3 ケルントナートーア劇場
黒い瞳の、快活そうな男だった。
上着は仕立てがいいもので、刺繍も入っている。そして半ズボンに絹の靴下をはいているのだから、貧乏人ではなさそうだ。中層以上の市民階級といったところだろうか。
「お久しぶりです。私を覚えていらっしゃいますか」
愛想よく言われたが、ヴォルフガングは返答に困った。
こう見えても、ヴォルフガングは有名人なのだ。時の教皇そのひとから黄金拍車勲章を授けられ、ヨーロッパ各地の王族や貴族とも直接話したことがある。
そんな彼に話しかけてきて、知己になろうとする人間はどこの町にも無数にいた。このウィーンでもそうだった。挨拶をしたひとりひとりの顔や名前を憶えているわけもない。
まして、彼がこの前にウィーンに来たのは十三年も前の話だ。
ヴォルフガングはまだ十二歳だった。重要な契約や打ち合わせはすべて父が行なった。
彼はただ父の横に座ったり立ったりして、
『はい、僕も賛成です』
『はい、とても良いと思います』
『はい、わかりました、閣下』
などと笑顔でうなずくだけだった。
そして宮廷でも市中でも、自己紹介しに押し寄せてくる人々に、
『はじめまして』
『お会いできて光栄です』
『どうぞよろしく』
をオウムのように繰り返したのだ。
王侯ならまだしも、ただの市民を覚えているわけがない!
幸い、ヴォルフガングが何かを言わなくてはならなくなる寸前に、馬車の荷台でチェンバロを梱包していた男のひとりが、
「シニョール。用意が出来ましたんで」
と下手くそなイタリア語で声をかけた。
ヴォルフガングの前でニコニコしていた男はあわててそちらを向いて、
「ちょっと待って。まだ馬車を出さないで」
と言ってから、またヴォルフガングを見て、
「モーツァルトさん、ちょっとお待ちくださいね。すぐ戻りますので。いえ、劇場を下見にいらしたのですよね、シュタルツァー先生からうかがっています。どうぞご一緒に、こちらへ」
と早口に言って、手振りで丁寧に彼を招いた。
あれ、とヴォルフガングは思った。その早口の響きの良い声に、なぜか聞き覚えがある気がした。
抑揚やリズムが音楽的で、どこかで聞いた旋律を思い起こさせた。
気が付くと『誤解です』も『別に用事はありません』も言えぬまま、ヴォルフガングは彼と一緒に荷馬車の横までやって来てしまっていた。
「ちゃんと梱包できているか私が確認するから」
と言って、男はあまり華麗とは言えない身さばきで荷台によじのぼり、それからチェンバロの梱包をじっくりと検分した。
それから立ち上がると運搬人たちに向かって、
「まあ、いいでしょう。ホフマンさんによろしくと伝えておくれ。それから、この前みたいに請求書を劇場に持ってこないように。でないとどこかの引き出しに放り込まれて、また支払いがないと大騒ぎになるんだから」
と偉そうに指示した。
そして荷台から降りようとして転がり落ちそうになり、
「気を付けてください、シニョール」
と運搬人たちに助けられていた。
どうやらホフマンというのがチェンバロ職人か楽器商人で、この男は劇場担当の帳簿係か何かかな、とヴォルフガングは当たりをつけた。ウィーンにいるイタリア人はだいたい音楽関係者だが、商人もいないわけではない。請求書なんてもののことを気にするのは帳簿係だけだろう。
推定帳簿係とヴォルフガングは、荷馬車がチェンバロを運んでいくのを見送った。
それから男はやれやれと肩をすくめて、
「お待たせしました。演奏会が近いというのに、誰もチェンバロを調律に出すことを思いつかないなんて信じられませんよね。試し弾きをしたときに、どんな音が出たと思います? そこにいた全員、寒気がしましたよ。ああ失礼、あなたはきっとホールの具合と楽器をご覧になりたいのでしょうね」
と、また早口に言ってから、気付いたように遠ざかっていく荷馬車のほうを見た。
(もし僕が、劇場に楽器の下見をしに来たのだとしたら)
