第60話 東京府
橋の上。
少女は。
今日も。
川を見ていた。
……。
昨日より。
少しだけ。
顔色が悪い。
……。
頬も。
前に見た時より。
痩せたように見える。
……。
でも。
今日は。
どこか。
機嫌がよかった。
……。
手には。
一枚の紙。
……。
何度も。
折り畳まれた。
古い紙。
……。
少女は。
それを。
大切そうに。
開いた。
……。
「見て。」
……。
私に。
見せている。
……。
もちろん。
私は。
受け取れない。
……。
でも。
見ることはできる。
……。
紙には。
建物の絵。
……。
大きな入口。
……。
綺麗な服を着た人たち。
……。
そして。
大きな文字。
……。
芝居の。
広告らしい。
……。
少女は。
嬉しそうに。
紙を眺めている。
……。
「東京府って。」
……。
「知ってる?」
……。
私は。
答えない。
……。
答えられない。
……。
でも。
知っている。
……。
東京。
……。
その言葉を。
私は。
知っている。
……。
なぜ。
知っているんだろう。
……。
「すごいんだって。」
……。
少女は。
私の返事など。
待たずに続ける。
……。
「電車がいっぱい走ってて。」
……。
「夜なのに。」
……。
「お昼みたいに明るいところもあるんだって。」
……。
少女の声が。
少しだけ。
弾んでいる。
……。
「洋服を着た女の人も。」
……。
「たくさん歩いてるんだって。」
……。
紙を。
胸の前で。
ぎゅっと握る。
……。
「ハイカラっていうの。」
……。
知ってるよ。
……。
そう。
言いたかった。
……。
でも。
少女は。
少し得意そうに。
笑った。
……。
「知らないでしょう。」
……。
「私も。」
……。
「よく知らないけど。」
……。
思わず。
笑った。
……。
届かない。
……。
聞こえない。
……。
それでも。
笑った。
……。
少女も。
なぜか。
少しだけ。
笑った。
……。
「それでね。」
……。
紙を。
もう一度。
広げる。
……。
「お芝居。」
……。
「見てみたいの。」
……。
指先で。
広告の絵を。
なぞる。
……。
「綺麗な着物を着た人が。」
……。
「大きな舞台で。」
……。
「歌ったり。」
……。
「踊ったり。」
……。
「泣いたりするんだって。」
……。
少し考えて。
……。
「泣くのは。」
……。
「いつもやってるから。」
……。
「別にいいけど。」
……。
また。
笑った。
……。
私も。
笑った。
……。
この子は。
こんなふうに。
笑えるんだ。
……。
初めて。
知った気がした。
……。
少女は。
紙を。
丁寧に折り畳む。
……。
一度。
二度。
……。
折り目に沿って。
ゆっくり。
……。
それから。
懐へ戻した。
……。
「おっかさんがね。」
……。
声が。
少しだけ。
変わった。
……。
「いつか。」
……。
「連れていってくれるって。」
……。
風が。
止まった。
……。
少女は。
川を見る。
……。
「私が。」
……。
「もう少し大きくなったら。」
……。
「二人で東京府へ行こうって。」
……。
少し。
間を置く。
……。
「汽車に乗って。」
……。
「美味しいもの食べて。」
……。
「お芝居を見て。」
……。
「帰りは。」
……。
「遅くなってもいいって。」
……。
少女は。
笑っている。
……。
まるで。
その日のことを。
思い出しているように。
……。
違う。
……。
思い出じゃない。
……。
まだ。
一度も。
起きていない。
……。
未来の話。
……。
もう。
来ない。
未来。
……。
「おっかさん。」
……。
少女が。
空を見上げた。
……。
「とっても。」
……。
「楽しそうだったんだよ。」
……。
私は。
何も言えなかった。
……。
少女は。
しばらく。
空を見ていた。
……。
それから。
少しだけ。
困ったように笑った。
……。
「でも。」
……。
「ひとりで行ったら。」
……。
「怒るかな。」
……。
胸の奥。
……。
何かが。
締めつけられる。
……。
「約束したから。」
……。
少女は。
呟く。
……。
「一緒に行こうって。」
……。
その言葉を。
聞いた瞬間。
……。
なぜだろう。
……。
私は。
どうしても。
返事をしたくなった。
……。
届かない。
……。
わかっている。
……。
何度。
試しても。
この子に。
私の声は。
届かなかった。
……。
それでも。
……。
「行こう。」
……。
声にした。
……。
少女は。
川を見ている。
……。
「きっと。」
……。
「いつか。」
……。
「一緒に。」
……。
少女の髪が。
風に揺れた。
……。
「お芝居。」
……。
「見に行こう。」
……。
やっぱり。
返事はない。
……。
それでいい。
……。
そう思った。
……。
少女が。
ゆっくり。
立ち上がる。
……。
「そろそろ。」
……。
「帰らなきゃ。」
……。
数歩。
歩いて。
……。
止まった。
……。
振り返る。
……。
誰もいない。
橋の上。
……。
私が。
いる場所。
……。
少女は。
そこを見つめて。
少しだけ。
首を傾げた。
……。
「なんだろ。」
……。
「今。」
……。
「誰かに。」
……。
「約束してもらった気がした。」
……。
笑う。
……。
「変なの。」
……。
少女は。
歩いていく。
……。
私は。
その小さな背中を。
見つめていた。
……。
約束。
……。
不思議な言葉。
……。
未来の出来事を。
まだ起きていないことを。
二人で。
覚えておくための言葉。
……。
私には。
未来なんて。
あるのだろうか。
……。
それすら。
わからない。
……。
でも。
あの子には。
あってほしい。
……。
東京府。
……。
劇場。
……。
明るい街。
……。
ハイカラな服。
……。
まだ見たことのない。
たくさんのもの。
……。
いつか。
あの子が。
その全部を。
見る日まで。
……。
私は。
この約束を。
忘れない。




