第陸拾話 「ただ立ち尽くすしかない僕」
僕はそこにいた。
何故そこにいたのかは覚えていない。
だが、そこにいたことは確かである。
これは、僕の記憶の問題である。
茫然自失。そんな言葉をどこかで聞いた。
自分を見失うこと。
そう、僕は自分を見失っていた。
僕は記憶の底を浚った。
何か残っていないか、一つ一つ丁寧に確認していった。
僕は、冬支度のために、山で木の実を集めていた。
冬を越すためには必要な作業だ。
最近は冬になるのが遅い。
そのためかは分からないが、木の実が少ない。
仲間は新たな狩り場を求めて、山を出て行ったものもいる。
だが、僕は頑なに山での狩猟生活に拘った。
なぜかって、それは僕にも分からない。
ただ、新しい狩り場は危険が伴う。
縄張りだってあるだろうし、未知の危険が山ほど存在するはずだから。
僕は臆病者なのかも知れない。
確かにそう言われてみれば、そうなのだろう。
だが、慎重にならなければ、この山で生きていくことは出来ない。
こんな僕にも子供たちはいた。
かわいい子供たちだ。
子育ては母親任せだったが、それでも、自分の子供であることに変わりはない。
そんな子供たちが何者かに殺された。
母親はもちろん、僕も悲しみに暮れた。
だからこそ、慎重になっていたのかも知れない。
山にいたはずの僕は、今、巨大な塀に囲まれたどこかの施設にいる。
木登りが得意な僕でも、あの高さの塀を上ることは無理だ。
塀の向こうから誰かが僕に向かって手を振っていた。
「クマさんこっち、こっち。ちゃんと取ってよ。ほら。」
何かが僕に向かって投げ込まれた。僕はただそれを眺めていた。




