第八十二話 飢えた隣国の人々が国境に押し寄せたので、エリクは十年前に置いた剣をもう一度拾った
アルディナ王国とヴァルシア王国の国境。
かつて、十万の軍勢が集結した平原。
そこに、今度は別の人々が集まっていた。
兵士ではない。
農民。
老人。
女性。
子供。
荷車を引く家族。
幼い子供を背負う父親。
疲れ果てた母親。
その数は、すでに数千人に達していた。
「……食べ物を!」
「子供だけでも助けてくれ!」
「村には、もう何もないんだ!」
国境の検問所では、兵士たちが対応に追われていた。
カールは、報告を受けていた。
「……人数は?」
「現在、約三千人です!」
「……さらに増える見込みか?」
「はい!」
カールは、深いため息をついた。
「……悠真は?」
「こちらへ向かっています!」
数時間後。
悠真とエリクが、国境へ到着した。
「……これは」
悠真は、言葉を失った。
目の前には、疲れ果てた人々がいた。
泣いている子供。
座り込む老人。
動けなくなった人々。
エリクは、拳を握った。
「……十年前と同じだ」
悠真が顔を上げた。
「……エリク?」
エリクは続けた。
「俺たちも、こうだった」
「食べ物がなくて」
「どうすればいいか分からなくて」
「誰かに助けてほしくて」
悠真は黙った。
エリクは、静かに言った。
「……助けよう」
悠真は頷いた。
「……うん」
そのとき。
検問所の兵士が叫んだ。
「……止まれ!」
一人の男が、検問所へ走ってきた。
「……通してくれ!」
男は、幼い少女を抱えていた。
「娘が……!」
兵士が駆け寄った。
「……どうした!?」
「三日も、まともに食べていないんだ!」
男は叫んだ。
「お願いだ! 助けてくれ!」
エリクは、すぐに駆け寄った。
「……医療担当者を!」
悠真も叫んだ。
「休養所を開けてください!」
少女は、すぐに医療担当者へ引き渡された。
父親は、その場に崩れ落ちた。
「……ありがとうございます」
エリクは、静かに答えた。
「まだ、礼を言うのは早いです」
そして、「娘さんが元気になるまで、支えます」
父親は、泣きながら頷いた。
その夜。
国境の仮設会議所。
カール、悠真、エリク、ルドルフ、そして両国の役人たちが集まっていた。
「……避難民を受け入れるには、食料が必要です」
悠真が言った。
カールは頷いた。
「分かっている」
ルドルフは、深く頭を下げた。
「……申し訳ありません」
悠真は首を振った。
「謝らないでください」
ルドルフは続けた。
「我が国の北部では、食料が不足しています」
「村を離れた人々を、すぐに戻すこともできません」
エリクが尋ねた。
「……どうすればいい?」
悠真は、地図を広げた。
「まず、国境に一時的な避難所を作りましょう」
「食料と水を確保します」
「医療担当者を配置します」
「そして、人数と必要な支援を記録します」
カールは頷いた。
「……警備は任せろ」
そのとき。
一人の兵士が、慌てて飛び込んできた。
「……隊長!」
カールが顔を上げた。
「何だ!」
「避難民の一部が、食料倉庫へ押しかけています!」
会議室が静まり返った。
兵士は続けた。
「食料を奪おうとする者が出ています!」
カールは、立ち上がった。
「……行くぞ!」
エリクも立ち上がった。
「俺も行く!」
悠真が尋ねた。
「……エリク?」
エリクは、静かに答えた。
「……食料を守らないと」
そして、腰に下げていた剣に手を置いた。
十年前。
村の鍛冶屋ガルムから受け取った剣。
飢えた人々を傷つけるためではなく、食料と命を守るための剣だった。
エリクは、その剣を抜かなかった。
ただ、鞘ごと握りしめた。
国境の食料倉庫。
「……食べ物を出せ!」
男たちが叫んでいた。
「俺たちは飢えているんだ!」
兵士たちが、倉庫の前に立っていた。
「……落ち着いてください!」
「順番に配給します!」
