第九十四話 洪水が来ると村人に伝えたら、誰も家を捨てようとしなかった
希望村。
集会所。
「……避難?」
村人たちが顔を見合わせた。
エリクは頷いた。
「はい」
「どうしてだ?」
一人の男が尋ねた。
エリクは地図を広げた。
「北方で、氷河が川を塞いでいます」
「その氷が崩れると、大量の水が流れてくる可能性があります」
男は首を傾げた。
「……でも、ここは川から離れているぞ」
エリクは頷いた。
「本流からは離れています」
「なら、大丈夫じゃないか!」
エリクは首を振った。
「低い土地に水が流れ込む可能性があります」
村人たちは黙った。
そのとき。
一人の老人が口を開いた。
「……わしは、ここを離れん」
エリクが顔を上げた。
「……どうしてですか?」
老人は、静かに答えた。
「やっと家ができたんだ」
沈黙。
老人は続けた。
「故郷を捨てて、国境を越えて、ようやくここに住めるようになった」
「畑も作った」
「孫のために、木も植えた」
そして、「また家を捨てろと言うのか?」
エリクは、言葉を失った。
村人たちも頷いた。
「そうだ!」
「ここまで来るのに、どれだけ苦労したと思ってる!」
「今度こそ、ここで暮らすんだ!」
エリクは、拳を握った。
彼らの気持ちは分かった。
ようやく手に入れた生活。
それを、また失うかもしれない。
だが、「……皆さん」
エリクは、静かに言った。
「家を捨ててくださいとは言いません」
村人たちが顔を上げた。
エリクは続けた。
「まずは、一時的に高い場所へ避難してほしいんです」
「……一時的に?」
「はい」
「危険が去ったら、戻れるかどうか確認します」
老人は、しばらく黙っていた。
エリクは続けた。
「家も畑も、大切です」
「でも……」
そして、「命を失ったら、戻ることもできません」
沈黙。
老人は、俯いた。
避難勧告を受けた老人は、戸口から動かなかった。
「ここには、妻の墓がある」
エリクは老人の隣に座った。
「墓は残せるかもしれない。でも、あなたが死んだら、誰がその話を子供に伝える」
老人は長く黙った。
「帰って来られるか」
「分からない。けれど、戻るためにも今は生きてほしい」
老人はようやく立ち上がり、壁に掛けた小さな写真を胸に抱いた。
エリクは、静かに続けた。
「俺も、昔は飢えていました」
「家を失う怖さも、食べ物がなくなる怖さも、少しは分かります」
「だからこそ、生きていてほしいんです」
老人は、しばらく黙っていた。
そして、「……孫だけでも、先に避難させてくれ」
エリクは頷いた。
数日前のことを、ふと思い出した。
老人の家の前で、エリクは靴を脱いだ。
室内には、亡くなった妻の写真代わりに描かれた小さな肖像があった。
「ここを離れたら、あいつとの暮らしまでなくなる気がするんだ」
エリクは返事に迷った。
やがて、壁の肖像をそっと外した。
「これも持って行きましょう。家を守るために、命を失ってほしくない」
老人は長く黙ったあと、肖像を抱きしめた。
「……避難先に、畑はあるか」
「小さな畑なら。俺が案内します」
その日、老人は初めて荷造りを始めた。
「もちろんです」
こうして、希望村では避難準備が始まった。
子供。
病人。
高齢者。
まずは移動に時間のかかる人々から、高台の施設へ移す。
食料と水を運ぶ。
家畜の移動先も決める。
重要な書類や種子を、防水した箱に入れる。
だが、村の半数近くは、まだ避難を拒んでいた。
エリクは、夕暮れの村を見つめた。
「……どうすればいいんだ」
そのとき。
一人の少女が近づいてきた。
「……エリクさん」
「どうしたの?」
少女は尋ねた。
「……洪水が来たら、私たちの家はなくなるの?」
エリクは、しばらく黙った。
そして、「……分からない」
正直に答えた。
少女は俯いた。
エリクは続けた。
「でも、君たちが生きていれば、また家を作れる」
少女は顔を上げた。
エリクは笑った。
「俺も手伝うよ」
少女は、小さく頷いた。
「……約束だよ」
「うん」
エリクは頷いた。
「約束する」




