小説作家水川累の脱スランプ
「それや」
「え?」
「今むっちゃええ感じの言葉が浮かんだんや! 途中で悪いんやけど、書いてくる!」
バタバタと伊織は走って部屋へと篭ってしまった。何か閃いたらしい。あんな風に無邪気な顔をするとは思わなかったので、予想外のことに戸惑いはするが仕事のプラスになったならよかった。
残された寧々は伊織の仕事が終わるよう願いを込めて、お皿を片付けた。
それからすることがなくなったので、リビングでテレビをぼーっと見ていた。バラエティ番組がやっているが、どうしてか頭の中に入ってこない。いつもならお風呂に入っている時間だからだろう。
伊織のスマホに「お風呂借ります」とメッセージを送り、シャワーを浴びることにした。勝手にお風呂を沸かすわけにはいかなかったので、今日はシャワーだけ済ませた。
ふわふわでいいにおいのするバスタオルを拝借し、身体の水気を拭っていく。普段伊織は香水をつけているので彼からは柔軟剤の香りはしないのだが、家にあるものは洗濯されたいいにおいのするもので溢れている。
なんだか変態くさくなったので、あれこれ考えるのはやめよう。
ドライヤーで髪を乾かし、スキンケアをする。
寧々がお風呂から上がると伊織はまだ執筆中のようでリビングにはいなかった。
スマホを確認しても既読はついていない。どうやら周りの音が聞こえないくらい集中しているようだ。
スランプで原稿が思うように進まないと言っていたが、寧々の何気ない一言で仕事が捗ったみたいでなんだか嬉しくなる。
お風呂上がりなのでコップ一杯のお茶を飲み、脱水症にならないようにする。夏場は汗もかくので水分補給はきちんとしないと後で響く。
暇になった寧々はSNSを見ることにした。
動画やバズっている投稿を見たりあれこれしていると、あっという間に十一時を過ぎていた。
伊織が仕事モードに入って約四時間になる。そろそろ終わるかなと思っていたら、リビングに伊織が現れた。
「脱稿した! 終わったで!」
「うわっ」
寧々の姿を認めると、伊織は思い切り抱きついてきた。ぎゅうぎゅうと抱きしめられ、少し苦しい。終わった、おおきにとくり返し言うものだから、それほどまでに嬉しいのだろう。寧々には分からないが、作家の仕事はどうやらすごく大変のようだ。
寧々は抱きしめ返し、二人で抱き合う。
「お疲れ様でした」
「ほんまよう終わったわ。寧々のおかげや、おおきに」
伊織にしては珍しくテンションが高い。仕事が終わってハイにでもなっているのだろうか。
「伊織さん、なんだかテンション高いね?」
「そうや、やっと原稿が終わったんやから、ハイにでもなるやろ」
「そ、そっか」
「寧々のおかげやわ。ほんまおおきに、えらい助かった」
「それならよかったよ」
頭をぐりぐりと擦り付けらたかと思えば、首元ですんすんとにおいを嗅がれ寧々は固まる。
「ちょ、伊織さん!?」
「寧々から俺と同じにおいすると思ったら、風呂上がりなんやね。よう見たらパジャマやし、待たせて悪かった」
「気にしないで、伊織さんはお仕事なんだから。それと、お風呂ありがとう。まだ沸かしてないんだけど、お風呂入るなら沸かそうか?」
「自分でやるからええよ。今は寧々を堪能させて」
ちゅっちゅと首にキスをされくすぐったい。鎖骨まで唇が降りたかと思えば、軽く吸われて驚く。
「伊織さん……!」
「黙って」
今度は唇にキスをされた。噛み付くような荒々しい口付けは、嫌でも前回の情事を思い出してしまう。鼻から抜けるくぐもった声は、寧々の耳を刺激する。
「はあ、ま、まって……!」
伊織の胸をドンドン叩くと、激しいキスは終わり唇が離れていく。
