第伍拾陸話 「底に横たわる月」
満月の夜。山間の誰も訪れないような湖の畔に、その人は立っていた。
何の変哲もない満月の夜。その人は岸辺に腰掛けて、ただ湖を眺めていた。
手には酒をなみなみと注いだ杯を持ち、天に浮かぶ月を捉まえた。
その人は、しばしその月を見つめた後、その月を飲み干そうと杯を傾けた。
その人は、一晩中、月を相手に酒を酌み交わしていた。
やがて夜が明けると、その人の姿はどこにもなく、空の酒瓶と杯だけが置いてあった。
「何その話。」
女は男を詰るように言う。
「何って、この湖に伝わる伝説だよ。ほら、そこに石碑があるだろ。〔杯伝説の碑〕って。これって、酒の月と書く〔酒月〕伝説だって言う説もあるんだよね。」
男は説明を続ける。
「へえ。何かそう言うと素敵な話じゃない。でも、なんでその人は酒瓶と杯を置いて行っちゃったの。それって、ただのマナーが悪いハイカーの話じゃない。」
女は呆れたように言う。
「まあね。この話からじゃそう思うよね。でもね、これが行方不明者の話だったらどう思う。」
「ちょっと待ってよ。それって、完全にホラーじゃない。もしかして入水しちゃったとかそう言うのじゃないよね。」
「分からない。もしかしたら自殺かも知れないけど、行方不明ってことは遺体も見つかっていないってことだからね。神隠しかも知れないってね。」
「それなら、伝説っぽいけど、神隠しなんてただの行方不明者を良いように言ってるだけでしょ。」
「まあ、そうだよね。」
「……って、あれ見て。」
「何だよ、急に。」
「ほらそこ、空の酒瓶と杯が転がってるじゃない。」
「やめろよ、どうせマナーのなってないヤツの仕業だって。」
そこに、突然遠くからパトカーのサイレンの音が聞こえてきた。
「おい、ここだここだ。」
一人の警官が酒瓶と杯を見付けると、もう一人に声を掛ける。
「すみません、こちら規制線を張らして貰いますんで、後ろへ下がって貰えますか。」
もう一人の警官が二人に声を掛けてきた。
「何かあったんですか。」
男が警官に尋ねる。
「いやね、行方不明者の届け出がありまして、確認に来た所なんですよ。」




