第2話 護衛は筋肉語しか喋らない
旅立ちの朝、王都の門の前で、レオナは私の背中を見て首を傾げた。
「なんだその荷物は」
「必要最低限の本です」
「七冊が最低限なのか?」
「削りに削って七冊です。昨日の夜、泣きながら選びました」
本当は十五冊持って行きたかった。
けれど、背負った瞬間に膝が笑ったので諦めた。冒険とは、何かを捨てることから始まるのだと、出発前にして早くも学んでしまった。
「まあいい。重いなら、クラウスに任せればいい」
レオナが顎で示すと、クラウスが無言で私の前に屈んだ。
そして、私を荷物ごとひょいと持ち上げ、そのまま自分の肩に乗せた。
「え、あの、え?」
視界が一気に高くなる。
地面が遠い。二階の窓から下を覗いているみたいだ。
「三角筋」
「『乗れ』と言っている」
「もう乗ってます! 乗せられてます! 降ろしてください!」
「本人いわく、負荷トレも兼ねているらしい。君が乗っている方が、クラウスも嬉しいんだ」
「僧帽筋」
「ほらな」
「その『僧帽筋』、昨日も聞きました! 便利すぎませんか僧帽筋!?」
結局、降ろしてはもらえなかった。
クラウスの肩は岩のように硬くて、そして驚くほど揺れなかった。
歩いているはずなのに、まるで水平に滑っているような安定感がある。たぶん、体の芯がまったくぶれていないのだ。
悔しいけれど、乗り心地は馬車よりいい。
◇
街道を北へ進む間、私は鞄から手帳を取り出して、新しい頁に見出しを書いた。
『筋肉語辞典』
読めないものがあると、読めるようにしたくなる。
これはもう、性分なので仕方がない。
僧帽筋——よろしく。嬉しい。(汎用性が高い)
上腕二頭筋——無事でよかった。安心。
広背筋——軽い。(失礼)
三角筋——乗れ。(拒否権なし)
「レオナさんは、どうやってクラウスさんの言葉が分かるようになったんですか?」
「勘だ」
「勘」
「あと、外れても特に困らない」
「困ってください。私の命が懸かってるんです」
前を歩くエルダーは、相変わらず白目のまま、何かをぽりぽりと齧っていた。
手に持っているのは、どう見ても道端の木の根っこだった。
「あれ、何を食べてるんですか」
「道端の何かだ」
「答えになってません」
「エルダーに好き嫌いはない。食べられるかどうかは、だいたい食べてから考える」
「順番が逆なんですよ!」
◇
昼過ぎのことだった。
街道沿いの林が、ざわりと鳴った。
茂みの奥で、赤い光がいくつも灯る。目だ。
低い唸り声と共に現れたのは、赤黒い毛並みの狼の群れだった。
一、二、三……ざっと二十頭はいる。
全身の血の気が引いた。
「ブ、ブラッドウルフです!」
私はクラウスの肩の上で、半ば悲鳴のように叫んだ。
こういう時、口から出てくるのは祈りではなく、読んだ本の内容だった。
「『王国魔物大鑑』第三版によれば、群れで獲物を囲み、まず最も弱い個体から狙う習性があって——最も弱い個体って私ですよね!? ここで一番弱いの、明らかに私ですよね!?」
「落ち着け、セシル」
「弱点は鼻先です! それから火を嫌うので、松明か何かがあれば牽制に——」
言い終わる前に、エルダーの姿が消えた。
正確には、消えたように見えた。
次の瞬間には、群れの真ん中で大剣が一閃していて、五頭がまとめて宙を舞っていた。
レオナが笑いながら突っ込んでいく。
アッハッハッハッハッ、という笑い声と一緒に、狼が次々と地面に転がっていく。剣の軌道がまったく見えない。
一頭が、群れの外側から回り込んで、私に飛びかかってきた。
牙が、目の前に——
ぺしっ。
軽い音がした。
クラウスが、片手の指で狼の額を弾いていた。
いわゆる、デコピンだった。
狼は、きれいな放物線を描いて林の向こうへ飛んでいき、見えなくなった。
静寂が戻る。
時間にして、たぶん、十秒も経っていない。
「……あの」
私はおそるおそる口を開いた。
「火を嫌う、のところまでしか言えませんでした」
「うむ。まったく聞いてなかった!」
「ですよね!」
レオナは剣を鞘に収めて、満足そうに頷いた。
返り血ひとつ浴びていない。
ふと見ると、エルダーが倒れた狼の傍らにしゃがみ込んでいた。
