11.六階 〜獣の世界には一番厳しい自然の摂理がある〜
■地下迷宮 六階 ナイラ 治癒術師Lv4 商人Lv2
夜の闇に包まれた空に
円い月が浮かんでいた
その月に負けない光をともした星たちが
ちらちらと瞬いている
「ここ……地下……よね?」
壁のない階や明かりのある階なら
これまでにもあった
天井が高い場所もあった
だが空が見えている階は
ここが初めてだ
「空……じゃないの
投影の術……?」
試しに十数歩
歩いてみた
天井に夜空の光景を映している
投影の術なら動かない月星は
そのうち見えなくなるはず
本物であれば
あれらは後をついてくるはずだ
「──うそ」
大きな月も
数多の星も
ナイラの後ろをついてきて
距離が変わらないように思えた
月星が明るいから
光石の明かりは必要ない
石の明かりを消した彼女は
改めて周囲を見渡す
壁の代わりに
岩があった
岩が時々
木々に変わった
木々の向こうに
巨大な獣の姿が見えた
どれも図鑑では見たことがある
チーター
シマウマ
サイ
それに──ライオン
ナイラは手近な岩を背にして
真ん丸くなった両目を
ぎこちなく瞬かせた
冷や汗がこめかみから頬を伝って落ちていく
急速に高鳴る鼓動を落ち着かせるため
胸元を右手で押さえる
胸ポケットには離脱の羽根
そうだ
これがある
だから大丈夫──のはずだ
そのはず だ
ナイラは両目を閉じて
深呼吸をした
これまで自分が無事でいられたのは
会話が成立するだけの知能を持つ
『モンスター』が相手だったからだ
草食獣ならまだいい
問題は肉食獣だ
三階にいたワニも戦わずに逃げてきた
まともに戦えば捕食されるのは
火を見るより明らか
手足が震える
しかし幸いなことに
夜はみな眠っているのか
辺りは静かなものだ
今のうちに探索するべきなのかと
まだ恐れにこわばっている足を叱りつけて
浮遊の羽根を使い
するりと地面の上を滑り出した
浮遊の羽根は慣れてくると
ただのひとつの足音も立てず
まるで氷の上を滑るように
なめらかに移動することが叶う
星月夜の中
ナイラは木々の影を縫うように
岩から岩へと移っていった
うなじでひとつに結んでいる黒髪が
月光に照らされて艶と光る
徐々にこの場にいることに慣れてきた彼女は
岩や木々に区切られた通路を順調に通り過ぎて
やがて水場にたどり着く
二本の立派な角を生やした牛の群れが眠っている
水場にはさざなみのひとつもなく
鏡のような水面に月と星が映っていた
綺麗だ
「はぁ」
本当に綺麗なものを見ると
余分な感想は出てこなくなるんだなと
ナイラはしみじみ思った
「グ……
グルル」
「?」
のん気に夜空を堪能していた時のことだ
ナイラは背後から
ザラつく喉声が聞こえてきて
そちらへ振り向いた
「グル……」
「…………」
そこには上下に立派な牙を生やした大きな口
美しい斑模様に三角の耳
月光を受けてきらめくぴんと伸びた白いひげ
ナイラはすっかり失念していたが
もちろん居て当たり前の
夜行性の獣だった
「グルル」
「ひ──ヒョウー!?」
狩る気満々な雰囲気の口元には
よだれが糸を引き
今にも飛びかかろうとするかの
背を丸めた体勢で
ナイラをじっと見つめている
「きゃあきゃあ
いやあぁぁぁぁ!!!!」
水を手にすくい
