元彼拓也の襲来
伊織との交際は順調に進んでおり、幸いなことに喧嘩をしたこともなかった。
そういえば、拓也とは違憲が衝突する度に言い合いをしていたことを思い出す。喧嘩するほど仲がいいなんて言葉はあるが、人によるのではないだろうか。
拓也との一件以降共通の友人達なのだが、男子は拓也側に、女子は寧々側についた。そのせいで男女間に亀裂が入ってしまい、なかなか連絡が取れずにいた。男友達は縁が切れても仕方ないと思うが、女友達は失いたくない。
久しぶりに連絡すると、友達は寧々の様子を伺っていたようだった。何度か食事に誘われていたが、拓也のことを思い出してしまい断っていたのが申し訳なく思う。
新しい恋人ができて幸せにしていることを伝えると、今元気にしているのならと、きな臭い話を教えてくれた。
どうやら拓也は浮気相手の女性とうまくいっていないらしく、寧々の様子を知りたがっているのだそうだ。
今更何をしたいのか疑問に思うが、寧々はもう切れた人と繋がる気はなかった。
──そんな風に思っていたのに。
「どうして今更連絡なんかしてくるの?」
寧々の視線の先にはスマホの画面が照らされている。誰かからメッセージが届いたとスマホを見れば、相手はブロックされたいたはずの拓也からだったのだ。
寧々はこの男に言い返してやろうと何件かメッセージを送っていたのに、それら全て無視して「話がある」と自分勝手に送ってきたのだ。
寧々はとりあえず既読だけつけて無視をすることにした。返信する義理はないし、何より今は伊織がいる。彼を大切にしたいし、馬鹿なことをした男なんてもう知らない。
無視を決め込んでからというもの、既読をつけたのがまずかったみたいであれから時々連絡がくるようになった。
俺が間違っていた。
寧々のご飯が食べたい。
また会えるよな?
会いたい。
こんな内容の一言メッセージがほぼ毎日届くのだ。いい加減うっとうしいからやめてくれと返信でもしようかと悩んでいたところで、急に拓也から電話がかかってきた。
出るかどうか迷っていると、向こうから切られてしまった。途中で切るなら電話するなよ思ったが、またしてもかかってきた。
仕事が終わり、家でまったりしていることを知っているからだろう。だからといって、電話に保証なんて何もないというのに。
寧々は再び無視をしてお風呂に入った。
入浴後、スマホを確認すると「今から寧々の家に行く」という目を疑うメッセージが入っていた。それが届いたのは二十一時前。今は二十一時半を過ぎたところ。もしかしたから、本当に来るのかもしれない。
伊織にはこんなくだらないことで迷惑をかけたくなかったから言っていなかったが、もしものために連絡しておいた方がいいかもしれない。
寧々は伊織に電話すると三コールで応答してくれた。
「もしもし、伊織さん? 今大丈夫?」
『うん、大丈夫やで。どうしたん?』
「ちょっと、緊急で話したいことがあって……」
寧々は電話口で最近あった拓也との出来事をかいつまんで話した。最初こそ穏やかだったが、寧々の身に起きたことを知ると雰囲気で怒っているのが分かる。
『あんのボンクラ男、まだ寧々に執着しとるんか』
「そうみたいなの。どうしよう、これから本当に来るかもしれない」
『もし、そうなったら何があるか分からへんから、これから俺も行くわ』
普段なら遠慮していただろう。
だが、今の状況はそうもいっていられない。寧々は頼りになる恋人に頭を下げてお願いした。電話を切り、居留守を使うため部屋中の電気を消して、祈るような気持ちで伊織を待っていたその時だった。ピンポンとチャイムが鳴ったのだ。
「寧々、いるんだろ? 開けてくれよ」
昔の関係なら、喜んで開けただろう。
でも、今は赤の他人だ。そんな関係性の人がこんな夜にドアを開けると思っているのだろうか。こんな不躾な人じゃなかったのに、もう少しまともな感性を持っていたはずなのに。そんな拓也はもうどこにもいないのだ。
「寧々、おい、寧々」
ドアをバンバン叩き、音が鳴り響く。居留守がバレているのかもしれない。
いつまでも叩かれては近所迷惑になる。寧々は仕方なく開けることにした。もちろん、チェーン越しである。
「……なに?」
「なんだ、やっぱりいるじゃねえか。ここ開けてくれよ、話がしたいんだ」
「無理。今更何の用なの?」
「それを話すから開けてくれよ」
押し問答が続きこのままでは長引きそうだと思ったので、本当に仕方なく条件付きで家に上げることにした。
「騒いだり手あげたりしたら警察呼ぶからね」
「女相手にそんなことしねえよ」
「どうだか」
家の奥まで入れたくなかったので、玄関入ってすぐにあるリビングに通した。
「お前の家、変わってないな」
懐かしむように拓也はそう言う。この家は変わったのだ。それは、拓也に関連するものが全て捨てられたこと。写真だって飾っていたのに、それを忘れたのか何も触れてこなかった。
「で? 話ってなに?」
「……ああ、まずは謝らせてくれ。俺が悪かった」
拓也はばっと頭を下げた。それくらい当然なので、別段なんとも思わない。
