夏祭りはあじさいとともに
七月に入り、本格的な暑さが毎日を襲う。朝起きた時にはじんわりとした暑さがやってくるし、出勤の時間は日照りのせいで日傘が必須だ。
寧々はうんざりとする暑さのせいで気だるい日々が続いていたが、気分は悪くない。
なぜならば、夏の定番であるお祭りデートに誘われたからである。相手はもちろん伊織だ。新しい浴衣も新調したし、髪留めもバッグもばっちりだ。
あとは仕事を頑張るだけなので、俄然やる気が出るというものだ。
「っていうかさ、清水さんって恋人いるの?」
同僚の岩澤が衝撃的なことを言い放った。ランチでいつもの定食屋に来ていた寧々は、あまりの衝撃に箸を落としてしまう。
「あ、落としちゃった……」
「篠原ちゃん大丈夫? すみません、お箸ください」
寧々は店員から箸を受け取り、礼を言った。
「清水さんは恋人いない……と思う」
「ええ? なにそれ」
「私、清水さんのこと、名前と年齢、職業しか知らないんだよね……」
「……ああ、デート一回につき自分のことを教えるとかいう、あれのせいか」
初対面の時からうさんくさい雰囲気のあった伊織は、それなりの付き合いが経つというのに相変わらず秘密主義で自分のことは教えてくれない。
寧々としては好きな人とデートできるのは心が踊るが、伊織はどうなのだろうか。無責任な人には思えない善良性があるため、恋人はいないと信じたい。
そうでなければ、恋人がいるのに他の人に手を出すどこかのクズ男を思い出すからだ。
「うん、清水さんは恋人いないと思う」
「おお、断言した」
「だって、拓也のこと嫌いっぽかったし、真面目な人なんだよ、きっと」
「あのクズ男が嫌いなら、ちゃんとした人なのかもね」
「うん、そうだよ」
寧々は自分に言い聞かせるようにして、岩澤を納得させた。
もし、伊織に恋人がいたならどうしようと思う心に蓋をした。伊織のことを信じたいし、思わせぶりな態度を取るくせに恋人がいるような人だと思いたくないから。
次のデートで聞くことはもう決めた。恋人の有無だ。
デート当日、寧々はゆっくり起きて昼ご飯をしっかり食べてから支度を始めた。
今は夏なので、汗や皮脂が目立ってしまわないように念入りに拭き取る。夕方から落ち合うとはいえ、無様なところを晒したくない。
念入りにスキンケアをして、ファンデーションを肌に押し込んでいく。
それから眉や瞼に色を乗せて、伊織に少しでもかわいいと思ってもらえるような、そんな女性になるために仕上げる。
髪はシニヨンにして、髪留めはあじさいの鮮やかな青が目を引くかんざしをそっと差し込む。
あじさいの花言葉は移り気や浮気などあるが、そもそも恋人ですらないので関係ない。花言葉も素敵だが、それよりも伊織との思い出を大切にしたい。寧々はそんな想いを込めてあじさいのかんざしにしたのだ。
もちろん浴衣もあじさいの花柄を選んだ。かんざしは青色のあじさいにしたから、浴衣は紫色の上品な色が素敵な浴衣にしたのだ。
ネットで着方の練習をした甲斐があり、今日はうまく着ることができた気がする。
バッグももちろんあじさいの柄。こちらは水色の淡い色が優しさを見せてくれる色なので、あじさいのものを身にまとってもあじさい同士が喧嘩することはないだろう。
下駄も履き、準備万端である。
待ち合わせ場所まではもちろん電車だ。夏祭りに行くであろう人で混雑している。友達同士楽しむ人、家族、恋人や夫婦で来ている人など様々なようで、みんな今日という日を心待ちにしていたに違いない。
待ち合わせ場所まで着くと、相変わらず時間より前に来ている伊織の姿があった。彼も浴衣を着ているようで、ネイビーのシックな浴衣は大変にあっている。センターパートの髪はワックスで固められており、パキッとした印象に見える。
そして、いつもの通り女性に囲まれていた。伊織にしては珍しく無視を決め込んでいるようで、寧々が近づいて「清水さん」と声をかけると、こちらに気づいた伊織が柔らかい笑顔を向けてくれた。
「こんばんは、寧々ちゃん。待ってたで」