嫌な予感がした。
「エルダー、生はやめろと言っているだろう」
「……ソル・ミラ」
「やめてください! 何て言ったのか分からないけど絶対やめてください!」
◇
その日の夕方、野営の準備をしながら、私はついに堪えきれなくなって言った。
「私、本当に要りませんよね?」
狼の時もそうだったが、私は叫んでいただけだ。
いや、叫んでいただけならまだいい。解説していただけだ。誰も聞いていない解説を。
「要るさ」
レオナは即答した。そして、手に持っていた籠を私に差し出した。
「例えば、これだ。夕飯のキノコを採ってきたんだが、食べられるか分かるか?」
籠を覗き込んで、私は固まった。
「……これ、ヨイヤミダケです」
「ほう」
「一口食べると三日三晩笑い続けて、最後は呼吸ができなくなって死にます」
「ほう!」
「感心してる場合じゃないです! 全部捨ててください!」
その時、横から伸びてきた太い指が、籠のキノコをひとつまみ持っていった。
クラウスだった。
止める間もなく、口に放り込んでいた。
「クラウスさん!?」
もぐもぐ。ごくん。
「……腹直筋」
「『平気だ』と言っている」
「平気なわけ——」
平気そうだった。
笑い出す気配すらない。顔色ひとつ変わらない。
「……毒って、筋肉で分解できるものでしたっけ」
「できるんじゃないか? クラウスだし」
「そんな理屈は、どの本にも書いてありません」
「だがな、セシル。こういうことが、我々には分からないんだ。去年これを食べて、私とクラウスは三日寝込んだ」
「去年は効いたんですね……」
「エルダーは平気だった」
「エルダーさんは何なんですか」
レオナは籠を逆さにして、キノコを全部茂みに捨てた。
「だから、君がいてくれると助かる。それは本当だ」
アッハッハ、とまた笑う。
冗談なのか本気なのか、よく分からない人だ。
◇
夜が更けた。
レオナは焚き火の傍で、大の字になって寝ている。エルダーは木にもたれて座ったまま、白目で微動だにしない。寝ているのかどうかすら分からない。
私は、眠れなかった。
林の奥で、何かが鳴いている。
風が吹くたびに、どこかで枝が軋む。
本で読んだ夜の森と、本物の夜の森は、全然違った。音がする。匂いがする。そして、寒い。
外套にくるまって膝を抱えていると、ふと、風が止んだことに気づいた。
顔を上げる。
私のすぐ隣に、クラウスが座っていた。
ちょうど、風が吹いてくる方角だった。
大きな背中が、壁のように夜風を遮っている。
「……風よけ、してくれてるんですか?」
クラウスは、こちらを見ずに答えた。
「大胸筋」
「……ええと」
手帳をめくる。載っていない。
「『大丈夫』、ですか?」
返事はなかった。
違ったらしい。
私は手帳に「大胸筋——?」とだけ書き足して、頁を閉じた。
いつか分かる日が来るだろうか。
見上げると、木々の隙間から星空が覗いていた。
北の空に、七つの星が並んでいる。
『天体魔術概論』の挿絵で、何度も見た星座だった。
本の中では、ただの点と線だったもの。
それが本当に、そこにあった。
冒険はやっぱり怖い。
けれど、それはほんの少しだけ、きれいだった。
◇
翌日の昼。
私たちの前に、切り立った岩山がそびえていた。
街道は、そこで途切れている。
代わりに、岩肌にぽっかりと口を開けた洞窟があった。入り口の両脇には、古びた石柱が立っている。
ダンジョンだ。
「山を越える道は、ここしかない」
レオナが言った。
「懐かしいな。前に3日かかったのは、ここだ」
「え」
私はクラウスの肩の上で、思わず身を乗り出した。
「ここなんですか!? あの、壁を破ったっていう!?」
「ああ。確か、入ってすぐの壁に、我々が開けた大穴が——」
レオナが松明を掲げて、洞窟に一歩踏み込む。
そして、そこで足を止めた。
松明の光に照らされた岩壁は、つるりと滑らかだった。
穴など、どこにもない。
それどころか、壁の表面には、髪の毛ほどの細い光の線が、びっしりと走っていた。
まるで、何かの文字のように。
「……直ってる」
私の背中を、冷たいものが滑り落ちていった。