だが、人々は聞かなかった。
「順番なんか待てるか!」
「子供が死にそうなんだ!」
そのとき。
「……待ってくれ!」
エリクの声が響いた。
人々が振り返った。
エリクは、ゆっくりと前へ進んだ。
「……俺も、昔は飢えていた」
男たちが黙った。
エリクは続けた。
「母さんが、食べ物を俺たちに分けてくれていた」
「そのせいで、母さんは死にかけた」
一人の男が顔を上げた。
エリクは、静かに言った。
「だから、分かる」
「食べ物がないとき、どれだけ怖いか」
男たちは黙った。
エリクは続けた。
国境の柵の向こうで、少年が石を握りしめていた。
「どうせ追い返すんだろ!」
エリクは剣を鞘に戻したまま近づいた。
「ここで斬り合えば、誰も畑に帰れない」
「畑なんて、雪で全部死んだ!」
その叫びに、エリクは返す言葉を失った。
十年前、同じ言葉を自分も吐いた気がした。
後方で兵士が食料袋を数えている。
エリクは列を分けさせ、乳児を抱く家族を先に屋根のある場所へ誘導した。
「入れる人数には限りがある。でも、名前を消したりはしない」
少年は石を落とした。
音は小さかった。
それでもエリクには、剣が地面に落ちる音より重く聞こえた。
「でも、ここで倉庫を壊したら、食料が無駄になる」
「誰がどれだけ受け取ったか分からなくなる」
「そして、本当に必要な人に届かなくなる」
一人の男が叫んだ。
「……じゃあ、どうすればいいんだ!」
エリクは答えた。
「今から、配給を始める」
男は息を呑んだ。
「……本当か?」
「本当だ」
エリクは頷いた。
「ただし、子供や病人を先にする」
沈黙。
エリクは続けた。
「それでもいいか?」
男たちは、顔を見合わせた。
そして、一人の男が、静かに頷いた。
「……分かった」
別の男も頷いた。
「……子供たちを先にしてくれ」
エリクは、ほっと息を吐いた。
「……ありがとう」
その夜。
国境の食料倉庫では、緊急配給が始まった。
子供たち。
病人。
高齢者。
そして、ほかの避難民たち。
全員が、順番に食料を受け取った。
深夜。
エリクは、倉庫の前に座っていた。
悠真が隣に座った。
「……お疲れさま」
エリクは笑った。
「……疲れた」
悠真も笑った。
「だろうね」
しばらく、二人は黙っていた。
そして、エリクが、静かに言った。
「……悠真」
「何?」
「十年前、俺は剣を持って戦おうとした」
悠真は頷いた。
「……うん」
エリクは続けた。
「でも、今日は剣を抜かなかった」
悠真は、静かに答えた。
「……それでよかったと思う」
エリクは、鞘に収まった剣を見つめた。
「……そうだな」
そして、「剣を使わずに守れるなら、それが一番いい」
悠真は頷いた。
「……うん」
二人は、夜空を見上げた。
冷たい風が吹いていた。
国境の向こうには、まだ多くの飢えた人々がいた。
そして、さらに北方では、異常な寒さが続いていた。
そのころ。
王都アルディア。
王立学術院。
老学者エドガーは、新しい気象記録を見つめていた。
「……おかしい」
助手が尋ねた。
「……何がですか?」
エドガーは、震える指で記録を指さした。
「気温が……下がり続けている」
助手は、息を呑んだ。
「……まさか」
エドガーは、静かに続けた。
「これは、一年だけの冷害ではないかもしれん」
そして、「数年間、寒冷な気候が続く可能性がある」
助手は、言葉を失った。
エドガーは、窓の外を見つめた。
まだ夏のはずだった。
だが、王都の夜風は、まるで冬のように冷たかった。
「……高橋悠真に、知らせなければ」
老人は、震える手で手紙を書き始めた。
『悠真殿』
『我々の予測は、甘かったのかもしれません』
『今回の異常低温は、単なる一時的な凶作ではなく――』
そこで、エドガーの筆が止まった。
そして、最後の一文を書き加えた。
『王国は、長い冬に備えなければなりません』




