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マエストロ  作者: 宮澤花
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5 努力は正しく報われるべき

「控室からはこの通路をまっすぐに歩けば舞台に出ます」

 おしゃべりしながら仕事をさぼっている掃除人たちや、早口のパッセージを暗記しようと何度も同じところを歌っている歌手の横を通り過ぎる。こんな風景はどこの都市の劇場も同じで、その空気の中にいるとヴォルフガングは少しホッとする。


 ここでは(この宮廷音楽部の事務官以外は)誰も自分を認識していないし、彼の演奏や曲を求め、才能をチヤホヤしてはくれない。けれど音楽に、舞台に関わることで、生計を立てようと努力している人間がこんなに大勢いる。


 それは別に彼の利益にはならないのだけれど、だから自分でも自分の感情が不思議なのだけれど、舞台裏の喧騒はやはり彼には心地よいと感じられるのだった。


「ちょっと、きみ」

 通路の端で調子っぱずれな音階で発声練習をしていたテノール歌手の横で、推定帳簿係から推定上級事務官に格上げされた男は足を止める。

「ソから先、全部が四分の一ずつズレているよ。伴奏がなくても音程を外さないように気を配らなくては」


 ヴォルフガングは驚いた。音楽には素人だろう事務官が、若いとはいえ玄人相手につけつけと注意をしたことにもだが、何よりそれが正確だったことにも驚いた。

 わざとやっているのかと疑うくらい、テノール歌手は見事に半音ずつ音を外していたのだ、客の身分で指摘するのは失礼だろうと思ってヴォルフガングは口をつぐんでいたが。


「申し訳ありません、シニョール」

 まだ少年のような顔をした歌手は泣きそうな顔でそう言った。

「八ヶ月前まではソプラノを歌っていたんです。練習しているんですが、まだこの音域に慣れなくて」


「そうか。私も経験があるよ、つらいね。でも声変わりの時期は無理をして喉を使わないほうがいい。何か役が決まっていて、それで練習しているのかい?」

「いいえ、シニョール。ソプラノが歌えなくなって全部おろされてしまいました。でも何か仕事がないとレッスン料も払えないんです。劇場で練習していれば、どなたかがお声をかけてくれるかもしれないと思って……」


 あわれっぽい泣き言の、どれほどが真実だろうとヴォルフガングは思う。

 歌手連中は演技で飯を食っているのだ。いい仕事をもらうためならいくらでも嘘をつく。『レッスン料が払えない』は誇張だろうな、と彼は思った。本当に困っているのなら、しめ殺されかけたニワトリみたいな声を上げていないで、ほかの仕事を探すだろう。


 だが推定上級事務官はうなずいて、

「気持ちはよくわかるよ。けれどやみくもに歌うのは良くないね。初めて会うと思うけれど、名前を聞いてもいいかな。私はアントーニオだ」

 父親みたいな態度で優しくたずねた。


「ミケーレです」

 若い歌手は蚊の鳴くような声で答える。

「よろしく、ミケーレ。提案なのだけれど、木曜日の午後にブルク劇場に来ることは出来るかな。無料で受けられるレッスン時間があるんだが」

「あのう、それって」


 ミケーレは小さく息をのんだ。

「マエストロ・サリエーリのレッスンのことでしょうか。噂には聞いていましたが、僕なんかが行ったら追い返されてしまうのでは」


 推定上級事務官のアントーニオ氏は笑った。

「大丈夫、マエストロはきみを追い返したりしないよ、約束しよう。ではミケーレ、その日までなるべく喉は使わないように。サリエーリは、十分に休めた状態のきみの声がどんな風なのかを聞きたがるはずだからね」


 興奮したイタリア人の常として、ミケーレが感謝の言葉を滝のように述べ、『ドイツのシニョール』つまりヴォルフガングの上にも神の恩寵があるようにと祈り始めたところで、二人は彼を置いてまた舞台に向かって歩き出した。