「遅れてごめん」
「いや、俺が早すぎるだけやから。そういうことやから、あんたら離れてくれへん? 俺は寧々ちゃんとデートなんよ」
寧々が来て様子を伺っていた女性三人組は、苛立たしげにそう言う伊織に戦いて小走りでどこかへと消えて行った。
「清水さん、今のはちょっとだめかも」
「なんで? 寧々ちゃんは嫌な気せえへんの?」
「いや、もちろん嫌なんだけど……。でも、あの人達がちょっと可哀想だったから」
「……ふうん。ほんま、寧々ちゃんはおひとよしやね」
「おひとよしではないと思うけどなあ」
「まあ、俺には寧々ちゃんだけやし、それを寧々ちゃんも分かってくれてたらええわ。ほな、行こか」
伊織は寧々の手を取って歩き出した。今まで数回ほどデートをしてきたが、手を繋いで歩いたのは初めてだ。緊張で手汗をかいてしまいそう。
気持ち悪いと思われたら嫌なので、寧々はそっと手を引き抜こうとしたら、強い力でぎゅうと握られてしまった。
「離さへんよ」
流し目で見られて、寧々はドキドキする。
こくこく頷くと、納得してくれたのか握る手が優しい力加減に変わった。
珍しく二人の間に沈黙が落ちる。それが気まずいというわけではないが、高鳴る心臓の音を気づかれてしまいそうで、寧々は「そういえば」と話題を振った。
「清水さんも浴衣なんだね。すごく似合ってるよ」
「おおきに。寧々ちゃんはえらいかわいらしいで。今日のためにあれこれ準備してくれはったんやなあって分かるのも、ほんまにかわええ」
伊織は繋がれてないもう片方の手を口元に寄せて、くすくす笑っている。はんなりとした京男子は、そういう艶やかな仕草がよく似合う。
伊織はくすくす笑いながら寧々の手を引いた。繋がれた手は熱を帯び、火照る身体はじんわりと熱い。
そして、伊織は意味ありげに視線を寄越し、とどめの一言を添えた。
「ほんまに、あじさいが"好き"なんやね」
それから二人はしばらく無言のまま歩いた。ごきげんな伊織と、恥ずかしくてそれどころではない寧々の妙な二人組だったが、熱気と喧騒で浮くことはなかった。
「まずはどこから行く?」
少ししてようやく落ち着いてきた寧々は、周りを物色している伊織に尋ねた。
「寧々ちゃんはどこから見たい?」
「私は……」
辺りをきょろきょろ見て、目当ての店があるか確認すると、斜め向かいのところにあったので「あそこ行きたい」と笑顔で言った。
「ぶどうあめね、行こか」
「うん」
伊織がぶどうあめを二つ買った。一つは寧々に、もう一つは自分用に。寧々は財布を取り出すと、伊織に固辞された。
「でも」
「ええから。かわええ寧々ちゃんにだけ、特別扱いさせて」
困る。そんな風に言われたら、どうしたって期待してしまう。
「寧々ちゃんはええ子やから、素直にうんって言えるやんな?」
「……うん」
「ふふ、ええ子やね」
目を細めながら微笑む伊織は、やはりごきげんで楽しそうにしている。
甘いぶどうあめはいつも以上に甘くて胸焼けしそうだ。
再び繋がれた手は大きくて、嫌でも意識してしまう。
「寧々ちゃん、たこ焼き食べへん?」
伊織の指差す先には鉄板で焼かれたたこ焼きのいいにおいがした。たこ焼きは人気のようで人が並んでいるが、食欲を刺激されるこのにおいに抗えるわけがない。
「いいにおいだね、食べたい」
「ほな、並ぼうか」
「うん」
いつの間にか日が落ちており、赤く染まっていた夕焼けは黒の世界に包まれた。屋台や明かりで灯される夜の世界は眩しくて、それだけで熱に浮かされそうになる。
ぼうっとしていても伊織と繋がれている手のおかげで棒立ちにならずに済んだ。
寧々達の番になり、伊織がそれぞれ食べられるように、二パック購入した。つまようじでぶすりと刺し、そっと掬うと湯気が立っておりかつお節が踊っている。
ふうふうと息をかけて冷まし、少しかじるとだしの香りが鼻を抜ける。中はとろとろでとても熱いが、その熱さ込みでおいしい。
伊織を見ると、あつあつのたこ焼きを食べ慣れているのか、寧々ほど熱がってはいなかった。さすが関西出身である。