「ごめん、ついスイッチが入ってもうた。……風呂入ってくるから、寧々は寝室で待っててくれへん? その後に続き、しよ?」
伊織の瞳は熱を孕み、射抜く視線からは目が逸らせない。寧々は頷くことしかできなかった。
「ん、ええ子やね」
唇に触れるだけのキスをして、伊織は風呂場に向かった。
寧々は今更になって腰が抜け、へなへなと座り込む。あんなに雄々しい伊織は滅多に見ることができない。
「かっこよすぎ……」
寧々のひとりごとは伊織には届かない。
目が覚めると、目の前にきれいな顔があった。伊織だ。
あの後お風呂から出てきた伊織とそういう流れになり、なし崩しでベッドに入ったのだった。
遮光カーテンだから朝日が入りにくいのだろうが、寧々の体感的に朝を迎えている気がする。
朝食を作るためにそろりとベッドから起き上がり、そっと抜け出す。京都旅行の時は気づかれてベッドに戻されてしまったが、今日は大丈夫だった。連日の疲れのせいもあり、ぐっすり眠っているようだった。
まずは顔を洗い歯磨きをする。服を着替えてキッチンに立ち、朝食は何がいいか考える。和食なら食べやすくていいかもしれない。
まずはお米を炊く。次におみそ汁用にお鍋に水とお麩を入れ沸騰する直前まで煮立たせる。
卵があるので目玉焼きにしよう。フライパンに油を敷いて熱が浸透するまで待ち、生卵二個を割り入れる。ウインナーは昨日買ったので、それも入れて一緒に焼く。半熟にしたいので、途中から弱火で蒸し焼きにする。
おみそ汁のお水がいい感じに煮立ったので、火を消してだしのもととみそを適量入れて、味見する。味が整ったのでおみそ汁は完成だ。
目玉焼きも程よく火が通ったみたいなので、火を消した。
彩りが欲しいので、サラダを追加する。カットキャベツにミニトマトを添える。
全てお皿によそってテーブルに並べたらできあがり。
寝室で寝ている伊織を起こしに行くと、まだぐっすり眠っているようだった。起こすかどうか迷ったが、伊織が身じろぎしたので起こすことにした。
「伊織さん、朝だよ」
「……もう朝?」
「うん。朝食作ったけど食べる?」
「ほんま? そうやね、食べるわ」
ベッドからのそのそと起き上がり、伊織は伸びをした。
「寧々、おはよう」
「おはよう、伊織さん」
「朝食作ってくれたんやったね、おおきに。早速食べよか」
「うん」
寝室を出てリビングに移動する。二人分の朝食が並べられ、伊織は感嘆の声を上げた。
「わざわざおみそ汁作ってくれたん?」
「おかずが欲しかったからね」
「おおきに。ほな、食べよか」
向かい合って座り「いただきます」と手を合わせて挨拶をする。
談笑しながら食べ進め、あっという間に食べ終わった。
「昨日はなんも説明できなくて悪かった。原稿は仕上げて最後の確認も終わって、データ送ったところで気分ようなってもうてなあ。寧々見たら抑え効かなくなってん」
「そういうことだったんだ。お仕事お疲れ様です」
「うん、あとは担当者から返信くるのを待つだけや」
昨日伊織が仕上げた原稿がいずれ本になるのが楽しみだ。水川累のファンである寧々はあらすじを聞きたくなったが、ファンを名乗るのなら弁えておきたい。世に出るまで大人しく待とう。
「今日は時間が空いたから一緒に居よか」
「ほんとう? 嬉しい!」
「どこか行く? それとも、家でゆっくりする?」
寧々は遊びに行くでもいいし、家でまったりするのもどちらでもよかった。
しかし、伊織は連日の徹夜で疲れ切っている。そんな彼を連れ回すのは酷だろう。
「今日はおうちデートがいいな」
「ん、分かった。サブスクで映画でも観よか」
「うん」
こうしてそばに寄り添って一緒に居られるだけで幸せだ。寧々は伊織の腕を組み、そっと頭を預けた。




