第九十八話 氷の壁が崩れ始めたので、カールは三万人を救うために橋を壊す決断をした
ルーデン川上流。
監視所。
「……水位が下がっています!」
兵士が叫んだ。
カールは、報告書を受け取った。
「……湖の水位が?」
「はい!」
「……下流は?」
「急激に増水しています!」
カールは、地図を広げた。
氷の壁が崩れ始めた。
大量の水が、川を流れ下っている。
「……まずい」
そのとき。
悠真が駆け込んできた。
「……カールさん!」
「悠真!」
「下流の村には、連絡しましたか?」
「すでに伝令を出した!」
悠真は頷いた。
「……よかった」
カールは、地図を指さした。
「だが、問題がある」
「……何ですか?」
「この橋だ」
カールが指さしたのは、ルーデン川中流の古い石橋だった。
橋の下には、流木や土砂がたまり始めていた。
「……このままでは、水の流れを塞ぐ可能性がある」
悠真は、顔をしかめた。
「……橋が堰になってしまうんですね」
カールは頷いた。
「そうだ」
「さらに水位が上がれば、周囲の堤防を越えるかもしれん」
悠真は、しばらく考えた。
「……流木を取り除けませんか?」
カールは首を振った。
「すでに危険な水位だ。兵士を近づけられん」
沈黙。
カールは、静かに言った。
「……橋を壊す」
悠真は、息を呑んだ。
「……何ですって?」
カールは続けた。
「橋を撤去すれば、水の流れを確保できる可能性がある」
悠真は、地図を見つめた。
橋は、北部の重要な輸送路だった。
食料。
薪。
医療物資。
すべてが、この橋を通っていた。
「……橋を壊したら、輸送が止まります」
悠真が言った。
カールは頷いた。
「分かっている」
「……でも」
カールは、静かに続けた。
「橋を残して町が水没すれば、もっと大きな被害が出る」
悠真は、黙った。
カールは続けた。
「……ただし、撤去でかえって危険が増す可能性もある」
「だから、工兵と治水担当者に判断させる」
悠真は頷いた。
「……お願いします」
数時間後。
現地の調査結果が届いた。
橋の下には、大量の流木が詰まっていた。
数日前のことを、ふと思い出した。
橋の向こうには、まだ逃げてくる荷車が見えた。
「壊せば、あの者たちは渡れません!」
副官の声に、カールは歯を食いしばった。
悠真が地図を指さす。
「東の高台へ回る道があります。伝令を出せば、間に合うかもしれません」
「かもしれない、か」
カールは橋と下流の集落を見比べた。
決壊した流木が橋に詰まれば、水は堤を越え、三万人の避難先を襲う。
「東へ誘導しろ。残った者の確認が済むまで、破壊の合図は出すな」
兵士が走った。
その数分が、カールには戦場の一時間より長かった。
すでに水位は上昇している。
工兵隊長は、報告した。
「……橋の一部を撤去し、流れを確保することを提案します」
カールが尋ねた。
「……安全にできるか?」
「周辺住民を退避させたうえで、遠隔操作できる方法を用います」
「……分かった」
カールは頷いた。
「実行せよ」
その日の夕方。
古い石橋の一部が、計画的に撤去された。
大きな音が響いた。
――ゴゴゴゴッ!
橋の一部が崩れ落ちる。
詰まっていた流木が流れ始めた。
水の流れが変わった。
悠真は、遠くから見守っていた。
「……頼む」
カールも、拳を握っていた。
やがて。
工兵隊長が報告した。
「……水位の上昇が、いったん緩やかになりました!」
カールは、ほっと息を吐いた。
「……よし」
だが、その直後。
上流の監視所から、新しい報告が届いた。
【氷の壁、さらに崩壊】
【大量の水が流出】
【下流への洪水到達が早まる見込み】
カールは、顔を上げた。
「……まだ終わっていない」
悠真も頷いた。
「……避難を急ぎましょう」
橋を壊すと決めたあと、カールは渡河路を使っていた集落の代表を呼んだ。
「橋がなくなれば、病人を王都へ運べません」
「分かっている。仮設の渡し場と迂回路を準備する。だが今は、下流の三万人が危険だ」
代表は唇を噛んだ。
「橋を守って死ぬか、橋を壊して生きるか、そんな選択なのか」
カールは答えた。
「そうだ。だから決めた責任は私が負う」
爆破の合図を出す直前、彼は橋の上に人影がないことをもう一度確かめさせた。
命令は一瞬でも、その後の暮らしは何年も続く。




