32.六階 〜進退の迷い〜
■地下迷宮 六階 ナイラ 治癒術師Lv4 商人Lv2
ちょっと父ライオンがびくっとしていたが
構っている場合ではない
状態異常を解除する魔法の詠唱を始めた
「異質異質
身に宿る違和感のほかに
得られるものはなく
穢れ穢れ
侵される脳と体
わずかにも清められず
ただひとつの解放に
たどり着いた我らに
その加護を与え給え
命の精霊よ
──解呪」
闇色の粒がナイラの胸元から
ざらりと大量にこぼれ落ちた
それらが光に包まれて
ひとつふたつ
やがてすべてが立ち昇っていく
「きゅう……」
子ライオンの毛皮から黒みがなくなり
親と同じ金褐色に変化していった
それを最後まで見届けることなく
ナイラの身体はばたりと地面に投げ出された
魔力の枯渇だ
前夜に魔力を空にしてから
一度もテントで寝ていない
テントでなら八割回復するが
屋外で一晩寝ると
回復する魔力は三割程度だ
肩口の痛みさえ麻痺して
深い寝息を立てるナイラ
父ライオンは彼女を背に乗せて
自分の群れに戻っていった
母ライオンと子ライオンも
それに続く
空は夕暮れに赤く染まり
沈みゆく太陽と
光を放ち始めた月
それから一足早く輝き出した宵の明星が
目に鮮やかだった
* * *
目が覚めたら
もう陽が高くなっていた
魔力が三割がた回復したナイラは
傷が少し癒やされる魔法を自身にかけた後
ライオンたちに礼を告げて回った
ウィンの元へ最後にやってくる
はじめに礼を言うと彼は首を振った
「礼を言うのハこちラのほうダ
アりガとう──ナイラ」
「お母さんとお子さんは?
お元気ですか」
「アア
寝ている時間ガ長いガ
──元気ダ」
「良かった」
自身の傷を気にしてか
かたい表情をしていたナイラも
二匹が無事だと聞くと
うれしそうに相好を崩した
彼女はライオンたちが囲んでいる
円を示してリーダーライオンに尋ねた
「ここ守られてるみたいですけど
──転送陣ですか?」
「そうダ
七階へ行ける」
「あの……地上へ行ける陣の場所
知りませんか」
「地上へ?」
「ないでしょうか」
「いヤ……アるのハ知っているガ
アんタのほうガ詳しいハず……
地図持ってるダろ?」
「地図?
だって地図には五階までのことしか
書かれてなくて……」
ナイラはガサガサと音を立てて
折りたたんでいた地図を開いた
すると一階から五階までの情報が
空っぽになっている代わりに
六階の全容と七階の七割ほどが
描かれているものに変わっていた
「これ……すごい
この階のこと全部?」
「分カっタみタいダナ」
「はい! 地上じゃなくて
この迷宮の入口の近くに
つながってるんですね
一階です
ここからそう遠くありません」
ナイラは満面の笑顔で礼を告げると
地図をしまって歩き出す
ウィンはそれを追いかけてきた
「おい! おい待てよナイラ!
あんたマサカ上に帰るのカ?
もう戻ってこナいのカ?」
「…………!」
ナイラはかたくなった表情で
迷いに揺れる瞳に
ライオンの姿を映す
「私……は
私は
だって──もう」
ナイラの胸中には様々な思いが
駆けめぐっていた
行けるところまで来た
もう充分だ
今は朱雀の言っていたことが
少しだけ分かる気がした
治癒魔法が常に良い結果に
結びつくとは限らないのだ
あの牛に向けられた敵意が
ナイラには忘れられなかった
このライオンのように
依頼されたならともかく
押し売りまがいのことはしたくない
それに六階より七階のほうが
一層危険だろう
ナイラはうつむく
「ナアナイラ」
そっと
さとすような優しい声で
ウィンが言う
「あんた
きっと他のパーティー組んでる連中よりも
大変ナんダと思うよ
でもサ
絶対十階まで行くべきダ
それでサ助けてヤってくれよ」
「十階──
それって……?
ラスボスがいる階ですよね
誰か捕まってるんですか」
「これ以上ハ言えナいんダよ
悪いナ
けど
あんたナラ
いヤ
あんたにしカ助けラれナい」
一階につながる転送陣の前で
ナイラは立ち止まった
ウィンはそわそわしながら
彼女の一挙手一投足を
見守っている
「……」
陣へと向けて
持ち上げられた彼女の手は
しかし魔力を注ぐことは
しなかった
「私にしか……」
その理由は
ナイラにしかできないことが
十階に待っているという話
ウィンのそのセリフは
それから長いことナイラの脳裏に
棲み続けることになるのだった
* * *
『考えさせてください』
ナイラがウィンに対して
告げた答えは決断の保留
保留にするから
セーブポイントだけ変えて
地上へは帰らないことにした
いざとなれば
いつでも帰れる
その事実だけで
安心は得られる
本当は
地上に戻るつもりだった
でも分かっていた
おそらく地上に戻ったら
二度と地下迷宮には来ない
だから
まだ地上へは戻れない
戻らないんだ




