第漆拾陸話 「初恋は破れるほうがいい」
「あなた、あの娘の様子がちょっと最近変なのよ。」
妻がベッドに潜り込んでくると、囁くように私に言う。
「何が変なんだ。この前生理を迎えたばかりで、精神的に不安定なんじゃないのか。」
私は妻の言葉に耳を傾けつつも、心配ないよと宥める。
「それなら良いのだけど、いそいそと出掛けることが多くなったし、趣味も変わったような気がするのよね。おしゃれに無頓着だったのが、最近は良く髪型とか気にしてるし。」
「そりゃ、思春期なんだから、身嗜みは気にするだろ。趣味だって変わるさ。大人になった証拠だよ。喜ばしいことじゃないか。」
「そうなんだけど、ちょっと心配で。」
「まあ、最近は物騒だからな。変なのに引っかかったりしたら困るから、注意するに越したことはないけど、あまり気にしすぎると、君の方が参ってしまうからね。気楽にね。」
「ええ、そうするわ。変な男に引っかかってなければ良いけどね。」
妻の最後の一言に私は飛び起きた。
「男?!」
「あなた、声が大きいわよ。」
「ごめん、ごめん。そうか、その線もあり得るのか。これは注意深く見守らないとまずいな。」
「あなた、さっきと言っていること違うわよ。」
「それとこれとは別だよ。男なんてまだ早すぎるだろ。」
「何言ってるの。私たちはあの娘の歳には付き合っていたんですよ。初キッスは幼稚園の時ですからね。」
妻は顔を赤らめて言う。
「そんなこと覚えてるのか。」
「もちろん覚えてますよ。散歩中の犬に吠えられて泣いた私を慰めてくれて、そのついでに私の唇を奪ったんですから。」
「嫌な言い方するな。あれはだな、……そう、あれはお前の泣き声が五月蠅いから、黙らせようと思って唇を閉じただけだ。そう、唇を閉じただけだよ。」
「また、そんなこと言って。私は嬉しかったんですけどね。」
「なにが、嬉しかっただよ。いつまでも泣き止まなかったくせに。」
「あら、そうでしたっけ。」
「都合の悪いことはすぐ忘れるんだから。」
「あら、そんなことはありませんよ。」
「まあ、それはとにかく、ホントに男が出来たのか。」
「さあ、どうでしょうね。好きな人はいるでしょうけど。」
「あの娘の初恋か。」
「あなた、失恋すれば良いなんて考えてないでしょうね。」




