第九十九話 大洪水が希望村へ迫ったので、エリクは最後の一人を助けるために村へ戻った
希望村。
深夜。
――カン! カン! カン!
鐘が鳴り響いた。
「……洪水だ!」
村人たちが叫んだ。
「高台へ逃げろ!」
「子供を先に!」
「荷車を出せ!」
エリクは、広場で避難を指揮していた。
「……人数を確認!」
担当者が帳簿を開いた。
「子供たち、全員確認!」
「高齢者、確認!」
「病人、確認!」
エリクは頷いた。
「……よし」
そのとき。
一人の少女が叫んだ。
「……おじいちゃんがいない!」
エリクが振り返った。
「……何だって!?」
少女は、泣きながら答えた。
「家にいるの!」
「足が痛くて、動けないって……!」
エリクは、息を呑んだ。
「……どこの家?」
少女は、川沿いの古い家を指さした。
エリクは、すぐに走り出そうとした。
だが、「……待て!」
兵士が腕を掴んだ。
「もう危険だ!」
エリクは叫んだ。
「でも、人が残っている!」
兵士は首を振った。
「水が来ている!」
エリクは、拳を握った。
そのとき。
遠くで、大きな音がした。
――ゴォォォォッ!
川の水が、堤防を越え始めていた。
「……まずい!」
エリクは、兵士を見つめた。
「……救助隊を頼む!」
兵士は頷いた。
「分かった!」
エリクは、救助用の綱を受け取った。
そして、二人の兵士とともに村へ向かった。
川沿いの家。
「……誰か!」
エリクが叫んだ。
「いますか!」
家の中から、かすかな声がした。
「……ここだ」
エリクは扉を開けた。
老人が、床に座っていた。
「……立てんのだ」
エリクは駆け寄った。
「……大丈夫です!」
老人は、驚いた顔をした。
「……お前、なぜ戻ってきた?」
エリクは笑った。
「迎えに来ました」
老人は、首を振った。
「……わしはいい」
エリクは、黙った。
老人は続けた。
「もう十分、生きた」
「若い者が、危険を冒すことはない」
エリクは、静かに答えた。
「……駄目です」
老人が顔を上げた。
エリクは続けた。
「あなたの孫が、待っています」
老人の目に、涙が浮かんだ。
「……あの子が?」
「はい」
エリクは頷いた。
「一緒に帰りましょう」
兵士たちが老人を担架に乗せた。
外へ出る。
だが、水が、すでに道へ流れ込んでいた。
数日前のことを、ふと思い出した。
エリクが戻ると告げた瞬間、クリスが腕をつかんだ。
「兄さんまで流されたら、どうするの」
「……分からない」
強がる言葉は出なかった。
「でも、あの家の場所を知っているのは俺だ」
クリスは唇を噛み、縄を差し出した。
「腰に結んで。私たちが高台から引く」
エリクは頷いた。
一人で英雄になるつもりはなかった。
誰かを助けるためには、自分も助けてもらわなければならない。
「必ず戻る」
今度は約束ではなく、仲間と作った計画だった。
「……急げ!」
兵士が叫んだ。
エリクは、綱を握りしめた。
一歩。
また一歩。
慎重に進む。
そして、「……高台だ!」
遠くから声がした。
救助隊が、こちらへ向かっていた。
エリクは叫んだ。
「……老人が一人!」
救助隊が駆け寄った。
担架を受け取る。
そして、全員が、高台へ到着した。
数分後。
希望村の低地へ、大量の水が流れ込んだ。
家が浸水する。
畑が水に沈む。
倉庫の一部が流される。
村人たちは、高台からその光景を見つめていた。
「……家が」
一人の女性が呟いた。
「……私たちの家が」
エリクは、黙った。
少女が、老人に抱きついた。
「……おじいちゃん!」
老人は、涙を流した。
「……すまんな」
少女は首を振った。
「……よかった」
エリクは、その光景を見つめた。
家は失われた。
畑も水没した。
だが、人々は、生きていた。
エリクは、静かに呟いた。
「……これで、よかったんだ」
そのとき。
遠くの空が、少しずつ明るくなり始めた。
長い夜が、終わろうとしていた。
エリクが村へ戻ると、最後の家の戸が内側から閉じられていた。
「出てきてくれ!」と叫ぶ。
中から小さな声がした。
「おばあちゃんが歩けない」
エリクは戸を押し開けた。
少女が毛布を抱えている。
「一緒に行こう。荷物は置いていい」
老人を背負うと、足元で水が音を立てた。
英雄になりたいわけじゃない。
昔、母が自分にしてくれたように、目の前の人を置いていけなかった。




