第二十話:怒り
逃げた。俺は、逃げた。
足はふらつき、息も絶え絶えだった。
キアリカの町中を一歩、また一歩と歩いていくたびに、胸の奥がぎゅっと締めつけられる。
今日も、いつも通りの始まりだった。
朝起きて、井戸の冷たい水を被って、飯を食って。
煩悩が生まれたのは、日課の千本素振りを始めた頃だった。
命の危険を、感じた。
このままじゃ、倒れる。死んでしまう。
そう思った時には「トイレに行ってくる」と告げ、その場を離れていた。
修行の途中で逃げ出すなんて、弟子失格だろう。
昼下がりの街は、どこか肌寒かった。
街の喧騒が妙に皮肉めいていて、笑い声は自分に向けた嘲笑に感じた。
会話や音楽が遠くに聞こえるたび、俺の足は自然と裏通りの暗がりを選んでいた。
適当な狭い裏路地。
壁にもたれかかり、ずるずると腰を落とす。
泥だらけの服、汗まみれの顔、擦りむけた膝。
誰かに見られたら、どんな顔をされるんだろう。
元の世界では、慣れた光景だった。
人と関わりたいと思って始めた、居酒屋の仕事。
勤務初日にきつく怒鳴られたのがイヤで、トイレのふりをして逃げ出した。
性根が腐りきっているのだ。
ああ、でもこの世界はいいな。
携帯電話がないから。
頭を抱え、膝を抱え、縮こまる。
どうして、こうなるんだろう。
最初はあんなにやる気だったのに。
「頑張ろう」「強くなろう」「誰かを守れる自分になろう」全部、どこかへ消えた。
体も、心も、動かない。
街の喧騒も、もう聞こえない。
まるで、俺だけ取り残されたみたいだ。
そのとき、足音が近づいてきた。
女性の、気品を感じる、しなやかな足音だ。
今、あいつにだけは絶対に会いたくないな。
うつむいたまま、気付かないふりをした。
足音は自分を通り過ぎた所で、ぴたりと止まった。
「そこの君、名をナーガというのではないか?」
リオラの声ではなかった。低く、ハスキーな女性の声。
知っている人物には心当たりがない。
思わず、顔を上げる。
目の前にいたのは、銀色の長髪に褐色の肌が良く似合った、長身の女だった。
アジアの民族衣装の様な、舞でも踊りそうな動きやすい格好をしている。
「……どうして俺の名を?あなたは?」
「失礼。私はアイリーン・スカナンダ。金級の冒険者だ」
アイリーン。どこかで聞いた名だ。
どこだったか……。
「弟子を取っていてな。その子がよく君の話をしていた。
……見た目と、有り様があまりにも一致していたから、もしやと思って声をかけた」
思い出した。
崩拳のアイリーン。リオラの訓練講師だ。
にしても有り様ってなんだ。普段からこんな無様だってのかい。
「崩拳のアイリーンさんがこんな所で何を?修行をつけなくていいんですか」
「問題ない。私が見ていなくても彼女はよくやっている。
ここへは、ただ通りかかっただけだが……」
流石はリオラだな。逃げ出したクズとは大違いだ。
「……ほう」
アイリーンは俺の姿をじっと見つめたあと、ふっと息を吐いた。
まるで独り言のように、ぽつりと呟く。
「……もったいないな」
「……は?」
思わず聞き返してしまった。
アイリーンは腕を組んで壁に背を預け、俺の全身を見下ろしながら言った。
「大方、訓練中に逃げ出したのだろう?君の様な目をした人間を多く見てきたよ」
「……」
「泥まみれ、汗まみれ、膝は擦りむけ、手にはマメだらけ。
一目で分かる。どれだけ無理を重ねたか、誰にだってな」
「……」
「その体。こんなボロボロになるまで鍛えてきた証じゃないか」
「……」
「……それだけ積み重ねてきたものを、今ここで捨てるのか?」
静かに、焚き火に薪をくべるような声だった。
責めるでも、慰めるでもなく、ただまっすぐに問いかけてくる。
俺は何も言い返せなかった。
目の前のこの人は、言い訳を許すような空気を微塵も纏っていない。
「苦しいなら、立ち止まればいい。泣けばいい。
だが──ここで"捨てる"という選択だけは、よく考えろ」
アイリーンは体を起こし、ひと言だけ付け加えた。
「少なくとも君の仲間は、己の弱さと向き合っているぞ」
そう告げて、路地の奥に歩いていく。
俺は何も言えないまま、俯いていた。
ふと、何か思い出したかのようにアイリーンが向き直る。
「そういえば。君の師は誰なんだ?」