何も言わない寧々に痺れを切らした拓也は、身の上話をつらつらと話し始めた。
寧々より若い女の子、ユリを妊娠させたので結婚するはずだったのだが、それはユリのついた嘘。ユリは恋人がいる女から男(拓也)を奪いたくて嘘をついたのだ。
拓也はユリから流産したと告げられて安くない堕胎費用を渡し、泣いている彼女を慰めた。
それからというもの、度々お金をせがまれることがあったが、用途を聞くとさめざめと泣いて誤魔化すのだという。
そんなやり取りが数ヶ月続き、金銭的に厳しくなってきた拓也はやんわりと断った。
すると、拓也が驚くくらいヒステリックになって暴れ、お金を渡さないと癇癪が治らないのだそうだ。
それが続き段々嫌になってきた拓也は、肌身離さず持ち歩いているスマホをたまたまユリがトイレに行ったタイミングでメッセージの通知が来たことにより画面が明るくなってやり取りが見えてしまったことがきっかけだという。
そうして、拓也は騙されていると気づきその場でユリに別れを告げた。
「なあ寧々、俺達もう一度やり直そう」
「無理だよ、私真剣に付き合ってる人いるから」
「はあ? 俺と別れてからそんなに経ってないのに、もう別の男と付き合ってんのかよ」
どこまでも自分本位な拓也に腹が立った。そっちは寧々と付き合っている時に浮気したくせに、なんて言い草をするのだ。
「そんなの拓也に関係ないじゃん! 伊織さんは拓也と違って誠実だし、ちゃんと私を愛してくれてるの!」
伊織という人がいかに誠実かを説いていると、来客を告げるピンポンが鳴った。おそらく伊織だろう。
「こんな時間に誰だよ」
「それをあんたが言う?」
「う、それは……」
丸穴で確認するとやはり伊織だったので、寧々は玄関を開けて迎え入れた。
「夜分遅くに悪い。……で、そこの彼が拓也くんね」
「あんた、誰だよ」
「俺は寧々の恋人や。よろしゅう」
「あんたが?」
拓也もイケメンと称される部類に入るが、伊織は別格だ。誰が見ても美男子と答える美しさがある。すらっと伸びた手足に高い身長、艶のある髪の毛に切れ長の瞳。改めて見ると、あまりの美男子っぷりに惚れ惚れする。
「あんた、寧々と別れたんやから今は他人やろ。そんな人が夜遅くに女性の一人暮らしの家に訪問するんはどうかと思うで」
「うるさいな、あんたに関係ないだろ。これは俺と寧々の問題なんだよ」
突っぱねる拓也に伊織は不快感を露わにした。
「関係なくはないやろ。寧々の今の恋人は俺なんや、大事な恋人を守るのは理にかなってる。とりあえず、今日は帰ってもろてええ?」
「はあ? なんであんたの言うこと聞かなきゃいけないんだよ」
「恋人が元彼にストーカーされとるって通報してもええんやぞ。ヨリ戻そうとしてるんやろうけど、今の寧々の恋人は俺や。邪魔すんのやったら、徹底的にやるで」
凄みのある声と顔で高身長の男性が言うだけで恐ろしく感じる。それは拓也も一緒だったのだろう、腰が引けていた。
「……チッ、分かったよ」
「私には伊織さんがいるから拓也とはヨリ戻さないから。それに、拓也のこと大嫌いなの」
寧々からそんなことを言われるとは思っていなかったのだろう、拓也は悲しそうな顔をして「そうかよ」と小さな声で言った。
「そういうことなんで、さようなら拓也くん」
拓也の去り際につぶやいた「うさんくせえやつ」という言葉に、寧々はまたしても腹が立った。本当にあんな人ではなかったのに、何が彼をそうさせてしまったのだろう。
拓也が帰宅して、寧々はほっと息をついた。緊張感が漂う部屋で、伊織は何を思ったのだろうか。
「伊織さん、呼び出してごめんね」
「ええよ、寧々はなあんも悪くあらへんやん。元彼くんはどうやら寧々とヨリを戻そうとしてるみたいやね。ほんま、意味が分からへん」
「なんか、拓也は騙されてた? みたいで……」
寧々は拓也の身に起こったことを話し出した。
ユリという若い女性の妊娠は嘘だったこと、恋人のいる女から男を奪いたかったこと、拓也を金ヅルにしていたこと──。
「騙された拓也も悪いけど、ユリさんという人もなかなか悪どいをことをするよね……。もちろん、同情はできないけど」
「そんなん、全部拓也くんが悪いに決まってるやん。寧々は気にせんでええよ」
「……そうだよね、もう終わったことだし」
「こんなこと言いたないけど、俺は拓也くんが嫌いや。やることなすことの全部が無責任やし、寧々を傷つけた人でなしやからな」
「伊織さん……」
どこまでも寧々を想って言葉を言ってくれる伊織の優しさに、なんだか泣きそうになる。伊織の胸に抱きついた。そっと優しく抱きしめ返してくれる伊織に、力強く抱きしめ返した。
寧々には伊織という恋人がいて、その彼は寧々のことを全力で愛していることも伝わったはずだ。渋々といった様子ではあったが、自分の足で家から出て行ったしもう来ることはないだろう。
拓也は無条件で自分を愛してくれる人が欲しかったのかもしれない。そうでなければ、別れた元恋人のところにわざわざ来るなんてことはしないはずだから。
もう、終わった話なのだ。




