第59話 少女を笑う声
朝。
空は。
鉛色だった。
……。
昨日までの青空は。
どこかへ消えてしまった。
……。
町を歩く人々も。
どこか足早だった。
……。
俯きながら。
肩を寄せ合い。
誰もが。
何かを恐れている。
……。
私は。
その理由を。
まだ知らなかった。
……。
橋へ向かう途中。
薬屋の前には。
小さな列ができていた。
……。
「効くんですか。」
……。
「さあな。」
……。
「効くと信じるしかあるまい。」
……。
誰も。
答えを持っていない。
……。
それでも。
人は。
祈るように。
薬を買っていく。
……。
少し先。
井戸端では。
女たちが。
小さな声で話していた。
……。
「また流行性感冒だって。」
……。
「向こう町でも。」
……。
「一家みんな。」
……。
「亡くなったそうだよ。」
……。
少しの沈黙。
……。
誰も。
次の言葉を。
言いたがらない。
……。
一人の老婆が。
ため息をつく。
……。
「怖いねぇ。」
……。
「目に見えないものほど。」
……。
「恐ろしいものはないよ。」
……。
私は。
その言葉を。
何度も。
頭の中で繰り返していた。
……。
目に見えないもの。
……。
それは。
病のことなのか。
……。
それとも。
私のことなのか。
……。
少女の姿が見えた。
……。
今日は。
市場に立ち寄っている。
……。
店先に並ぶ。
大根。
人参。
干物。
……。
少女は。
何も手に取らない。
……。
ただ。
見つめている。
……。
買いたい。
……。
でも。
買えない。
……。
そのことが。
痛いほど。
伝わってきた。
……。
店主が。
少女を見る。
……。
困ったように。
笑う。
……。
「悪いな。」
……。
「今日は。」
……。
「余りも出なかった。」
……。
少女は。
小さく頭を下げた。
……。
「ごめんなさい。」
……。
謝る必要なんて。
どこにもないのに。
……。
少女は。
いつも。
謝っていた。
……。
歩き出す。
……。
背中は。
少しだけ。
小さかった。
……。
その後ろから。
子どもたちの声が聞こえる。
……。
「あの子だ。」
……。
「また独り言。」
……。
「気味悪い。」
……。
「流行性感冒で。」
……。
「頭がおかしくなったんだって。」
……。
「おっかさんも。」
……。
「あの病で死んだんだろ。」
……。
笑い声。
……。
少女は。
振り返らない。
……。
ただ。
歩く。
……。
その歩幅だけが。
少しだけ。
小さくなった。
……。
橋へ着く。
……。
少女は。
欄干にもたれ。
静かに川を見つめる。
……。
しばらく。
何も言わない。
……。
風だけが。
二人の間を通り過ぎる。
……。
やがて。
少女は。
小さく笑った。
……。
「ねぇ。」
……。
「今日はね。」
……。
「おっかさんの夢を見たの。」
……。
目を閉じる。
……。
「味噌汁を作ってくれてた。」
……。
「すごく。」
……。
「美味しかった。」
……。
少しだけ。
間を置いて。
……。
「夢って。」
……。
「起きると。」
……。
「なくなっちゃうね。」
……。
笑っている。
……。
でも。
その笑顔は。
泣いているようにも見えた。
……。
少女は。
ゆっくり。
空を見上げる。
……。
「みんなは。」
……。
「あなたはいないって言う。」
……。
「私がおかしいって。」
……。
小さく息を吐く。
……。
「でも。」
……。
「私は。」
……。
「信じたい。」
……。
「ひとりじゃないって。」
……。
私は。
少女の隣へ立つ。
……。
届かない。
……。
触れられない。
……。
声も。
伝えられない。
……。
それでも。
私は。
その場を離れることが。
できなかった。
……。
初めてだった。
……。
誰かの悲しみが。
私の中で。
こんなにも。
重たく響いたのは。