ヒョウの顔めがけて
ばしゃん! と跳ね散らかす
「シャーッ!!」
ヒョウの口がひときわ大きく開いて
効果抜群に威嚇してきた
この段階で
離脱の羽根のことは
頭から抜け落ちている
それに戦闘とは違うのか
周囲を囲う円陣が出ない
「やだやだ
かくまってくださいっ」
眠っている牛の群れのただなかへ
飛び込むという暴挙に出るナイラ
でもそれでは群れの端にいる牛を
代わりに犠牲にしようとしていることに
なってしまう
そのことにはたと気付いて
ナイラは浮遊の羽根で上空に逃げた
ヒョウをおびき寄せるためだ
「こっちですよ!」
手招きしながら空気の階段を
五段分
六段分
七段分はあがったか
ヒョウが助走なしでナイラに向かって
飛びかかるが高さが足りず届かない
ナイラは空中で屈んで
緊張に張り裂けそうな心臓を
片手で押さえた
その手のひらにでこぼこした感触がある
そうだ
「離脱の羽根──!」
朱雀にもらってから初めて使うことになる
特別な羽根はしかしポケットから取り出してみると
まだ使える状態になっていなかった
「…………」
使えるなら羽根の縁取りが
金色に光っているはずなのだ
しかし羽根はまだ黒っぽい紫色をしており
ひとかけらも光っていなかった
「…………」
ナイラは無言で離脱の羽根を元に戻して
一秒
次いで
がばっと身を動かして
空気の階段を
息が切れるまで駆け上がった
ヒョウはあきらめたのか
ナイラのことを追ってこない
目覚めて散り散りに逃げていく水牛を追って
水しぶきをあげている
ナイラは少しだけ胸が痛かった
けれども
ヒョウにとってはあれは
生きていくための狩りだ
自然の摂理にはあらがえない
むしろ自分が巻き込まれないようにするので
精いっぱいなのだから
やや小さめで動きの遅い牛が
ヒョウに引きずられていった
ボゥボゥと死にそうなほど
悲痛な声で鳴いている大きい牛が何頭もいた
足下から苦鳴が振動となって伝わってくる
ナイラは空中の階段の上で屈み込んで
両膝を抱えてそこに顔をうつ伏せた
「ごめんね……」
でも仕方ないことだ
ナイラはそう自分に言い聞かせる
しかし矛盾にも気が付いている
これが自分だったら
どんな手を使っても逃げ出せるように
全力を尽くす
自分以外の生き物を見殺しにするのは
果たして命の誓いに見合う行動だろうか?
けれど
あのヒョウにも日々の糧は必要だ
もしかしたら妻子持ちかもしれないし
狩りの成果は無駄にはされない
それに何より
あの時
ナイラにできることなどなかった
「ごめんね。ごめん……」
他と比べて小さかったのは
まだ子どもだったのかもしれない
惜しんでも惜しみきれない
愛すべき子どもを失って
彼ら彼女らの心痛は如何ばかりか
ナイラがそのようにあれこれ慮っていると
わずかに血の香りが漂ってきた
さっき犠牲になった子牛かと思ったが
切羽詰まった鳴き声が
足元から聞こえてきたので
違うと気付いた
階段をひとつ跳びに飛び降りる
羽根の効果でゆっくりと
沈み込むような速度で大地まで降りると
急いで血臭の元へと向かった
「 ボォオー……!! 」
そこでは小ぶりな角を生やした
大きな牛が他の牛に対して
幾度も頭突きを繰り返していた
血とともに飛び散る肉片
縦にひび割れる角
牛同士の喧嘩……?