「清水さん、このたこ焼きおいしいね」
「うん、悪くないな。うまいわ」
「やっぱり清水さんもたこ焼き好きなの?」
「こっちの人と比べたら食べる機会は多いと思うで。今度ごちそうしよか?」
「いいの!? 食べたい!」
「ふふ、いつでもおいで」
八個入りのたこ焼きを、熱いおいしいと言いながら二人で食べ進める。伊織は先に食べ終わり、寧々が熱さと格闘しているところを見て楽しんでいるようだった。
寧々もなんとか食べ終わり、二人分の空の器をゴミ箱に捨てた。
「次は何しようか」
「夏祭りといえば、金魚すくいが定番やろ。あそこにあるから行ってもええ?」
「いいよ」
伊織は屋台のおじさんからポイを二つ受けとり、一つを寧々に渡してくれた。桶も受け取って、二人は金魚すくいを始めた。
寧々はけっこう得意なので、ポイを破らずに一匹すくうことができた。
「姉ちゃんうまいね!」
「ありがとうございます」
「ほんまや、もう一匹すくったん?」
伊織は苦戦しているようで、何回か挑戦するもうまくいかずついには破れてしまった。
「なんだ、兄ちゃんは下手だなあ! 彼女の方はすぐすくってたよ」
「ほんまですか?」
確かに寧々は金魚すくいはうまい方になるのだが、今はそれどころでない。屋台のおじさんに、伊織の彼女として認識されていることの方が問題だった。
「か、かの、彼女って……!」
「ん? 違うのかい?」
「俺達、まだ友人なんです」
「なんだ、そうかい! 今日はデート楽しんでくれよ!」
寧々のポイがいつの間にか破れていたようで、伊織に指摘されて気づいた。
店主がおまけに一匹あげようかと言ってくれたが、寧々のアパートはペット禁止だ。伊織はすくっても返すつもりでいたらしいので、寧々もすくった金魚を返すことにした。
金魚すくいを満喫した二人はそっと屋台から離れる。
「……清水さん、あんなに金魚すくいやる気満々だったのに、あんまり得意じゃなかったんだね」
「夏祭りといえば、やっぱり金魚すくいだと思わへん? やるのは好きなんやけど、寧々ちゃんの言う通り得意ではないんよ」
動揺を悟られないように普通を振る舞っているが、きっと伊織は気づいているのだろう。素知らぬ顔をしながら自分に恋をしている女の手を引いて、伊織は寧々をどうしたいのか。
「……清水さんはさ、恋人いるの?」
「それが今日のデートの質問でええの?」
「うん」
「俺に恋人はおらんよ」
「そっか。ありがとう」
恋人はいないことが確定した。伊織が遊び人じゃなくてよかったと、寧々は心から安堵する。
「……こうして遊ぶのは、私だけ?」
いつもなら絶対に二問目以降の質問には答えてくれない伊織だから、期待はしないでおこう。そう思っていたのに。
「そうや、寧々ちゃんだけやで」
にこりと微笑まれ、寧々は胸が高鳴る。欲しい言葉はくれないくせに、期待させることばかり上手なずるい人。
「寧々ちゃん、次どこ行く?」
「……食べ物がいいかな」
「ん、分かった」
寧々は繋がれている手をきゅっと握った。離さないと言ったのだから、せめて今日だけはこのまま離さないでいてほしい。
そんな寧々の願いが通じたのか、伊織は痛くならない程度の強さで握り返してくれた。
二人はしばらく無言のまま歩き続ける。
気になる屋台があればそこに行くというやりとりを何度かくり返し、気づけば二時間ほど経っていた。
「一通り見ることができたし、そろそろ帰ろうか」
「そうやね。あまり遅くなっても帰るのが大変やし、今日は帰ろか」
繋がれた手はそのままで、駅まで歩き出す。
同じように手を繋いでいる人達は、寧々と伊織と違い恋人や夫婦だったりするのだろうか。
今までのデートと違いぐっと距離が縮まったはずなのに、心の距離だけはどこか離れたまま。伊織に近づきたいのに、どうしてか近づけない。もどかしくて苦しい。
勢いそのまま好きと言っても、きっと今のままでは受け入れてもらえない。そんな確信めいた何かが寧々を躊躇させる。
繋がれた手は胸が苦しくなるほどあたたかった。