その問いかけに、少し黙ってから答える。
「……クサバミ」
その名を聞いた途端、アイリーンは目を見開き、盛大に笑い出した。
「ハッハッハッハ!そうか!そうか!ナーガ君、絶対にここでやめるな!」
彼女はそのまま満足した顔で去っていってしまった。
笑いながらも、どこか本気の眼差しを残したまま、
アイリーンはそのまま満足げに去っていった。
俺は、呆然とその背中を見つめることしかできなかった。
アイリーンが去ったあと、俺はしばらく動けなかった。
彼女の足音はすぐに遠ざかり、また街の雑音だけが戻ってくる。
さっきまで彼女に言われた言葉が、頭の中で何度もリフレインする。
「……ちくしょう」
吐き捨てるように呟いて、壁に頭をぶつけた。
情けなかった。悔しかった。
何より、心のどこかでその言葉に揺さぶられている自分が、一番許せなかった。
逃げて、俯いて、言い訳して、誰かの優しさに縋って。
結局、俺はいつも同じことを繰り返してる。
怒りだけが今の自分の原動力だった。
クサバミを裏切ったこと。
同じ過ちを、また繰り返したこと。
必死で頑張っている仲間を忘れ、背を向けたこと。
その全部を、許せなかった。
くべられた"薪"を燃やして、立ち上がる。
筋肉痛で震える手足を、張り手で黙らせる。
戻ろう。
クサバミに謝ろう。
許されないかも知れないけど、それならそれで一人で続けよう。
甘い考えは消えていた。ただ、醜い自分への怒りだけが体を前に動かしていた。
※※
<クサバミ視点>
弟子が逃げた。
小便と言って稽古場を離れてから、1時間は経っただろう。
無理もない。所詮は好奇心だけの軟派者だったのだ。
「くーちゃん。ワシみたいなんがおったら、助けてくれるか」
過去の情景が蘇る。古く、苦い、出来れば思い出したくない記憶。
旧友のひどく訛った話し方を思い出して、今回の弟子入りを受け入れた。
蓋を開けてみれば、ヘタレもいいとこだ。
目を離せばすぐ休む、止まる、サボる。
何も大したことはさせていない。
王国の騎士団の方が、よほど過酷な訓練をしているだろう。
「ワシの世界は平和じゃからのー。戦いなんて、知らないやつの方が多いんよ」
また聞こえてくる。友はよく、自分の世界の話をしてくれた。
戦もなく、治安も良い国。魔物は存在せず、冒険者もさほどいない。
だからと言って、甘やかしていい理由にはならんだろ。
あいつは自分で訓練を願い出てきたんだ。
飯はたらふく食わせてやった。寝る場所だって用意してやった。
決して邪険には扱っていなかったハズだ。
もう、戻って来ることはないだろう。そんな目をしていた。
弟子をとったのは随分久しぶりだが、期待外れだったな。
いつもの酒場で飲み直そうと、腰を上げた時だった。
ボロボロの体をした男が足を引きずりながら、迷いなく歩いてきた。
ナーガだ。戻って来るとは思わなかったが。
「どのツラ下げて戻ってきやがった?」
そう吐き捨て、ナーガに軽蔑の目を向ける。
彼は立ち止まり、両膝を着いた。
そのまま地面に手をつけ、砂の上に頭突きしたのだ。
「トイレと嘘をついて逃げました。申し訳ありませんでした」
目の前の男はそう言って、未だ硬い地面に額をこすりつけている。
その姿勢をとる文化に覚えはなかったが、謝意だけはそれとなく伝わってきた。
「もう、二度と逃げ出しません。もう一度チャンスを下さい」
ナーガは顔だけを上げ、そう続けた。
その目には、怒気だけが満ちていた。
誰に向けるでもない、しかし明確な怒り。
昔、そんな目をした奴を鍛えたっけな。
「お前、何の為に強くなりたいんだ?」
なんとなく気になり、問いかけてみる。
「大嫌いな自分と、命を賭けて守りたい女の為です」
それを聞いて、少し笑みがこぼれてしまった。
やれやれ、もうちょっといじめてやりたかったんだけどな。
「いい目してんじゃねえか。何があったか知らねえが、やる気があるんなら今すぐ続きやれ」
「はい」と短く答えてすぐ、訓練用の木剣を手に取り、素振りを続けた。
それを見て、もう一度石段に座り直す。一口酒を飲み、息をつく。
まったく、また厄介な弟子を拾っちまったな。
……だが、今後が実に楽しみだ。
この後、リオラの訓練メニューが何故か倍になった




