表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
20/22

第二十話:怒り


逃げた。俺は、逃げた。


足はふらつき、息も絶え絶えだった。

キアリカの町中を一歩、また一歩と歩いていくたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。


今日も、いつも通りの始まりだった。

朝起きて、井戸の冷たい水を被って、飯を食って。

煩悩が生まれたのは、日課の千本素振りを始めた頃だった。


命の危険を、感じた。

このままじゃ、倒れる。死んでしまう。

そう思った時には「トイレに行ってくる」と告げ、その場を離れていた。


修行の途中で逃げ出すなんて、弟子失格だろう。


昼下がりの街は、どこか肌寒かった。

街の喧騒が妙に皮肉めいていて、笑い声は自分に向けた嘲笑に感じた。

会話や音楽が遠くに聞こえるたび、俺の足は自然と裏通りの暗がりを選んでいた。


適当な狭い裏路地。

壁にもたれかかり、ずるずると腰を落とす。

泥だらけの服、汗まみれの顔、擦りむけた膝。

誰かに見られたら、どんな顔をされるんだろう。


元の世界では、慣れた光景だった。

人と関わりたいと思って始めた、居酒屋の仕事。

勤務初日にきつく怒鳴られたのがイヤで、トイレのふりをして逃げ出した。

性根が腐りきっているのだ。


ああ、でもこの世界はいいな。

携帯電話がないから。


頭を抱え、膝を抱え、縮こまる。

どうして、こうなるんだろう。

最初はあんなにやる気だったのに。

「頑張ろう」「強くなろう」「誰かを守れる自分になろう」全部、どこかへ消えた。


体も、心も、動かない。

街の喧騒も、もう聞こえない。

まるで、俺だけ取り残されたみたいだ。



そのとき、足音が近づいてきた。

女性の、気品を感じる、しなやかな足音だ。


今、あいつにだけは絶対に会いたくないな。

うつむいたまま、気付かないふりをした。


足音は自分を通り過ぎた所で、ぴたりと止まった。


「そこの君、名をナーガというのではないか?」


リオラの声ではなかった。低く、ハスキーな女性の声。

知っている人物には心当たりがない。

思わず、顔を上げる。


目の前にいたのは、銀色の長髪に褐色の肌が良く似合った、長身の女だった。

アジアの民族衣装の様な、舞でも踊りそうな動きやすい格好をしている。


「……どうして俺の名を?あなたは?」

「失礼。私はアイリーン・スカナンダ。金級の冒険者だ」


アイリーン。どこかで聞いた名だ。

どこだったか……。


「弟子を取っていてな。その子がよく君の話をしていた。

……見た目と、有り様があまりにも一致していたから、もしやと思って声をかけた」


思い出した。

崩拳のアイリーン。リオラの訓練講師だ。


にしても有り様ってなんだ。普段からこんな無様だってのかい。


「崩拳のアイリーンさんがこんな所で何を?修行をつけなくていいんですか」


「問題ない。私が見ていなくても彼女はよくやっている。

 ここへは、ただ通りかかっただけだが……」


流石はリオラだな。逃げ出したクズとは大違いだ。


「……ほう」


アイリーンは俺の姿をじっと見つめたあと、ふっと息を吐いた。

まるで独り言のように、ぽつりと呟く。


 

「……もったいないな」

「……は?」


思わず聞き返してしまった。

アイリーンは腕を組んで壁に背を預け、俺の全身を見下ろしながら言った。


「大方、訓練中に逃げ出したのだろう?君の様な目をした人間を多く見てきたよ」

「……」

「泥まみれ、汗まみれ、膝は擦りむけ、手にはマメだらけ。

一目で分かる。どれだけ無理を重ねたか、誰にだってな」

「……」

「その体。こんなボロボロになるまで鍛えてきた証じゃないか」

「……」

「……それだけ積み重ねてきたものを、今ここで捨てるのか?」


静かに、焚き火に薪をくべるような声だった。

責めるでも、慰めるでもなく、ただまっすぐに問いかけてくる。

俺は何も言い返せなかった。

目の前のこの人は、言い訳を許すような空気を微塵も纏っていない。


 「苦しいなら、立ち止まればいい。泣けばいい。

だが──ここで"捨てる"という選択だけは、よく考えろ」


アイリーンは体を起こし、ひと言だけ付け加えた。


「少なくとも君の仲間は、己の弱さと向き合っているぞ」


そう告げて、路地の奥に歩いていく。

俺は何も言えないまま、俯いていた。


ふと、何か思い出したかのようにアイリーンが向き直る。


「そういえば。君の師は誰なんだ?」


その問いかけに、少し黙ってから答える。


「……クサバミ」


その名を聞いた途端、アイリーンは目を見開き、盛大に笑い出した。


「ハッハッハッハ!そうか!そうか!ナーガ君、絶対にここでやめるな!」


彼女はそのまま満足した顔で去っていってしまった。


笑いながらも、どこか本気の眼差しを残したまま、

アイリーンはそのまま満足げに去っていった。


俺は、呆然とその背中を見つめることしかできなかった。





アイリーンが去ったあと、俺はしばらく動けなかった。

彼女の足音はすぐに遠ざかり、また街の雑音だけが戻ってくる。

 

