甘えて、甘えられる
海の家でご飯を食べて、お昼を満喫した二人は浜辺で休憩することにした。
寧々はタオルで水気を取り、パーカーを羽織る。伊織も同様にしてパーカーを羽織った。
パラソルの下は日陰になっているので、炎天下の下にいるより遥かにましだ。
伊織の肩に頭をこてんと乗せ、寧々はもたれかかった。
「甘えたいん?」
「そんなところ」
「……あかん、そんなかわええことされたら歯止めきかなくなるやろ」
切ない視線を受けて寧々はくすぐったくなる。今まで伊織に振り回されていた分、こうしてやり返せるのがこんなにも胸が満たされるとは思わなかった。
そっと手を握ると、優しい力で握り返された。
周りは喧騒でやかましいが、二人の間には穏やかな時間が流れていた。
しばらく休憩した後、お互いパーカーを脱いで再び海の中に入る。
浮き輪の中に入り、伊織に手を引っ張ってもらいながら海の中を進む。あまり奥に進むと危ないので、お互い顔が出ているところまでの高さで楽しむ。
三時も過ぎ、時間的には早いかもしれないが二人は帰ることにした。
シャワーを浴びて海水と砂を落としていく。べたべたする肌は気持ち悪いし、きれいな水で流していく。髪も丁寧に洗い、キシキシした感じがなくなった。
寧々がシャワーを済ませると、既に伊織は終わっていたらしく待ってくれていた。
寧々の姿を見つけて嬉しそうに微笑む伊織はどこか可愛らしい。
「お待たせ」
「俺もさっき終わったばかりやから、気にせんでええよ」
車に戻り、荷物を詰めていく。楽しい時間は終わるのが早いもので、気持ちがしぼんでいくのがなんだか寂しい。
寧々は助手席に乗り込み、伊織が運転席に座る。鍵を差し込んでもエンジンをかけない伊織を不思議に思いじっと見ていると、端正な顔が近づいて来た。寧々は瞼を閉じ、キスを受け入れる。何度か触れるだけのキスをくり返し、そっと離れていく。
「かわええ寧々にようやくキスできたわ」
柔らかく微笑み、とんでもないことを言われた寧々は赤面する。はっきり物を言うので可愛げのない女だと自覚しているのに、伊織はいつだって寧々を「かわええ」と言ってくれるのだ。大好きな恋人からそんな風に甘やかされたら、自分は本当に可愛いのではないかと錯覚してしまう。
伊織の甘さは毒のように寧々の身体にじわじわと染み込んでいく。
「……もう、伊織さんは私に甘過ぎ」
「彼女を甘やかして何が悪いん?」
「それは……」
頬を優しい手つきで撫でられて、とろけるような甘い顔でこちらを見つめる伊織から視線を逸らせない。まるで俺を見ていろと言っているような力強い視線に絡め取られ、すっと落ちていく。
「なあんも悪いことなんてあらへんよ。寧々は俺に愛されていればええねん」
もう一度触れるだけの優しいキスをされる。弾力のある唇に触れられて気持ちいい。もう少し触れていたいと思うのに、いつの間にか身体ごと離れていって車のエンジンをかけた。少しでも寧々に名残惜しさを感じさせた伊織の勝ちだ。またしても寧々は負けてしまった。
「伊織さんは本当にずるい」
「おおきに。もっと俺のことだけ考えてや」
流し目でちらりとこちらを見る伊織はひどく楽しそうだった。
夕方になり見慣れた東京の街に戻って来た二人は、本来の予定なら寧々を家まで送って解散だったのだが、まださようならするには早い気がしたので、ファミレスで夜ご飯を食べることにした。
まだ夜ご飯を食べるには早い時間なので、店内は混雑しておらず四人席を通された。向かい合うように座り、メニューを広げる。
「メニュー見てたらお腹空いてきたかも。伊織さんは何食べる?」
「俺もお腹空いたからガッツリ食べよかなあ。ハンバーグセットとドリンクバーにするわ。サラダとピザ半分食べへん?」
「食べる! 私はそうだなあ……。オムライスにする」
「寧々はほんまにオムライスが好きなんやね」
そういえば、伊織と初めてデートしたのがお気に入りのオムライス店だった。あの時はまだ好きなんて感情はなかったが、大好きなお店の布教ができてよかったくらいにしか思わなかったのに、今ではいい思い出になっているのが面白いと思う。
「本当だね。写真も撮れたし楽しかったな」
「俺も楽しかったで」