ヴォルフガングは考えた。
(今、それは『終わった』ということになるな、いろいろな意味で)
「ああ……、申し訳ありません。ホフマン氏は三日後には楽器を直してよこすと約束してくれているのですが。もちろん彼には仕事を急ぐようにお願いしますし、戻ってきたらすぐにザルツブルク大司教のお住まいに人をやって連絡をいたしますが」
表情から相手が『やってしまった』と思っているのが伝わって、ヴォルフガングはちょっと愉快な気分になった。
「大丈夫ですよ」
彼は鷹揚に言った。
「楽器なら、トゥーン伯爵夫人が貸して下さるとおっしゃっているので」
言ってしまってから『しまった』と思った。ここは『出演は出来なくなった』と伝えるべきところだった。見栄をはりたいという気持ちに突き動かされて、つい伯爵夫人の名前を出してしまった。
「なんと。素晴らしい!」
相手の表情が輝いた。
「あのかたとお親しいのですか! サロン用のものは、ご夫君やお子様がたにも触らせないという話ですのに。あなたはそれだけ特別なのでしょうね」
「それほどでもありませんよ」
ヴォルフガングは謙遜しながら言った。実のところ伯爵夫人は、彼女秘蔵の『サロン用の楽器』を貸してくれるとまで言ったわけではないのだが、そこは相手の解釈に任せておくことにした。少なくとも、『貸してくれる楽器はサロン用のものではない』と彼女に言われたわけではない。
推定帳簿係は『さすがモーツァルトさん』と『素晴らしい』を何度も繰り返しながら、彼を劇場の中へ案内していった。ドイツで大きな顔をしているイタリア人たちに一矢報いた気がして、ヴォルフガングは気分が良かった。
午前中の劇場は閑散としていた。玄関ホールを清掃人たちが掃除用具をもって歩き回っているのがドアの隙間から見える。
衣装係が布地を運び込み、道具係がなんだかわからないものの山の前で声高に意見を言い合っている。楽団員が楽器ごとの合同練習をしている音があちこちから聞こえていた。
「控室はこちらですよ。練習場所はこちらとあちらと……。事務員に声をかけていただければ、いつでも空いている場所をお教えできます」
あちこちのドアを開けて説明してくれる。
「ブルグ劇場の練習場は初演間近な演目のものが優先なのでね。こちらに空いている場所があると、他の演目の練習に来るものがいるんですよ」
聞いていないことも勝手に話してくれる。
「ご存知でしょうが、今は皇帝陛下の方針でイタリア・オペラはやらないのです。新作のジングシュピールが常に劇場にかけられています。とはいえそう次々に新作は作れませんので、こちらは臨時の演奏会専用になってしまっているんですよ」
「僕も聞きました。非常に革新的な試みですね」
ヴォルフガングは慎重に言った。
彼もウィーンに来て驚いたのだが、皇帝は宮廷劇場からイタリア・オペラを完全に追い出してしまったそうなのだ。
ヴォルフガングもイタリア人は好きではない。だが、それとは話が別だ。ヨーロッパ中を探しても、イタリア・オペラを上演しない宮廷劇場なんて非文化的なものが存在するとは思えない。
高慢ちきで、フランス語を話さないやつはみんな野蛮人だと思い込んでいるやつらばっかりのパリでさえ、イタリア・オペラを上演する劇場はちゃんとあるのだ。
十三年前を思い出す。謁見した皇帝は親切で、ヴォルフガングがオペラを書くという話に興味を持ち、どんな筋書きなのか、どんな風な音楽をつけるつもりなのかと細かく聞いてきた。
『余は質のいいオペラ・ブッファが好きなのだ』
と言って、
『ぜひ良い作品を仕上げて劇場にかけるように』
と後押しをしてくれた。
皇帝が自らヴォルフガングの作品に期待すると言ってくれたのに、劇場の馬鹿どもがよってたかって上演を阻止した。
思い出すと腹が立ってきた。そしてそんな皇帝がイタリア・オペラの上演を取りやめたというのはおかしな話だと思った。




