、心地いいリズム感とあたたかさにうとうとしてきた。伊織の低い声も相まって、安心できる場所なのだと頭が理解しているのだろう。
とろんとしてきた瞼を下ろし、呼吸をする。
それから一分もしないで意識がなくなり、夢の世界へと誘われる。
そんなこんなで伊織との仮同棲生活が始まった。
「……、寧々、起きてや。朝食できたで」
優しい声に起こされて目を覚ますと、伊織が微笑んで寧々を見つめていた。
「……もう朝?」
「そうやね。七時前や」
「ええ!?」
寧々は飛び起きた。いつもなら起きて支度をしている時間だからだ。今日は平日で仕事があるし急いで色々とやらなければと思ったが、職場までだと伊織の家からの方が近いのだと気づきほっとした。
伊織がせっかく朝食を作ってくれたので、一緒に食べよう。
寧々は身体を起こしベッドから起き上がった。
キッチンへ行くと、白米におみそ汁、焼き鮭に納豆があった。旅館に出てくる朝食のようでおいしそうだ。
「いただきます」
「はい、召し上がれ」
朝から焼いた魚が食べられるなんて贅沢である。寧々は鮭に箸を入れ、身をほぐす。ぱくりと口に含むと、身が締まっていておいしい。ほんのり甘さを感じ、白米とよく合う。
おみそ汁は豆腐とわかめの具が入っていた。寧々もよく使う具材なので嬉しい。
納豆は久しぶりに食べるとおいしいと思う。白米にかけて食べるとより旨みが増す。
「朝から焼き魚食べられるなんて思わなかった。ありがとうね」
「焼き鮭は免疫上がるからな、朝から食べた方がええねん」
昨日ストレスで免疫が下がることがあったから、わざわざ焼き鮭にしてくれたのだろう。そういった細やかな優しさに愛を感じられて嬉しく思う。
「ごちそうさまでした」
「お粗末様でした。寧々はこれから仕事やろ? 俺が片付けておくから、支度しいや」
「ごめん、ありがとう、助かる」
それから急いで化粧して歯磨きして……と身支度を整えて、寧々は出社した。
「寧々、忘れもん!」
「うそ、なに!?」
「これや」
振り返ると伊織の端正な顔が目の前にあった。触れるだけのキスをして、そっと離れる。
「行ってきますのちゅー、忘れてたで」
「なっ……!」
にこにこと微笑みながらそう言ってのける伊織に寧々は赤面した。まさか、行ってきますのキスをされるとはこれっぽっちも思っていなかったからだ。
「もう! びっくりしたじゃない」
「でも、嫌やないやろ」
「それは、そうだけど……」
「ほな、気をつけていってらっしゃい。帰り、待ってるで」
「……うん。いってきます」
寧々は玄関で手を振り、伊織に見送られながら出社した。伊織は相変わらず人をドキドキさせるのがうまいのだ。
お昼はいつも通り同期の岩澤といつもの定食屋でランチをとる。
岩澤に昨日あったことをかいつまんで説明すると、岩澤は拓也の行動にドン引きして、伊織のヒーローさながら寧々を助けたことで株は大上がりしたようだ。
「それにしても、拓也くんは何がしたいんだろうね。寧々には伊織さんがいるんだから諦めてくれたよね?」
「そうだよね、普通なら諦めるよね? 伊織さんも強く言ってくれたし、多分大丈夫だと思う」
「元恋人がストーカーになるなんて話も聞くし、本当に気をつけてね」
「うん。しばらくは伊織さんの家でお世話になるから大丈夫だと思う」
「それなら安心だね。……ということは、同棲生活気分を味わえるってこと!?」
岩澤の言葉に寧々は咽せる。それどころではなかったので伊織の家にお邪魔するだけだと思っていたが、実際は同棲のようなものだ。言われて初めて気づいた寧々は動揺する。
「伊織さんとの同棲生活、せっかくだから楽しんじゃいなよ」
同棲に至ったのは、拓也のせいだ。迷惑をかけていることに負い目があり色々悩んでいたが、そもそもは拓也が悪いのだ。
だから、寧々は気負う必要はないのだと岩澤は言ってくれている。それが心強くて嬉しかった。
「……そうだよね。せっかくだから、伊織さんとの生活を楽しむよ」
お昼休憩もあと少しで終わりという時に伊織から連絡がきた。今日の夜ご飯はどうするかという内容だった。
もちろん家で食べると返信すると伊織が作って待っていてくれるらしいので、残業はしないで帰れますようにとお祈りをしたところで午後の勤務が始まった。
お祈りが通じたのか残業はなしで定時で帰宅できた寧々は、伊織にこれから帰る旨を連絡した。
既に出来上がっているとのことなので、急いで帰ろう。
「ただいま」
「おかえり。今日は早いんやね」
「うん、残業なしで上がれた」
手洗いうがいをしてリビングに行くと、テーブルにはパン、クリームシチュー、温野菜、コーンスープが盛り付けられたお皿が並んでいた。
「今夜はクリームシチューやで。はよ食べよ」
「おいしそう! ありがとうね」
それぞれ椅子に座り「いただきます」と手を合わせる。
クリームシチューを食べると、隠し味に何か使っているのかすごい濃厚でクリーミーだ。スプーンが進む。
パンにクリームシチューを浸して食べるのもアリだろう。
健康面に気をつかってくれているのか、温野菜はしっとりしていておいしい。伊織お手製のドレッシングをかけると味変を楽しめていい。
コーンスープは市販のものらしいが、素朴な味わいでおいしい。
「実はな、クリームシチューはルーを使ってないんよ。俺のオリジナルレシピやねん」
「そうなんだ! すごくおいしい。今度レシピ教えて?」
「もちろんええで」
楽しく談笑しながら夜ご飯を食べる。いつもは一人で食べるから、伊織との食事は楽しくて癖になりそうだ。
伊織と話し合った結果、平日の料理番は伊織、土日祝日は寧々になった。寧々の仕事が平日であることから、時間に融通が効く伊織が空いている時間を見つけて作ってくれることになったのだ。
洗濯は交互にやる。伊織宅の洗濯機は乾燥機付きなので、時間や天候を気にすることなく洗濯できるのはいい。
ほかにも当番を決めて紙に書きそれをもとに家事をすることが決まった。新しく始まった同棲生活は、楽しいことだけを考えて行動することにした。