「あのう、大丈夫なんですか」

 ヴォルフガングは心配になってたずねた。

「大丈夫でしょう、ちゃんと喉を休ませれば。声は悪くなかった」

「そうではなくて」

 ピントのはずれた答えに内心でイライラする。


「勝手にレッスンの予約をしてしまって大丈夫なんですか、ということです。マエストロがお怒りになるのでは? しかも無料でだなんて」

 もしかしたらサリエーリ氏も文句を言えないほどの高官なのだろうか、という考えが一瞬、頭をよぎったが、『それはない』とすぐに否定する。そんなお偉い人物なら、馬車の荷台によじ登ったりしないだろう。いや、宮廷に伺候できる地位の事務官が汚い馬車の荷台によじ登った時点でおかしいのだが。


 無料レッスンなんて、正気の沙汰ではない話なのだ。

 弟子からのレッスン料は音楽家の生命線だ。いかに懐の豊かな(できれば貴族か、裕福な実業家の)家の子女を多く弟子に出来るかで、音楽家の暮らしの質は決まると言っていい。


 たとえあまり豊かでない家に生まれた人間のことを、才能を見込んで弟子にしたとしても、いくばくかの授業料は取るべきだ。音楽家の知識と経験は財産なのだから、簡単に人の手に渡していいものではない。


 もちろん教会の説く慈愛の精神というものはあるが…… 多く分け与えるものに天国の門は開かれると聖書にもあるが…… しかし分け与えた結果、なにごともなさずに人よりも早く天国の門をくぐることになったとしたら、それは誰が補償してくれるのだろう。


 大いなる神も、自分が食べなければ生きていけなくなる分まで赤の他人に渡せとは言っていないはずで、ヴォルフガングが考える限り音楽の知識とはそういう性質のものだった。それを身につけるために費やした努力と時間は、絶対に軽視されて良いものではない。


 それを、音楽の専門家ではない事務官ごときが(いくら宮中に伺候を許されているとはいえ)勝手に、軽々しく決めてしまうなんて許されることだとは思えない。たとえ自分ではなく、分不相応の地位でふんぞり返っているのだろういけ好かないイタリア人のことであってもだ。


 ヴォルフガングの語気が荒かったからだろう、アントーニオ氏はちょっと驚いた顔になった。ヴォルフガングをじっと見て、それから黒い瞳をいたずらっぽく瞬かせて微笑んだ。


 相手を怒らせるのも承知で(どうせ慈善演奏会には出演できないのだ)正義を述べたつもりだったヴォルフガングは、その反応に拍子抜けした。同時にちょっと腹立たしくなった。自分の義憤を真面目に受け取ってもらえていないように感じて。


「大丈夫ですよ。ミケーレについては、これから事情を知っているものを探して聞いてみましょう。彼が本当にそんなに困っているのかどうか。聞いて回った結果、彼が出演料の大半をくだらない遊びにつぎこんでいることがわかったとしても、サリエーリは一度くらいは彼にレッスンすることを受け入れますよ。少なくとも彼には、変声期の喉を酷使しないようにきちんと面倒を看てくれる歌の教師が必要そうですからね」


「ですけど」

 ヴォルフガングは言い返そうとして口をつぐんだ。

 宮廷の事務官にケンカをふっかけるなんてバカのやることだ。しかもろくに口をきいたこともない(十三年前に父と一緒に一度くらいは挨拶したかもしれない)、いけすかないイタリア人のために!


「もういいです。あなたとサリエーリ氏のことですから、僕は口をつぐんでおきましょう。ただ知っておいていただきたいのです、音楽家の生活にとって弟子からもらうレッスン料がどれほど大切なものかということを」

 

 アントーニオ氏は柔和に微笑んだ。

「私のことを心配してくださったのですね。モーツァルトさん、あなたは親切なおかただ」

 その人のよさそうな笑顔を見て、ヴォルフガングは腹を立てているのがバカバカしくなってきた。この人物に悪意はないのだろう。ただ音楽家の生活の実際というものを知らないだけで。


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― 新着の感想 ―
第4話になると、すっかり物語に没入できますね♡ すごい楽しいです, モーツァルトが歩んできた人生と、価値観、イタリア人に対する思い、当初帳簿係だった彼も、その表れだと思うのですが、 真っ直ぐにモー…
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