4 甘やかなあの旋律
「こちらが演奏会場ですよ」
客席のある広いホールに通される。
ここでも、ボックスの中や通路を歩き回っている清掃員の姿が散見された。
「モーツァルトさんは、こちらで演奏なさったことは?」
「まだないですね」
ヴォルフガングは少しぶっきらぼうに答えた。以前の滞在のときも、客席でオペラを見ただけだ。ついに劇場で演奏する機会はなかった。
あのときはいくつか、流行りのオペラを見たものだ。
十三年前の記憶を思い出す。自分の書いたオペラの上演の見通しが立たないのに対して、ロングランを続けている人気作があって、胃が灼けるほど嫉妬した。
フィナーレで流れたフレーズが耳を離れなくて、腹が立ってたまらなくて、彼はそれを変奏曲にした。
音符をバラバラに分解して、あの甘ったるい旋律を徹底的に切り刻んで、自分の技量を見せつけられる曲に仕立てた。
自分の方がずっと優れているのだと、演奏家としても作曲家としても上位にあるのだと十代だった自分は思い切り誇示したのだ。
……なのに、どうしてだろう。
人前であの曲を弾くたびに、敗北感が胸に満ちる。どれほどあのフレーズを完膚なきまでに破壊しても、徹底的に叩き潰しても。
やっぱり耳に残るのは、甘くて古くさい、あの男の作ったメロディーだけ、そんな気がしてたまらない。
壊そうとしても壊すことのできないものがこの世にはあるのだと言っているように。彼の努力が無駄なあがきだと哀れむように。
イヤなことを思い出した、と思った。そういえばあの男はどうしているのだろうと少し考えた。
噂では、皇帝からオペラ作曲家として雇われたとか。ヴェネツィアでヒットを飛ばしたとか。
イタリア・オペラが上演されないウィーンで何をやっているのかは知らないが、きっと得意満面で偉そうにふんぞり返っているのだろうと思った。
「オーケストラピットはこちらですよ。下りてみますか?」
推定帳簿係に声をかけられて、ヴォルフガングは黙ってそれについていった。もうこうなったら今日は、相手の誤解に任せて『ケルントナートーア劇場見学ツアー』を楽しませてもらうことにしよう。それくらいしか憤懣を紛らわせる方法が思いつかない。
また裏に回って、演奏席へ向かう。すると通路でヴィオラを持った若い男と鉢合わせた。
「おや、失礼。もしかして練習かい?」
推定帳簿係がやわらかくたずねる。
「こんにちは、シニョール」
ヴィオラ奏者はていねいに挨拶した。
「練習場所が込み合っていて、空いているのはバカみたいな大きな音で調子っぱずれのアンサンブルをやる木管楽器のやつらの隣りだけなんです。なので僕たち、人数も多いしちょっとピットで演らせてもらおうと思って」
「そう。空いているのならかまわないんじゃないかな。他のひととはちゃんと調整してくれよ。それと、掃除人たちの邪魔はしないように」
「はい、シニョール」
ヴィオラ奏者は白い歯を見せて笑い、それから、
「ところで、あの『煙突掃除人』の第二幕のパート譜はいつごろいただけるんですか? みんな、そろそろ練習を始めたいって言っています」
とたずねた。
推定帳簿係は肩をすくめた。
「もう写譜屋に行っているよ。なるべく仕事を急いでくれとお願いしておこう。迷惑をかけるね」
「いいえ、シニョール……」
と言っている途中で、ヴィオラ奏者は後ろから現れた大柄な男に襟首をひっつかまれて彼らから引き離された。
「申し訳ありません。このバカにはきちんと言い聞かせておきますので。たいへん失礼いたしました」
大柄な(推定コントラバス)奏者はそう言ってヴィオラ奏者を連れ、足早にピットのほうへ去ってしまった。『マエストロが』とか『ものを考えろ』とかいうドイツ語の早口がかすかに聞こえた。
なんだろう、マエストロ…… 宮廷楽長のボンノ氏か誰かが来ての総合練習でも近いのだろうか、とヴォルフガングは思う。そんなときに帳簿係としゃべっているヒマはないということか?
いや、それよりこの男は本当に帳簿係なのだろうか。
ヴォルフガングは隣りの男をチラリと見る。『煙突掃除人』というのは、たぶん次の演目のタイトルなのだろう。ブルグ劇場で次々に上演されているというジングシュピールの新作、というところに違いない。
けれどただの帳簿係なら会計書類のことには詳しくても、楽譜を楽団員に渡すスケジュールについてまでは把握していないはずだ。
この男は思っていたよりもう少し偉い相手なのかもしれない、とヴォルフガングは思った。事務員であるにしても、会計だけではなく劇場公演全体のスケジュールを管理するような地位にいる人間なのだろうか。
「あのう」
ヴォルフガングはそっと相手に声をかける。
「はい。オーケストラピットはふさがってしまっているようですね。練習中はうるさいと思いますが、横で聞いていても文句は言われないと思いますよ。行きましょうか?」
「いえ、それはいいんですが。邪魔になってもいけないでしょうし、ご遠慮しますが。ええと、あなたは、あのう」
なんと聞いたらいいのか迷う。あなたの役職は(そして、ついでに、名前は)なんですか、と今さら聞くのもタイミングが悪い。
「あのう、普段は宮殿でお勤めなのではないのですか?」
上級事務員なら、普段は宮中の事務局で仕事をしているはずだと考え、そう聞いてみる。
相手はちょっと不思議そうな表情をした。
「そうですね。午前中はあちらで詰めていることが多いかな。でも、さっきのような細々とした仕事は、他のかたの手を煩わせるより私が動いてしまったほうが早いので、こちらに来ることも多いですよ。劇場の仕事のほうがずっと楽しいですしね」
親しみのある笑顔でそう言って、『じゃあ次は舞台のそでに行ってみましょうか』と歩き始める。
その後ろ姿を見ながらヴォルフガングは、相手がやはり宮中に出入りできる役職の人間だったとわかり、今までの自分の言動に失礼はなかっただろうかと思い返すのに忙しかった。