さっきまで彼女に言われた言葉が、頭の中で何度もリフレインする。


「……ちくしょう」


吐き捨てるように呟いて、壁に頭をぶつけた。

情けなかった。悔しかった。

何より、心のどこかでその言葉に揺さぶられている自分が、一番許せなかった。

逃げて、俯いて、言い訳して、誰かの優しさに縋って。

結局、俺はいつも同じことを繰り返してる。


怒りだけが今の自分の原動力だった。


クサバミを裏切ったこと。

同じ過ちを、また繰り返したこと。

必死で頑張っている仲間を忘れ、背を向けたこと。


その全部を、許せなかった。


くべられた"薪"を燃やして、立ち上がる。

筋肉痛で震える手足を、張り手で黙らせる。


戻ろう。

クサバミに謝ろう。

許されないかも知れないけど、それならそれで一人で続けよう。


甘い考えは消えていた。ただ、醜い自分への怒りだけが体を前に動かしていた。







※※

<クサバミ視点>


弟子が逃げた。


小便と言って稽古場を離れてから、1時間は経っただろう。

無理もない。所詮は好奇心だけの軟派者だったのだ。


「くーちゃん。ワシみたいなんがおったら、助けてくれるか」


過去の情景が蘇る。古く、苦い、出来れば思い出したくない記憶。

旧友のひどく訛った話し方を思い出して、今回の弟子入りを受け入れた。


蓋を開けてみれば、ヘタレもいいとこだ。

目を離せばすぐ休む、止まる、サボる。

何も大したことはさせていない。

王国の騎士団の方が、よほど過酷な訓練をしているだろう。


「ワシの世界は平和じゃからのー。戦いなんて、知らないやつの方が多いんよ」


また聞こえてくる。友はよく、自分の世界の話をしてくれた。

戦もなく、治安も良い国。魔物は存在せず、冒険者もさほどいない。

だからと言って、甘やかしていい理由にはならんだろ。

あいつは自分で訓練を願い出てきたんだ。



飯はたらふく食わせてやった。寝る場所だって用意してやった。

決して邪険には扱っていなかったハズだ。

もう、戻って来ることはないだろう。そんな目をしていた。

弟子をとったのは随分久しぶりだが、期待外れだったな。


いつもの酒場で飲み直そうと、腰を上げた時だった。

ボロボロの体をした男が足を引きずりながら、迷いなく歩いてきた。


ナーガだ。戻って来るとは思わなかったが。


「どのツラ下げて戻ってきやがった?」


そう吐き捨て、ナーガに軽蔑の目を向ける。

彼は立ち止まり、両膝を着いた。

そのまま地面に手をつけ、砂の上に頭突きしたのだ。


「トイレと嘘をついて逃げました。申し訳ありませんでした」


目の前の男はそう言って、未だ硬い地面に額をこすりつけている。

その姿勢をとる文化に覚えはなかったが、謝意だけはそれとなく伝わってきた。


「もう、二度と逃げ出しません。もう一度チャンスを下さい」


ナーガは顔だけを上げ、そう続けた。

その目には、怒気だけが満ちていた。

誰に向けるでもない、しかし明確な怒り。


昔、そんな目をした奴を鍛えたっけな。


「お前、何の為に強くなりたいんだ?」


なんとなく気になり、問いかけてみる。


「大嫌いな自分と、命を賭けて守りたい女の為です」


それを聞いて、少し笑みがこぼれてしまった。

やれやれ、もうちょっといじめてやりたかったんだけどな。


「いい目してんじゃねえか。何があったか知らねえが、やる気があるんなら今すぐ続きやれ」


「はい」と短く答えてすぐ、訓練用の木剣を手に取り、素振りを続けた。


それを見て、もう一度石段に座り直す。一口酒を飲み、息をつく。


まったく、また厄介な弟子を拾っちまったな。

……だが、今後が実に楽しみだ。



この後、リオラの訓練メニューが何故か倍になった

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