ナイラも一時はそう考えたが
すぐに違うようだと思い直した
角が大きい方は
大きな牛の暴走を
宥めようとしているように見える
いずれにせよ挟まれたら即死だと思うと
おいそれと近付けなくて
ナイラは少しの間
牛の狂乱を涙に濡れた目に映していた
しかしそれも長いことではない
何度か瞬きをして
目元から水気を飛ばした彼女は
きりりとそこに力を込めて
スタートダッシュをかけた
「光満ちたる永遠の水面
闇に沈みし刹那の洞穴
天より注ぎ砕けし力よ
その欠片もて
大いなる癒しの業となさん」
走り出すと同時に唱え始めたのは
どれほど深い傷も完全治癒する魔術
レベル四での成功率は
五割に満たないそれを
ナリアは初めて試した
浮遊の羽根で高く跳び
頭部を血まみれにした牛の
背へ目がけて落ちていく
うまく乗れはしたが
それはまるでロデオのようなものだ
幾度となく仲間に
頭を打ちつけている牛の
首根っこにしがみついて
彼女はようやく気付いた
「いの、ちのっ
い──ずみ、より……っ
わきっ!」
激しすぎる振動に
振り落とされないようにするだけで
精いっぱいで
呪文の詠唱など続けられないのだ
ナイラは自分のふがいなさに涙ぐみながら
牛を抱く腕に力を込めた
呪文の詠唱は止められないから
心の中で天に祈りを捧げる
どうかこの子が止まってくれますように
その愛情が悲痛を呼びませんように
心の痛みが少しでも和らいでくれますように
ぎゅ
と心を込めて抱きしめる
「ボゥ……」
祈りが伝わったのか
心が通じたのか
牛はいつしか暴れるのをやめて
地に伏した
ナイラは牛の背から降りて
横に膝をつくとそっと両腕をのせる
抱きかかえるように
重くないように
「出る恵みを
彼の者に与え給え──
完全回復」
* * *
安眠テントを五階に置いてきているから
所持品はナップザックに回復系の道具と
食料を多めに持ってきている
それらが入ったナップザックを
枕にしているので
目覚めは少しつらかった
肩が凝り固まってバリバリだ
次に寝る時は他の階に行ける機構──
階段か転送陣のそばに安眠テントを張って
と思っていたナイラである
どうして自分は眠っていたのか
どうしてこんな危険な階で
テントなしで眠って無事だったのか
あれこれ考えて
少しずつ疑問を片付けていく
完全回復の魔法をかけて
魔力が底をついたのだ
人は魔力が空になると
時も場所も構わず眠ってしまう
次に自分が無事でいる理由
これは目を開けて周囲を見たら
すぐに気付いた
牛たちがナイラの周りをぐるりと取り囲んでいる
おそらく守ってくれていたのだろう
「あの……私
……ありがとう……」
通じないかもしれないと思った
けれど言葉以外に伝える術を持たなかった
だから告げた礼の言葉
けれどあの牛は
それを受けようとしなかった
ナイラを囲んでいた円陣から
一歩進み出て言う
『……どうして?』
脳に直接語りかけるような声は
女性のものだった
人語を解する獣がいたのかと思ったが
これはもしかすると
ヒーリアの副作用かもしれない
他の牛からの声は聞こえてこないから
『どうして放っておいてくれなかったの
いっそ死んでしまいたかった
せめて痛みを感じていたかったのに』
「……!
ご ごめんなさい……
あなたあの子のお母さんなんですよね?
私 親御さんの気持ちなんて知りもしないで
でもお子さんはそんなことしても
嬉しくないと思います
お母さんの愛情だけが
幼子の魂の救いになるって」
『それをどうしておまえが決めるの!
あの子にはもう
あたしの声は届かない
愛してるって何度繰り返しても
もうここには戻ってこないのに』
「あの……」
『もう行って!
怪我を治された恩があるから一晩は守ったわ
でももう二度とおまえを助けたりしない』
明確な拒絶は悲しくて
明らかな敵意は寂しくて
ナイラは今にも泣き出しそうになりながら
締めつけられる胸元に手を添えて
深くお辞儀した
「一晩ありがとうございました!
助かりました!」
身を起こして姿勢を正すと
周囲へも数回に分けて礼を落とす
そうしてナップザックを背負うと
凝りすぎて痛む肩を回しつつ
水場を後にした
その時
違和感はあったのだ
そう
なぜ
ナップザックを
枕にしていた?
目を覚ました時
寝姿勢も整っていた
なぜ?
牛たちに
そこまで気を遣わせたとは
考えづらかった
それなら誰かが?
そこまでは考えたが
そこから先の答えはとんと出ず
ひとまず考えないようにして
浮遊の羽根で六階上空へと飛び上がった