思い出話に花が咲く。伊織は相手に話をさせるのがうまいから、出会った時も気持ちよくこちらの話ができたのだろう。
タブレットで注文をして、ドリンクを取りに行く。
寧々と伊織はアイスティーを入れ、席に戻り喉を潤す。飲み慣れた味だが、こういうところで飲むアイスティーはとてもおいしい。
「今日は寧々と遊びたかったのもあるんやけど、原稿の息抜きも兼ねてるんよ」
唐突な伊織の言葉に寧々は最初意味が分からなかったが、彼の仕事を思い出して納得する。伊織は寧々の大好きな小説作家・水川累なのだ。
「ということは、今忙しいの?」
「忙しいというよりは、捗ってないの方が正しいかな」
はあ、とため息をついて苦い笑みを浮かべる。水川は多種多様なジャンルの小説を書くことができる、いわゆるオールラウンダーの作家だ。そんな伊織が仕事のことで寧々に愚痴をこぼすなんて意外である。
「捗らないって、それ、大丈夫なの?」
「大丈夫ではないなあ。正直なことを言うと、スランプやねん」
「そうなんだ……」
水川累は定期的に面白い小説を書き上げるので、寧々からすれば伊織には天職のように思っていたが、それでもうまくいかない時もあるようだ。
「私にできることがあったら何でも手伝うから、遠慮なく言ってね」
「おおきに。とりあえず今は一人でどうにかする。もし、本当にだめそうな時は頼ってもええかな……?」
珍しく弱気な伊織はどうやら本当に参っているようだ。水川累の大ファンである寧々からすれば面白いものを書き上げてほしいと思うが、大切な恋人である伊織には無理をしてほしくない。
寧々に頼られることを好む伊織が、頼ってもいいか聞いてきたのだ。恋人とはお互いを支え合うものだと思っている寧々は、信頼の証のようで嬉しくなった。
「もちろん! いつでも頼ってね」
サラダとピザが届いたので、寧々が取り分けようとしたら伊織が率先してやってくれた。
「はい、どうぞ」
「ありがとう」
寧々は取り皿を受け取った。伊織も自分の分をよそったので「いただきます」と声を揃えて挨拶をした。
シャキシャキの新鮮なレタスにシーザードレッシングがよく合う。クルトンのザクザク食感が楽しい。
ピザはシーフードピザを頼んだ。ぷりぷりの海老とホタテの貝柱、チーズが絶妙に混ざり合いとても美味だ。伸びるチーズがなんとも楽しい。
「お待たせしました、オムライスとハンバーグセットです」
寧々はオムライスを、伊織はハンバーグセットを目の前に置いてもらい礼を言う。
スプーンで一口掬うと湯気が立ち上がり熱そうだ。ぱくりと食べるとトマトソースと卵、チキンライスが口の中で混ざり一つの味になっていく。オムライスが好きな寧々は大変満足である。
「オムライスおいしい、最高」
「寧々はオムライスが好きなんやね」
「うん、大好き」
寧々がオムライス好きなことを分かってくれたのがおいしかった。
「……一口いる?」
それは、「あーんする?」の提案であった。うら若い学生カップルでもないが、なぜかそうしたくなった。昼は平気だったのに、今は少し恥ずかしい。それでも、伊織にそうしたいと思った寧々は半ばヤケクソになり、オムライスをひと匙掬い、伊織に口元に近づけた。
伊織は瞬いた。次には笑顔になり、口を開けて食べてくれたのが面映くも嬉しかった。
「次は寧々の番やね。はい、あーん」
「あ、あーん」
少し大きめに切られたハンバーグを食べる。デミグラスソースとお肉の相性は抜群だ。噛む度に肉のうまみが滲み出ておいしい。
「やっぱりお肉は最高!」
「もう一口いる?」
「ううん、大丈夫だよ。ありがとうね」
寧々の好物はオムライスだが、お肉は別格だ。大好きである。お肉はいつ食べてもおいしいし、幸せな気分になる。
幸せな夕食の時間を過ごし、夜は更けていく。
ファミレスで夜ご飯を食べ終わってから、伊織に車で送ってもらう。別れの時間はあっという間にくるもので、楽しかった一日も終わりを迎える。
「また来年も海行こうね」
「そうやね、約束や」
「うん、約束」
いつだかのように、ゆびきりげんまんをした。あの時は次のデートの約束をした時だった気がする。今回は来年もまた海に行く約束だ。これが嘘にならないことを願いながら小指を絡めた。どうかまた来年も伊織と海に行けますように。




