27.六階 〜獣の世界にて〜
■地下迷宮 六階 ナイラ 治癒術師Lv4 商人Lv2
夜の闇に包まれた空に
円い月が浮かんでいた
その月に負けない光をともした星たちが
ちらちらと瞬いている
「ここ……地下……よね?」
壁のない階や明かりのある階なら
これまでにもあった
天井が高い場所もあった
だが空が見えている階は
ここが初めてだ
「空……じゃないの
投影の術……?」
試しに十数歩
歩いてみた
天井に夜空の光景を映している
投影の術なら動かない月星は
そのうち見えなくなるはず
本物であれば
あれらは後をついてくるはずだ
「──うそ」
大きな月も
数多の星も
ナイラの後ろをついてきて
距離が変わらないように思えた
月星が明るいから
光石の明かりは必要ない
石の明かりを消した彼女は
改めて周囲を見渡す
壁の代わりに
岩があった
岩が時々
木々に変わった
木々の向こうに
巨大な獣の姿が見えた
チーター
シマウマ
サイ
それに──ライオン
ナイラは手近な岩を背にして
真ん丸くなった両目を
ぎこちなく瞬かせた
冷や汗がこめかみから頬を伝って落ちていく
知識が現実に変わる瞬間
こんなにも身体は萎縮するのか
急速に高鳴る鼓動を落ち着かせるため
胸元を右手で押さえる
胸ポケットには離脱の羽根
そうだ
これがある
だから大丈夫──のはずだ
そのはず だ
ナイラは両目を閉じて
深呼吸をした
これまで自分が無事でいられたのは
会話が成立するだけの知能を持つ
『魔物』が相手だったからだ
草食獣ならまだいい
問題は肉食獣だ
三階にいたワニとも
戦わずに逃げてきた
まともに戦えば捕食されるのは
火を見るより明らか
手足が震える
しかし幸いなことに
夜はみな眠っているのか
辺りは静かなものだ
今のうちに探索するべきなのかと
まだ恐れにこわばっている足を叱りつけて
浮遊の羽根を使い
するりと地面の上を滑り出した
浮遊の羽根は慣れてくると
ただのひとつの足音も立てず
まるで氷の上を滑るように
なめらかに移動することが叶う
星月夜の中
ナイラは木々の影を縫うように
岩から岩へと移っていった
うなじでひとつに結んでいる黒髪が
月光に照らされて艶と光る
徐々にこの場にいることに慣れてきた彼女は
岩や木々に区切られた通路を順調に通り過ぎて
やがて水場にたどり着く
二本の立派な角を生やした牛の群れが眠っている
水場にはさざなみのひとつもなく
鏡のような水面に月と星が映っていた
綺麗だ
「はぁ」
本当に綺麗なものを見ると
余分な感想は出てこなくなるんだなと
ナイラはしみじみ思った
「グ……
グルル」
「?」
のん気に夜空を堪能していた時のことだ
ナイラは背後から
ザラつく喉声が聞こえてきて
そちらへ振り向いた
「グル……」
「…………」
そこには上下に立派な牙を生やした大きな口
美しい斑模様に三角の耳
月光を受けてきらめくぴんと伸びた白いひげ
ナイラはすっかり失念していたが
もちろん居て当たり前の
夜行性の獣──ヒョウだった
「グルル」
「……っ」
狩る気満々な雰囲気の口元には
よだれが糸を引き
今にも飛びかかろうとするかの
背を丸めた体勢で
ナイラをじっと見つめている
「きゃあきゃあ
いやあぁぁぁぁ!!!!」
逃げる気で背を向ける
「シャーッ!!」
この段階で
離脱の羽根のことは
頭から抜け落ちている
それに戦闘とは違うのか
周囲を囲う円陣が出ない
「やだやだ
かくまってくださいっ」
眠っている牛の群れのただなかへ
飛び込むという暴挙に出るナイラ
でもそれでは群れの端にいる牛を
代わりに犠牲にしようとしていることに
なってしまう
そのことにはたと気付いて
ナイラは浮遊の羽根で上空に逃げた
ヒョウをおびき寄せようとの
心づもりだが
もう何が正解なのかは
当人にもついぞ分かっていない
「こっちですよ!」
手招きしながら空気の階段を
五段分
六段分
七段分はあがったか
ヒョウが助走なしでナイラに向かって
飛びかかるが高さが足りず届かない
ナイラは空中で屈んで
緊張に張り裂けそうな心臓を
片手で押さえた
その手のひらにでこぼこした感触がある
そうだ
「離脱の羽根──!」
朱雀にもらってから初めて使うことになる
特別な羽根はしかしポケットから取り出してみると
まだ使える状態になっていなかった
「…………」
使えるなら羽根の縁取りが
金色に光っているはずなのだ
しかし羽根はまだ黒っぽい紫色をしており
ひとかけらも光っていなかった
「…………」
ナイラは無言で離脱の羽根を元に戻して
一秒
次いで
がばっと身を動かして
空気の階段を
息が切れるまで駆け上がった
ヒョウはあきらめたのか
ナイラのことを追ってこない
目覚めて散り散りに逃げていく水牛を追って
水しぶきをあげている
ナイラは少しだけ胸が痛かった
けれども
ヒョウにとってはあれは
生きていくための狩りだ
自然の摂理にはあらがえない
むしろ自分が巻き込まれないようにするので
精いっぱいなのだから
やや小さめで動きの遅い牛が
ヒョウに引きずられていった
見る見るうちに
牛の生命エネルギーが
消えていく
ヒョウの大きな牙が
牛の首すじの肉を切り裂いた
牛の足がけいれんしていた
助けたい
ナイラはそう思った
けれども
それが不可能なことも
また分かっていた
分かっていたのだ──
「命よ終われ」
だから
その声が聞こえてきた時は
複雑な心境で
眉間に皺を寄せていた
「トヤさん!?
いつの間に……
何してるんですか
絶命の魔法なんて!」
獣のはるか上空にいるナイラ
その横に立っているトヤの
靴の裏からも緑の光が見える
彼は冷えた面持ちで言った
「お前も分かっているだろう
治癒術師
あれはもう助からない
ならば苦しみは最小限に
息の根を止めてやるのが
せめてもの情けだ」




