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マエストロ  作者: 宮澤花
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6 良い演奏会にいたしましょう

 舞台から見るホールは広かった。

 正面に見えるひときわ豪華なボックスは、間違いなく皇帝のためのものだろう。


「慈善演奏会には皇帝陛下もいらっしゃるのでしょうね」

「ええ、もちろん」

 アントーニオ氏は『何を当然のことを』と言うようにあっさりとうなずいた。

「寡婦と孤児の会の運営費のかなりの部分は陛下の寄付で賄われています。その深いお慈悲だけではなく、お時間の許す限り陛下は演奏会にもご臨席くださっていらっしゃいますよ。今回もおいでくださるご予定です」


 今さらながらヴォルフガングは腹が立った。出演さえすれば皇帝に自分の演奏を聞いてもらえるのに。それをあの、頭の固い、ケチの、芸術を理解する頭のない、老いぼれの大司教とその取り巻きたちが!


「ここで演奏できたらどれほど幸福でしょう」

 気付いたら言葉が口からあふれていた。しまったと思わないでもなかったが、そろそろ告白しなくてはいけない頃合でもあった。最初はただの帳簿係だから多少ムダな仕事をさせてもかまうまいと思っていたアントーニオ氏が、意外にも地位のある人物だとわかってきたからには。


「ええ、もちろん」

 案の定、アントーニオ氏は不思議そうな顔をしながら礼儀正しくうなずく。

「あなたの演奏は間違いなく、皇帝陛下も興味を持ってお聞きになりますよ。もしもう演目がお決まりでしたら、パンフレットに書かせますから……」


「出られないんです」

 ヴォルフガングは吐き捨てるように言った。

「はあ?」

 アントーニオ氏の目が丸くなる。


「出られないんです、くそったれの…… こんな言葉を使ってごめんなさい、あの物分かりの悪い大司教猊下の許可をもらうことが出来なかったんですよ。僕は彼の命令があるまで宿舎で座っていればいいのであって、彼と関係のない演奏会に出演したりしてはいけないそうなんです」


 抑えていた怒りが噴き出すままに言葉を連ねているうちに、ヴォルフガングは自分が泣きそうになっていることに気が付いた。もう子供ではないのに、と自分で自分を情けなく思う。

 けれど自分の才能を認めてもらえないことが、認めてもらうチャンスを歯噛みしながら見逃さなくてはならないことが、涙が出るほど悔しくてたまらなかった。


「ええと。つまり大司教猊下は、あなたがご出演なさることをご存知ではなかったのですか? あなたからお聞きになるまで?」

 アントーニオ氏は目を白黒させながら、必死に考えている様子だった。


「そりゃあね。僕が言わなければ知りようがないでしょう。申し訳ありません、あなたには最初にそう言うべきだったのですけれど、ご親切を無碍にはしたくなかったし」

 ほんの少しだけでも演奏会の演者の気分を味わいたかったのだ……という言葉は、余計に自分が情けなくなるので飲み込んだ。


 アントーニオ氏は黙り込んでしまった。

 ヴォルフガングは気まずくなってきて、

「それではもう失礼します。劇場を案内していただいて本当にありがとうございました」

 と言って立ち去ろうとした。


「待ってください」

 静かな水面を叩くように声が響いた。

 仕方なくヴォルフガングは立ち止まる。嫌味のひとつふたつでも言われるのだろう、だが仕方ない、相手を帳簿係だと思い込んで時間を無駄にさせた自分が悪いのだ。


「なんでしょう? 僕はもうあやまりましたよ」

 抵抗を試みる彼に、アントーニオ氏は厳粛に首を横に振った。

「謝罪しなくてはならないのはこちらです。これは会の手落ちです。シュタルツァー先生はあなたに直接ご依頼しただけで満足してしまったのですね。大司教猊下がお気を悪くされるのも当然です」


 彼はポン、と軽く両手を打って、背筋をしゃきっと伸ばした。

「お話を伺えてよかった。私はすぐにマエストロ・ボンノのお住まいに行って、この顛末を報告してきます。会長はあのかたですから、知っておいていただかねばなりません。それから宮廷に上がって、ズヴィーデン男爵か、会の他の発起人のどなたかとお話しできないか探ってみましょう。こんな話を放っておくわけにはいきません」


「はあ」

 今度はヴォルフガングのほうが間抜けな声を出す番だった。

「ええと…… つまり……? あなたは、ズヴィーデン男爵と直接、話が出来るのだと?」

 その名前はトゥーン伯爵夫人から聞いたことがある。皇帝からも信頼されている音楽愛好家であると。そのうち紹介してくれるとも彼女は言っていた。


「もちろん、閣下にお時間があればの話ですよ。しかしことは迅速を要しますから、手紙を差し上げるより直接お話しできるならそうしたほうが良いでしょう。どなたか、お時間の空いているかたがいらっしゃればいいのだが」

 アントーニオ氏はせっかちに体を揺すってから、ヴォルフガングを見た。


「モーツァルトさん、厚かましいお願いですが、あなたのお力もお借りしたい。あなたのご友人の伯爵夫人に、お手紙を書いていただくことは出来ませんか。ご用意いただいた楽器が、残念ながら不要になってしまいそうだとか、そういうようなことを。彼女は高名な演奏家で、影響力のあるかたともお親しい。伯爵夫人に『慈善演奏会にはぜひモーツァルト氏を出演させるべきだ』という声を上げていただけたら助かるのです」


「伯爵夫人のところなら、今日も午後に招かれていますけど」

 わけのわからないままヴォルフガングがそう言うと、アントーニオ氏はまた『素晴らしい!』と声を上げた。


「さすがモーツァルトさんだ。ではぜひ、伯爵夫人にお話しください。猊下へはなるべく早く、しかるべきかたから依頼が行くようにお願いしておきます。あなたほどの演奏家の代わりを、たった十日間で見つけるなんて出来ないのですから、どうにかしませんとね! では、私は急ぎますのでこれで。出口はおわかりになるでしょうね? もしこのまま伯爵夫人のお屋敷へいらっしゃるのなら、馬車を用意させますが」


「ええと、ありがとうございます、自分で何とかできます」

 とヴォルフガングが答えると、アントーニオ氏はうなずいて、

「良い演奏会にいたしましょう。では、また」

 とだけ言って舞台から降り、客席の通路を通って早足にホールを出て行ってしまった。


 残されたヴォルフガングはぽかんとしてその後ろ姿を見送った。

 いったい何が起こったのかわからなかった。

 つまり、彼は…… この状況を、これから引っくり返せるとでも?


 あの高慢な大司教の考えを、今から変えることが出来ると?

 彼の言うとおり、本番まで十日しかないのに?


 ヴォルフガングは、大司教の館の官僚たちの、自分を侮蔑した表情や言葉を頭に浮かべた。大司教そのひとの高圧的な態度も思い浮かべた。

 役人ひとりの頑張りで、どうにかなるとは思えなかった。たとえ宮殿の、皇帝直轄の部署で働いている役人だったとしてもだ。


 ……それでも、だ。

『良い演奏会にいたしましょう』

 と彼は言った。


 少なくとも、このウィーンに彼が演奏会に出演することを望んでくれる人間が三人はいる。誘ってくれたシュタルツァーと、楽器を貸してくれると言ったトゥーン伯爵夫人。そして、今の彼だ。

 大司教とその取り巻きがどんなに彼をバカにしようが、それだけは動かせないのだ。


 そういえば洗礼名しか聞かなかったな、とヴォルフガングは思う。

 神の導きがあればまた会えるだろうが、そして宮廷の音楽局の役人とならまた会える機会があるにこしたことはないが。

 次に会えたらちゃんとフルネームを聞こう、と彼は思い、劇場を後にした。



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